15 作品、パトロン、帰り道


尾形が別宅から作品集を持ってきてくれた。芸術家の友人の伝手で油絵や彫刻なら多少心得があるが、そのほかは美術館に展示されている絵画を見るくらいなものだった。だから写真家の作品をそれとして意識をして見るのはこれが初めてのことだった。

「凄い……これ、どこの写真なの?」
「この作品集は北海道だ。前半は道東中心で……ここは根室だな」

尾形はナマエの開いたページにそう説明を添える。北海道は広すぎて地理がピンとこないが、根室と言われれば大体地図でどのあたりか思い浮かべることが出来た。尾形によれば、根室は概ね低平な土地であり、山岳や大きな河川はないのだという。半島の東端は周囲に暗礁が多くあり、濃霧が深く航海上の難所として知られているらしい。尾形の写真はまさに港から深い霧を写し取ったものだった。

「おが……百之助は北海道好きなの?」
「べつに。好きも嫌いもねぇよ。ただまぁ……面白い自然が撮れるって意味では、悪くはねぇと思っちゃいるが」
「ふふ、それって好きってことでしょ?」

ナマエの返しに尾形はむっと口を噤み、図星を突かれたとばかりに髪をナデナデと撫でつける。寡黙な印象のせいか取っつきにくい彼だけれど、話してみればみるほどに可愛らしい面はいくらでも見つけることが出来た。

「お前は」
「え?」
「お前はどんなところが好きだ?」

不意に飛んできた質問に「ううん」と少し考えを巡らせ、頭の中に今まで行ったことのある旅行先をあれこれと思い浮かべてみる。さほどアクティブな方じゃないし、いろんなところに行って写真を撮って回っているような尾形に比べれば圧倒的に経験が少ない。彼からすれば陳腐なところくらいしかないだろうが、と思いながらも今までの印象深かった場所をひとつふたつ挙げた。

「国内だと…高野山がすごかったなって思う。あと、台湾に行ったことがあって、すごくベタな観光地しか行ってないんだけど、九とかはやっぱり映画のセットみたいでカッコ良かったなぁって」
「九か。まぁ確かにあそこは日本じゃなかなか見れねぇ景観だな」
「うん。写真いっぱい撮っちゃった。あ、もちろん本格的なのじゃないんだけど…」

意外にも皮肉を交えることなく相槌を打ってくれたのが嬉しかった。水族館で尾形に言われてからなんとなく敬語を抜いて話すようになっていて、慣れてはいないけれど距離が縮まった証のようでむず痒い。

「でも、結構難しいね。私が行ったとき小雨降っててさぁ。なかなかパンフレットみたいには綺麗に撮れないんだなぁって」
「九は雨が多いんだ。だから宣材写真なんかを撮るのは大抵いつでも動ける現地の人間だぜ。天気のいい日を狙って撮りに行くんだ」

なるほど、確かに台湾旅行の際事前に購入した旅行ガイドにも九のあたりは天気が崩れがちだと書いてあったような気がする。たまたま足を運んだ海外の旅行者がベストショットを撮ろうというのは無理があるかもしれない。

「百之助は九の写真撮ったことある?」
「ああ。随分昔にな。作品集として残しちゃいないが」

それは残念だ。せっかくなら自分の見た景色を彼のレンズを通して見たいと思ったのに。ナマエは手元の作品集のページをめくる。テレビなどで見るよりも、尾形のレンズを通した北海道の情景は美しいもののように感じた。


なんだかんだと足が遠のいてしまっていたが、その日、ナマエの提案で呑み喰い屋房ちゃんに行こうという話になった。べつに大した理由はなかったが、お互い房太郎とも従業員とも充分に顔見知りなのに雁首揃えて行くのは気が引けていた。

「こんばんはー」
「おー、ナマエちゃんいらっしゃい。尾形もいる?」
「あ、はい。二人空いてますか?」
「空いてる空いてる」

いつも通りの気さくな声音で房太郎がナマエと尾形を迎え入れる。奥に座って、と言われたから、勝手に空いているテーブル席に腰かけた。少し遅れて辺見がおしぼりを持って注文を取りに来て、生中ふたつと適当に目についたつまみを注文していく。尾形は何も言わないが、文句がある時はきっちり口に出す方だと最近気が付いたので、黙っていることに「不満があるのだろうか」と思うことは少なくなった。

「乾杯」
「ん」

運ばれてきたジョッキで乾杯をする。今までは飲みの席でもなければいつも一人で酒を飲んでいて、べつにそれを気に入っていた。けれど尾形と過ごすようになって一緒に食事をして酒をたしなむようになり、また違う幸福感を感じることが出来る。

「はいナマエちゃん、これサービスな」
「いいんですか?ありがとうございます」
「いいのいいの。今日メバルが思ったよりたくさん釣れたから」
「房太郎さんが釣ったんですか?」
「そうそう」

店主の房太郎は今日もコミュニケーション能力のバケモノである。厨房をふらっと出てメバルの煮つけの乗った皿をサービスだと持ってきた。自分で目利きをして仕入れるのは勿論だが、特に魚に関してはこうして房太郎自ら釣りに出向くということも少なくない。入りのいい日はこうして客に大盤振る舞いするのがいつものことで、客を楽しませたいと思っている房太郎の人柄がよく出ている。

「で、ナマエちゃんは尾形の女になったの?」
「えっ」

じっと見透かすように房太郎がナマエを見つめる。別に隠しているわけではないけれど、言ってしまっていいものなのだろうか。そう逡巡していると、向かいから尾形が「そうだ」と肯定した。

「へぇ。尾形がきっぱりそう言うなんて珍しいなぁ」
「ナマエは俺の女なんだから変なちょっかいをかけるな。それからいらん口出しをするな」
「おお、ますます珍しい」

房太郎はまるで珍獣を見るかのように尾形をしげしげと見つめる。尾形は居心地悪そうに舌打ちをした。真っ向からこうやって言われると照れくさい。尾形はあまりそう言うことをひとに言いたがらないタイプのようなイメージがあったけれども、白石と遭遇した日といい今日といい、そのイメージはナマエの勝手な思い込みのようだ。
尾形が房太郎をしっしと追い払うと、にやにやとしながらも厨房に戻っていって、尾形と二人で残されて何とも言えない空気が漂った。

「お、お料理冷めちゃうね!いま取り分けるから!」

何とも言い難い空気をどうにか打破しようとそう口を開いて、椅子から立ち上がると大皿に盛られた料理たちを尾形の皿に取り分けていく。ほかほかと湯気を上げる料理は今日も美味そうだ。

「んっ、今日も美味しいで」
「こういう味付けが好みか?」
「お酒があるときは濃い目の味が好きかもしれない。あ、でも百之助が作ってくれる料理も好きだけどね?」

尾形が伺うように視線を投げるからそう言ってやれば、尾形は唇を一文字に引き結んだままこくりと頷いた。こういうどこか無垢さを感じさせる仕草は、付き合いが深くなればなるほど垣間見る回数が増えるように感じた。

「おー、土方歳三じゃねぇか」

不意に房太郎の豪快な声が店内に響く。また常連さんが来たのか、と出入口を見れば、白髪を長く伸ばした端正な顔立ちの老紳士が立っていた。どこか高級感漂うスーツを身にまとっていて、失礼ながらどう見てもこの店の客層ではなかった。

「久しぶりだな、店の調子はどうだ?」
「まぁ上々だ。あんたらも飲んで行くだろ?」

客層ではなさそうに見えたが、きっちり飲み食いをしていくらしい。老紳士の後ろから帽子を被った小柄な老人が姿を現し、房太郎が案内をしようと方向転換をする。その瞬間に老紳士と目が合って、尾形が小さく舌打ちをした。
房太郎はナマエたちのテーブルの隣に二人を案内して、老紳士がにっこりとナマエに笑いかける。

「こんばんは、お嬢さん」
「こ、こんばんは…」
「それから百之助も」

老紳士はそのまま尾形に視線を移し、そうして名前を呼んだ。なんだ、尾形も知り合いだったのか。名前を呼ばれた尾形は面倒臭そうに二度ほどジョッキを傾けてもてあそび、それから「何で今日に限ってこんなとこ来るんだよ」と挨拶も省いて悪態をつく。

「なに、自分が出資した店なんだ。たまには顔を出さんとな」

に、と老紳士が片方の口端だけを上げる。余裕綽々な様子の老紳士に対して尾形はどこかバツが悪そうというか、居心地の悪そうなものを感じ、こんな表情を見せることもあるのかとどこか不思議な気持ちになった。

「あーナマエ。この爺さんが土方歳三。前この店に出資してる爺さんと知り合いだって言っただろ。それがこのジジイだ」

尾形の話によると、老紳士の名前は土方歳三。若い頃にいくつか会社を起業した資産家で、ゆえあって房太郎に店を出させるための資金繰りに協力したらしい。一緒にいる背の低い男の方は永倉新八といい、土方とは旧知の仲のようだ。

「初めまして、ミョウジナマエです」

ナマエが名乗りながらぺこりと会釈をすると、土方は「君のことは百之助から聞いている」と返した。自分の知らないところでまさか尾形がこうして話してくれているなんて想像もしていなかったから、なんだかくすぐったいものを感じる。

「おいジジイ、余計なこと言うなよ」
「少しくらいいいだろう。お前のそういう姿を見るのは久しぶりだからな」
「俺はあんたの孫か」

苦々しく言っている風ではあるが、どことなく楽しんでいるようにも見える。年齢的に接点はあまり見えてこないが、土方と尾形はどういう関係なのだろう。ひょっとして、尾形の写真に出資しているとかそういう関係でもあるのだろうか。
思わず土方を盗み見て、すると土方が「どうかしたかな」とナマエに尋ねる。正直にそのまま聞いていいかもわからないが、まぁ長い付き合いなのかどうかくらいは尋ねてもいいかもしれない、と勝手に結論付けて口を開いた。

「えっと、土方さんたちは百之助と長いお付き合いなんですか?」
「そうだな…もう十年以上にはなるか。これが学生の時分からの付き合いだ」

余計なことを言うな、とでも尾形が止めるかと思いきや、ナデナデと髪を撫でるばかりで土方を止めるような素振りはなかった。十年以上、ということは親戚の類でもないのか。謎は深まるような気もするけれど、プライベートを深堀するのも気が引ける。ナマエの思考を読むように土方がちらりと尾形に視線をやって、それから言葉を続けた。

「いわゆるパトロンというやつだ。なぁ、百之助?」
「ああ、そうだな。金ヅルだ」

まったく口が悪い。そうは思うも、土方も永倉も気を悪くしたような様子はなく穏やかな調子のままで、普段の調子だということはよくわかる。金ヅルなんてまた結構な言いっぷりで、無意識のうちに笑いがこぼれた。
話によれば、学費やら生活やらを多少援助した関係があり、それから何かと土方が世話を焼いているような関係らしい。こんなところでも野良猫のような甘え方を発揮しているのか。

「お前が刺されたから迎えに来いと連絡を寄越した時は流石に肝が冷えたぞ」
「うるせぇ」
「今は素敵な女性のところで厄介になっているようだから、安心しているよ」

土方の視線がナマエに向く。お世辞とわかっていても「素敵な女性」と形容されたのが照れくさくて、なんとか曖昧に笑った。

「これからも百之助のことを頼むよ、お嬢さん」
「余計なお世話だジジイ」

ナマエが答える前に尾形が先に土方の言葉を打ち返した。それから結局4人で同じテーブルに移り、あれこれと飲んで食べての酒宴になった。土方がすべて支払ってくれて、申し訳ないと思いつつもご馳走になることにした。ほろ酔い気分でマンションまでの道を尾形と並んで歩く。

「はぁー、すっかりご馳走になっちゃった」
「いいんだよ、ジジイは金余らしてるんだから払わせとけ」
「あはは、口悪い」

ふらふらと必要以上に両手を振って歩く。冬の空気は寒いけれど、酔っぱらっているからそのくらいが丁度いい。土方の若いころの話をあれこれと聞かせてもらったが、起業した数々の会社で起きた珍事件はどれも面白いものだった。

「もっと百之助の昔の話も聞きたかったなぁ」
「やめとけ。俺の話なんか聞いても面白くない」
「私は面白いよ?」

確かに自分の昔の話を離されるのは恥ずかしいところもあるだろう。自分が逆の立場だったら謹んで辞退したいところである。振っている手がこつん、と尾形にぶつかった。手を繋ごうかな、どうしようかな、と思っているうちに、尾形の指先がナマエの手を取り去っていく。はっと尾形の顔を見上げた。

「……なんだよ」
「ふふ、ふふふ…なんでもない」

つんと唇を尖らせる尾形に思わず笑いをこぼす。尾形は決して体温の高い方ではないけれど、寒い空気の中で繋がれる手のぬくもりははっきりとした輪郭を持っている。握った手にぎゅっと力を込める。びゅう、と耳の近くを冬の風が通り抜けていった。






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