14 別宅、詮索、ご落胤


プロの写真家なのだから、自分の作品を他人に見られるのが嫌だ、なんていう感覚は殆どない。しかしナマエに自分の今までの作品を見せると言うことには多少心の中が落ち着かないものがあった。
尾形はその日、こっそりと別宅へ足を向けると、きょろきょろ周囲を確認しながらマンションの鍵を開けた。こそこそとまるで泥棒のようにしているが、ここは紛うことなき尾形の自宅のひとつであり、こそこそするのは見つかりたくない人物がいるからだった。
先日荷物を取りに来たばかりだったし、さほど荒れているということもない。仕事部屋に入って、書棚に納めている作品集を取り出した。休業前に出した作品集よりひとつ古いもので、鶴見のギャラリーを介して発行したものだ。

「……モルディブか」

その作品集の真ん中あたりにあるページを開く。それが丁度モルディブで撮った作品だった。水中写真には専用の機材があれこれと必要だし、そもそも使う技術が違う。それでも一度は経験しておいた方が良いという鶴見の提案でしぶしぶモルディブに向かったのだ。
出来上がった写真を鶴見は大層お気に召していたが、正直なところ尾形はまったくもって納得がいっていなかった。美しい写真が撮れているけれど、この美しさはそこにある自然に頼りきっている。尾形の作風は確かに目の前の事実を精密に記録することであるが、これではどこぞの観光サイトの宣材写真と変わらない。

「は、目も当てられんな」

思えば、このころから不調の兆候はあったのではないだろうか。芸術家の端くれとして自分の作品を探求することは非常に重要なことだと考えるが、自分の作品を信じられなくなったらひとつの終わりだ、と思う。
尾形はその作品集を書棚に仕舞い、もうひとつ古いものを持ち込んだトートバッグに詰めた。この頃のほうが自分の作品にまだ納得がいっている。


別宅のマンションを出ると、また周囲を確認しながら大通りとは反対方向に向かった。だいたい彼が現れるときは自家用車で、だから車通りの多い道は避けて通りたかった。作品集を見たらナマエはなんて言うだろう。きっと彼女のことだから手放しに凄い凄いと誉めそやすのだろうが、きっと今まで評論家に言われてきたどんな言葉よりも嬉しいのではないかと思う。
不意にスマホが鳴り、嫌な予感を感じながらディスプレイを確認した。面倒な相手であることは間違いないが、尾形の想像した最悪のパターンではなかった。

「なんだ、ジジイ」
『なんだとは随分ご挨拶だな、百之助』
「うるせぇ。アンタが連絡を寄越すときは大抵ロクな話しじゃねぇ」
『ふふ…それを言うならお前もそうだろう。まったく、刺されたと聞いたときは肝を冷やしたぞ』

電話口の声は老年の男。彼は土方歳三といって、ちょっとした資産家で尾形のパトロンのような存在でもある。出資者に対して随分な態度であるが、これは昔からなのだから仕方がないし、土方はそのようなことで機嫌を損ねるような男ではなかった。

『今はどこに?別宅にも帰っていないだろう』
「あー、まぁ女のところで厄介になってる」
『女に刺されてまた女か。はは、お前も懲りんな』
「何言ってやがる。ジイさんには負けるぜ」

ナマエが今までの女性と違う存在であることはもう明白だったが、それをわざわざ説明してやるのも癪だと受け流す。だいたい自分などよりも土方のほうがよっぽど女関係の武勇伝を持っている。嗜められるようないわれはない。

「で、何の用だよ。まさか声が聴きたくなったってわけじゃあるまい」
『そう言ってやりたいところだが、別件だ。彼の使いがお前のことを尋ねてきてな』

彼、と言われ、尾形は顔をしかめる。固有名詞を出されなくてもわかる。今日まさに尾形が回避しようと躍起になっている相手だ。
尾形は低い声で「何も言ってねぇだろうな」と脅すように言って、土方は涼しい声で『私もお前の居所は知らなかったからな』と返した。

『お前を迎えに行ったマンションのことも話していない』
「は、お見通しってか」
『そりゃあ、お前が自宅でも別宅でも…まして私の隠れ家でもないところへ迎えに来いと言うんだからな。その部屋で何かがあったとは勘繰って当然だろう』

ナマエに手当てを受けた翌朝、尾形はマンションまで土方に迎えを寄越すように連絡をしていた。刺し傷とはいえ、素人の手当てでは心もとない。しかし警察に行くのは面倒なことになるし、病院に運び込まれても事件性を疑われては警察の耳に入りかねない。そんな事情をまるっと無視してくれる便利な医者がおり、土方とも共通の知人なのだ。その医者の元まで送迎を頼んだというわけだった。

『お前の家が放火されたというのに連絡のひとつも寄越していないから、躍起になって探しているぞ』
「面倒くせぇ。適当に揉み消しておいてくれよ」
『馬鹿者。痴話喧嘩の傷害とは違うんだ。消防も動いているんだから今更揉み消せるわけもないだろう』

火事はしっかり当日夜のニュースでは報道されてしまっている。刺されただとか殴られただとかならいくらでも誤魔化しがきくけれど、マンションを放火されたとなればそうもいかない。それに一般人の目を欺いたところで、あの男であれば調べるすべなどいくらでもある。

『今日当たりお前の別宅を探すんじゃないかと思ってな』
「は?クソ、そういうことはもっと早く言え」

最悪だ、よりにもよってそんなタイミングで別宅に来てしまったということか。土方が電話口で笑う。尾形の焦りように、今日別宅へ来ているということを察したのだろう。尾形は乱暴に通話を切ると、どうにか鉢合わせる前にこの場を離れようと急ぐ。しかしそう簡単に物事が上手くいくわけもなく、ブレーキ音も立てずに尾形の前に一台の高級国産セダンが停車した。

「兄様…!」
「……チッ」

見つかった。一番見つかりたくない人物に。運転席から慌てて降りてきたのは随分な美丈夫で、爽やかだとか好青年だとか、およそ尾形と正反対の言葉が似合うような男だった。どうにか見つからないように潜伏していたというのに、これじゃ努力が水の泡だ。

「……こんなところに何の用ですか」
「兄様を探していたのです」

きらきらと眩しいものが尾形の網膜を消耗させるような気になる。真っ直ぐに向けられる視線は刺すほどの強さで、逸らしても逸らしても尾形のことを貫いていく。昔からだ。彼が高校の時に初めて顔を合わせて、それからずっと。太陽よりも獰猛な光が尾形のことを焼いている。

「兄様、今お時間よろしいですか」
「いえ、この後ギャラリーに行く予定なのです」
「では、ギャラリーまでお送りいたします」
「こんな兄の足になっていてはまたお父上からお叱りを受けるのでは?」
「構いません。今日は非番ですし、少しの間だけですから」

どうにか避けようとしているのに食い下がる。いつもそうだった。どれだけ尾形が遠ざけようとしても当たり前の顔をして近づいてくる。その無垢な態度が理解できなかったし、尾形の神経をいつも逆撫でした。

「どうぞ、兄様」

男がにっこりと笑って助手席のドアを開ける。尾形は渋々彼の車に乗り込んだ。革張りの高級なシートに身体が沈み込む。彼はいつもこうやって、上等のものに囲まれている。


花沢勇作は、尾形の腹違いの弟である。腹違いと言っても、離婚だとか後妻だとかそういうものではなく、尾形のほうがいわゆる私生児というものだった。当時父は警察官僚候補で、母はその父の馴染みのクラブのキャストだったらしい。
子供を授かったというタイミングで父の方が出世だなんだと騒がしくなり、もちろんそんな中で不倫相手など、ましてその子供のことなど明るみに出すわけにはいかず、手切れ金を使用人が渡しに来たのを最後に尾形と母は捨てられた。

「良かった、ご自宅が火事になったと聞いてずっと心配しておりました」

運転席で勇作がにこにこと穏やかにそう言った。これに裏も含みもないのだから恐れ入る。尾形は薄笑いを浮かべながら「おかげさまで」と相槌を打った。ゆったりと車が右折する。

「別宅にもお戻りになっていなかったようですが、いままでどちらに?」
「友人の自宅に厄介になっています」
「そうでしたか、お怪我もないようで何よりです」

この話ぶりでは、どうやら尾形が刺されたことは露見していないらしい。刺されたと知っていればもっと血相を変えていたに違いない。警察に厄介になりたくない理由はこの一点にあった。なにせ勇作も将来を約束されたエリート警察官である。尾形のことをマークさせておけば、たとえ所轄の小さな傷害事件だろうと逐一報告が行くに違いない。

「良ければうちに来ませんか。部屋も余っていますし、不自由のないように勇作が準備をいたしますから」
「ハハ、お気持ちだけで結構ですよ」

臆面もなくそう言う。縁を切られた尾形と母の生活はひどいものだった。母はそもそも関係を割り切るなんてことが出来る器用な女ではなく、愛しているという父の言葉を鵜呑みにして手切れ金を渡された後もいつか迎えに来てくれるに違いないと信じていたし、そのせいで心を病んだ。そしてついには自殺をして、尾形は祖父母に引き取られるに至った。

「ご友人のご自宅にずっと、というのも何でしょう。代わりにお部屋を探しましょうか?」
「いえ、友人のところの居心地がよいのです」
「そうですか……」

勇作が高校生の時、尾形を尋ねてきた。尾形母子の事情をどこまで知っていたかは定かではないが、きらきらとした真っ直ぐな目で「兄が欲しいと思っていたのです」と嬉しそうにいうのだから驚いた。勇作は自分とは真逆の人間だった。清廉潔白、品行方正。誰からも愛される、人間の手本のような男。

「その、放火犯が何者か調べがついたのです」

少し言い淀むようにしてそう切り出した。その件なら教えてもらうまでもなく予想がついているし、土方が裏を取ってくれている。しかし勇作の言葉を遮るようなことはせず、尾形は続きを待った。

「犯人はその、兄様が過去に交際されていた女性の元恋人でした。今所轄で取り調べをしていますが、動機はやはりその……恋人を奪われた腹いせだと…」
「いやぁ、そうだったんですか。いやはや恐ろしい話ですな」

しらばっくれてそう言いながら、グイっと髪をかき上げる。その様子を運転中の勇作が横目で見る。尾形はその視線に気がつかないふりを貫いた。車はなめらかに走り、下品で不快な走行音はひとつもしなかった。そのせいで勇作の言葉がクリアに聞こえてくる。

「もちろんすべての女性がそうとは言いません。しかしその…失礼ながら、兄様の奔放さが勇作は心配なのです」

ウインカーを出す。左へ曲がる。尾形は勇作のことを見もしないまま口の端を片方だけ上げた。この話をされるのはもううんざりだ。自分と同じだと思ってくれるな。

「ははぁ、申し訳ない。生まれ育ちが悪いもので。血ですかね」
「兄様……」
「勇作殿のような方には理解できないお話でしょう」

少し煽るように勇作に言葉を投げた。勇作は困ったように口ごもる。花沢家は由緒正しい家柄だ。そこで純粋培養されている勇作に自分のことがわかるはずがない、と尾形は思っていた。

「ここで結構です」
「えっ…しかしまだ…」
「ここからは歩いて行きます。運動不足でしたから丁度いい」

車が完全に止まりきる前に助手席のドアを開けると、勇作が尾形に怪我をさせるわけにはいかないとぐっとブレーキを踏む。滑り降りるように外に出て、すると勇作が背中に声をかけた。

「あ、兄様!その、くれぐれもお気をつけて…!」
「ええ、お気遣い痛み入ります」

社交辞令を貼り付けた愛想笑いで放つ。車のドアを閉じれば、少しためらうようにしてから勇作の車が発進する。

「はぁ、散々だな」

勇作はいつも、尾形の身辺を探っている。まともな交際相手はもちろん、数回寝ただけの女まで、だ。
もとはこんな具合ではなかったのだが、数年前に尾形がセフレに無理心中を図られ、その時から尾形の身辺の人間を全て洗い出すようになった。女性から恨みを買いやすいという尾形の特性上、交際または肉体関係のある女性を一番に調べて警戒をしているが、男だって勇作の調査の対象になる。
呑み喰い屋房ちゃんの存在は今のところ勇作に見つかっていないけれど、それ以外の、例えばギャラリーツルミの知り合いなんかは当然のように勇作も把握していた。

「チッ……何が心配だ」

自分とは違う、望まれて生まれてきた子供。生まれる前から、そしてもちろん生まれた後も、当たり前のように居場所を用意された子供。
清廉潔白で品行方正で、人間の手本のような男。愛を、愛を知っている男。

「同じ人間のはずだ……」

親から愛されなかったことが、愛し合った親から生まれていないことが、こうも人間の出来を変えるのか。尾形は勇作の走り去った方向を見つめた。隠さなければ。ナマエを詮索されるなんて死んでも御免だ。






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