13 ペンギン、イルカ、水族館


水族館に行きましょう、と言い出したのはナマエだった。数年前都内に新しくできたそこへ、結局行かないままだということに雑誌をめくっていてはたと気が付いたからだ。前の恋人と付き合っているときに「そのうち行きたいね」なんて話をしていたが、そのうち、は来ないまま今に至る。
なんだか変な順番から始まってしまっているせいで、今更デートだなんてどうにも気恥ずかしい。そんなことを思っているのはナマエだけかもしれないが。

「水族館、来るのすごく久しぶりです」
「ああ、俺も数年前に撮影で来たっきりだ」

電車を乗り換え訪れた水族館。最新の、とはいかないが、比較的新しい水族館だということもあって随分と綺麗だった。自分の地元にあるさびれたそれとはまるで違う。窓口でチケットを買おうとすると尾形が先にすかさず並んでいて、あっという間に二枚の横長の紙を持ってナマエのもとに戻ってくる。

「あの、自分の払います」
「あ?このくらいべつに構わん」

でも、と食い下がるも尾形は譲らずにさくさくと入場口の方に向かってしまって、ナマエは慌てて背中を追いかける。尾形は横目でナマエを確認すると、入場ゲートに立つスタッフの女性にチケットを二枚まとめて手渡した。「ごゆっくりどうぞ」の声に見送られながら館内に入る。客の入るフロアは暖房がそこそこは効いているけれど、薄暗いことや目の前に水槽があることなどの視覚的要素でどことなく寒く感じた。

「暗いから気をつけろよ」
「流石にこんなところじゃ躓きませんって」

言ったそばからこつんと何かに躓いて、隣の尾形に腕を引かれて転ぶのを免れる。これはかなり恥ずかしい。尾形は腕を掴んでいた手を離し、首から下げたカメラを手に取ると、素早くナマエに向けてシャッターを切った。

「間抜けなところ撮らないでくださいよぉ…」
「はは、俺の好きなタイミングで写真を撮って良い約束だろう」

それは確かにそうだけれど。尾形は「愛を可視化する」と言ってスランプ脱却のためにナマエを撮っている。愛おしいと感じた瞬間にシャッターを切り、それの蓄積によって輪郭をとらえようという話である。今彼がシャッターを切った、ということは、今ナマエのことを「愛おしい」と思ったということだ。無口なくせに、いやだからこそ雄弁に指先が語る。

「ほら、展示観るんだろ」

尾形にそう誘導されて先を進む。一番初めの展示はくらげだ。大小さまざまな水槽がライトアップされ、その中を悠々とくらげが浮遊する。半透明な身体に光が通り抜けると、あまり生き物らしく見えなくて、それがくらげをより幻想的に見せている要因かもしれなかった。

「くらげは数億年前から姿を変えていない生き物だそうだ」
「そうなんですか?」
「ああ。卵から幼生が生まれるとイソギンチャクみたいに一定の場所に定着する。そのあとストロビラ……まぁ立て伸びるみたいに形が変わって、分裂して動き出すんだ」

尾形の低い声で紡ぎ出されるそれは、くらげの解説というよりもっと濃厚な、想像上の生物の生態を語っているかのように聞こえた。くらげは慣れ親しんだ生物のひとつではあるけれど、その生態のことはほとんど知らなかった。自分の知らないことを当然のように話す尾形は少しかっこよく見えたし、その声のせいか、話されている内容も学術的に感じて非日常を醸し出している。照明の色が移り変わる。

「……尾形さん、物知りですよね」
「べつに。自分の知っていることしか知らん」

人間誰しもそうだろうが、尾形が口にすると何か言葉の向こうに含みがあるように感じる。それは考えすぎだろうか。
くらげのエリアを抜けると、次のエリアには細長い四角の水槽が四つ並んでいた。テーマはサンゴ礁だ。カラフルな魚たちが自由に泳ぎ回り、客はそれを360度どこからでも見られるようになっていた。屈めばサンゴ礁に身を隠す生物を見ることが出来るし、水槽の端ではなにか卵のようなものを確認することも出来る。

「すごい。私、本物のサンゴ礁ってちゃんと見たことないんです」
「あんなもんスキューバ出来なきゃ見に行ったってそう面白いものでもないぞ」
「尾形さん、見に行ったことあるんですか?」
「ああ。仕事でな」

ということは、きっと水中写真を撮ったのではないか。スキューバできなきゃ、と枕詞がつくのなら、きっと彼はしたに違いない。尾形は水中にまで写真を撮りに行くのか。疑問に思って「水中写真とかも撮るんですか?」と尋ねると「専門外だがな」と返ってくる。専門外でもそこそこ撮れる技術はあるということだろう。

「そんなに気になるなら今度知り合いのところに連れて行ってやる」
「え、いいんですか?」
「ああ。モルディブだからな。休みは確保しておけよ」

にやり、口角を上げた。モルディブなんてそんな気軽に行けるはずがない。わかってて誘ったな、と気が付き、じっとねめつける。まぁどこかで長期連休に有休をくっつけて、なんてしたら時間は確保できるだろうが、そうなれば確実に観光のオンシーズンなのだから旅行代金が恐ろしすぎる。
サンゴ礁をテーマにした水槽のエリアを抜け、スロープでひとつ下の階段を降りる。そこでは子供のはしゃぐ姿が多く見られた。何がいるのかと思えばペンギンの水槽が待っている。

「あ、ペンギンだ!」

ナマエもご多聞に漏れず声を弾ませ、水槽の前を賑わせる子供たちの邪魔になってしまわないように、一歩下がった場所からペンギンの水槽を眺める。このペンギンはマゼランペンギンという種類らしい。屋内開放のプール型水槽だから、ほかの水族館のように分厚いガラスで隔てられているということがなく、ペンギンたちの躍動を近くに感じることができる。
ちょうど餌やりの時間に遭遇したようで、ウェットスーツ姿の飼育員たちがペンギンたちに小魚を与えていた。我先に小魚を得ようとペンギンたちは躍動し、跳ねた水がLEDできらりと輝く。

「すごい!水しぶきまで飛んできそう!」

きゃっきゃとはしゃぐナマエにシャッターが切られる。もちろん隣の尾形のもので、ナマエははにかんだように彼のほうへ顔を向ける。ファインダー越しに彼が自分を見ていると思うとむず痒くて、だけど水族館という非日常と興奮が羞恥心を少しだけ消していっていた。

「ペンギンって可愛いですよね」
「そうか?」
「ころんとしてるし、トテトテ歩くし、目もきゅるんってしてるし」
「肉食だけどな」

ことごとくナマエの意見を切り捨てる。皮肉屋だと思われる彼の多少歪んだコミュニケーションのひとつである。その証拠にナマエがムッと黙ればそれ以上つい追撃してくることはない。もっとも、ナマエも本気で拗ねたわけではなかったが。

「じゃあ、尾形さんが一番好きな海の生き物ってなんなんですか?」
「あ?」
「ペンギンがだめなら教えてくださいよ」

ナマエがそんなことを言い出すとは想像もしていなかったようで、思いもよらない方向から飛んできた反撃に口を閉じる。これは少ししてやったりかもしれない。

「…イルカだな」
「えっ!」

あまりにも普通の生き物の名前が飛んできて思わずそう声を上げると、じとりとナマエをねめつけて「なんだよ」と言った。いや、まさかペンギンに文句をつけるような人間がそんな海の生き物の人気者筆頭を出してくるとは思わなかった。

「イルカって…普通ですね?」
「ははぁ。あいつらは結構暴力的でずる賢いんだぜ」

にやりと口角を上げた。イルカの可愛らしい見た目や人懐っこさなどを一番に上げないところに尾形のひねくれた性格を感じる。まぁしかし今日ここまでの彼の知識のことを思えば、ナマエが知らないイルカの生態などを知ったうえで皮肉めいたことを言っているのかもなと言うことは想像に難くなかった。

「次はあっちの大水槽ですよ」

ひと通りペンギンのエリアを堪能したあと、待っていたのは大水槽だった。これは小笠原諸島の生態を展示しているものらしい。色鮮やかな魚たちが群れを成して泳ぐさまは圧巻だ。

「すごいですね…まるで日本の海じゃないみたい…」

ナマエがそう感嘆を漏らす。この水槽には50種、450点の魚たちが泳いでいる。小笠原村協力のもと再現された青はどこまでも濃く深く、豊かな命の根源であることを改めて思い知らされる。

「小笠原諸島は、東京で唯一の世界自然遺産だ。ここから南南東に1000キロほど行った太平洋に位置していて、日本では唯一生物地理区の区分上でオセアニアに属している」

小笠原諸島は「東洋のガラパゴス」と呼ばれるほどに貴重な動植物が多い。年間を通して暖かく、夏と冬の気温差は小さい。それから梅雨前線がここよりも北に発生するため、北海道と同様に梅雨がないとされている。こういった気候条件、本州から1000キロ離れた立地などが作用し、固有種が発達したのだ。しかし人間の持ち込んだ生物や島の開発などが原因でいくつかの固有種は絶滅の危機に瀕している。
尾形はその博識さをひけらかすようなことのない平坦な声音でそれらを解説してみせる。

「おんなじ日本なのに…そう考えると文化とか自然って言っても結構違いがありますよね」
「ああ。特に自然は今まさに失われていくものも多い。それを記録するのは、なかなか面白い」

どこかすとんと落ちるような声で尾形が言った。そっと彼を見上げると、その大きな瞳はまっすぐに水槽の中へ注がれている。彼は風景専門の写真家だったらしい。どんな作品を撮ってどんな活動をしていたのかはまだ知らないけれど、先ほどの言葉の最後になんだかその鱗片が覗いたような気がする。
尾形がこちらを見る予感がして、ナマエは慌てて視線を水槽へと戻す。深い青に飲み込まれていく。もちろんこれは先の見える水槽ではあるが、まるで果てがないかのような感覚に陥った。


全ての展示をまわり終え、出入り口から外に出ると一気に現実に引き戻された。ぴゅうっと風が吹いて二人の間を駆け抜ける。先ほどまでがそこそこの暖房の中にいたからそれが余計に寒く感じられて思わず身震いをすると、尾形がナマエの腰のあたりに手を回した。ぎゅっと身体が近づいて隣から尾形の体温が伝わる。

「くっついてるとあったかいですね?」
「お前はこういうのを好かんタチかと思ったが」
「今日は特別です。っていうか、尾形さんこそくっついて歩くのとか好きじゃなさそうなのに」

ナマエがそうやって言い返せば、図星を突かれたとばかりに尾形が黙る。バツの悪そうな顔をするのが面白くて思わず笑って、そしたら頭上から舌打ちが降ってきた。こんな状況で舌打ちをされても怖くもなんともない。

「気に入らんな」
「えっ、何がですか?」
「その口調だ」

口調、と言われても、と要領を得ない言葉に首を傾げる。別に出会った日から変えているつもりはないが、なにか気に触るような言い方をしてしまっているシーンでもあっただろうか。答えがわからないままナマエが黙って尾形を見上げると、尾形がぐいっと髪を撫で上げる。

「もっと楽に話せばいい。俺のことも名前で呼べ」

なるほど、頭をよぎった可能性とは逆の内容だったらしい。つまり畏まった敬語口調がお気に召さないということだろう。それはまだいいが、もうひとつの要望には重大な問題がある。

「あの…私尾形さんの下の名前知らないんですが」

彼が二回目にナマエの家へ足を踏み入れたときに名乗ったが、そのとき当然のように「尾形」と名字しか言わなかったから下の名前を聞かないままになっていた。一応なし崩し的にでも付き合うことになっているという現状で今更感の溢れる話ではあるが、今日まで特に不便を感じなかったのだから仕方がない。
尾形がまた頭上で舌打ちをして、それからどこかもごもごと居心地悪そうに唇を合わせる。

「……百之助だ」

口の中で何度も何度も唱える。ひゃくのすけ、ひゃくのすけ、ひゃくのすけ。ナマエはすでにぴったりとくっついている尾形のコートをぎゅっと掴み、それから彼の名前を呼ぶ。

「ひゃくのすけ」
「……おう」
「ふふ、ひゃくのすけ、ひゃくのすけー」
「くそ、あほか、何度も呼ぶな」

自分から呼べといったくせになんて言い草だ。しかし耳を赤くして言われたところで少しも怖くはなかった。ひゃくのすけ、は漢字で「百之助」と書くらしい。尾形百之助のフルネームを脳内に思い浮かべる。まったくなにもかも変な順番になっていて、だけどそれが何か特別で素敵なことのように感じられた。






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