12 モデル、シャッター、生姜焼き


火曜日の夜。食事や風呂を終えたリラックスタイムにナマエはいつも通りノンカフェインのコーヒーを淹れていた。尾形はリビングでカメラのレンズを磨いていて、写真家だと聞くとこうして毎日こまめに手入れをしているのも納得である。

「はい、尾形さんどーぞ」
「ん」

交際が始まる前は渡したらそこで自分は寝室に引っ込んでしまっていたが、今は違う。一緒にリビングで興味のないテレビ番組を見たり、尾形が殊更大事そうに触れるカメラのレンズを眺めたりする。尾形は手を止め、レンズをそのままカメラ本体に取り付けた。

「ナマエ、ちょっといいか」

割と強引にあれこれと決めてしまう彼には珍しいことで、ナマエはきょとんと首をかしげながら「どうかしました?」と尋ねる。

「……お前を撮りたい」
「えっ!」

思わぬ言葉に驚いていると、尾形は黙って肯定するように頷いた。撮りたい、と言われても、ナマエは当然プロのモデルではないし、なんなら自撮りだってしないタイプだ。いくら尾形がプロのカメラマンだといっても、自分なんかを撮っていい作品になんてなる気がしない。

「えっと、私では役不足っていうか…」
「お前でなければ意味がない」

尾形の視線は真っ直ぐナマエを射貫く。自分でなければいけないなんて、そんなことがあるのか。彼がそこまで言ってくれるのならば協力したい。ナマエはいくつか逡巡したあと、その申し出を受けることにした。

「あの…わかりました。頑張ります。えっと、でも撮影に使えるような洋服とか何も持ってないんですけど…」
「問題ない。衣装はいらんし、スタジオで撮るわけでもないからな」
「はぁ…えっと、じゃあどういうとところで撮るんです?」
「主にこの部屋と家の近くだな。ナマエとの生活を撮影する」
「部屋ですか!?」

さっきから驚いてばかりの気がする。仕方ない。尾形がさっきから必要なことを後だししてくるせいだ。撮影のモデルになるならまだ頑張ろうと思えるが、自分の部屋で生活を撮影すると言われれば話は別だ。尾形の写真家としての作風は知らないけれど、流石にそれは恥ずかしすぎる。

「無理!絶対無理です!芸能人でもないのに家で写真に残せるような生活出来ません!」
「別に変わったことはしなくていい。今まで通りの生活を撮るだけだ」
「ダメですよ!ていうか、私の生活なんか撮って何が面白いんですか!」

思わず興奮してそこまで捲し立てると、尾形がむすっとして口を閉じた。そんなことをされたって平々凡々な私生活を撮影していいですよとはならない。譲れないぞ、とかたくなな態度で臨む。

「……俺は元々風景写真専門の写真家だった。だがこの二年スランプで活動休止してる」

尾形が髪をナデナデと撫でつける。彼の職業が写真家であると教えてもらったとき、確かに休業中だと言っていた。その理由がスランプというのは今初めて聞いたことだけれど、二年間もとは思わなかった。

「何を撮りたいのか自分でもわからなくなった。シャッターを切っても切っても納得できずに、そのうちカメラを向けるのだって億劫になった」
「そう…だったんですね……」
「いろいろと考えた結果、新しいものなら撮れるんじゃないかと……そう思った」

気を抜けば聞き漏らしてしまいそうな小さな声だった。ナマエは注意深く彼の声に耳を傾ける。尾形はそっとカメラのボディを撫でた。芸術家の友人がスランプに陥っていたとき、本当にこのまま命を断ってしまうんじゃないかと思うほど落ちこんでいたことをよく覚えている。尾形にとってスランプがどの程度の存在であるのかはまだわからないけれど、友人のように苦しんでいるのであれば出来ることは協力したい。

「新しいものが、人の生活ってことですか?」
「少し違う。目に見えないものを可視化するんだ」

見えないものを写真で可視化する、なんて思いつくのは心霊写真とか怪しげなオーラがどうのとかそういうものくらいだ。尾形の意図がわからなくてナマエは「どういうことですか?」とそのまま尋ねる。

「愛にかたちはないだろう。しかし例えば、俺が愛おしいと感じた瞬間に目の前の光景にシャッターを切り続けていれば、いつかそれらしいものが見えてくるのではないか。それらの蓄積は愛の輪郭足り得るのではないか……」

尾形のいう目に見えないもの、というのは「愛」を指しているようだった。確かに愛というものは身近な存在でありながら、そのものを可視化することは出来ない。態度や言葉、あるいは贈り物などで表現しようと試みるけれども、それらは愛そのものではない。さらに話は続く。

「興味がないものにはカメラを向けない主義だ。人間にはいままでほとんど向けたことがない。だがお前に俺が写真家であると証明するために、ごく自然にカメラを向けてシャッターを切っていた」

そうだ、ナマエが思い込みと早とちりで尾形を堅気ではないと決めつけていたとき、呆けた顔をするナマエにカメラを向けていた。あの時はそこまで深く考えていなかったが、話を聞いた今、受け取り方は随分と変わる。

「……写真、撮ったらどこかに発表するんですか?」
「いや、今のところはさっぱりそんな予定はないな。俺のリハビリみたいなもんだ」

それなら、とナマエはかたくなだった思考を徐々にやわらげた。発表される作品というわけでもないのなら、そこまで構えることもないのかもしれない。「お前を撮りたい」なんて台詞から始まったから身構えていたけれど、これなら普通に写真をよく撮るカップルみたいだと思えばいい。

「わかりました。尾形さんの力になれるかは分かりませんけど、頑張ります」
「別に普段通りでいい」

尾形はそう言い、早速ナマエにカメラを向ける。カシャとシャッターの着られる音がしたが、構えてから撮るまでが早すぎて驚いた顔で写ってしまったと思う。

「わ、私いま絶対変な顔してました…!」
「ははッ、いい顔だぜ」

尾形はディスプレイでたった今の写真を確認しているようで、にやにやと笑いを浮かべた。「私にも見せてください!」と言ってみたがひょいっとカメラを上にあげられてそれもかなわない。

「こういうのは回数こなしゃ慣れるんだよ」
「……なるほど?」

多少言いくるめられた気もしなくもないが、撮影を了承してしまった以上ある程度は仕方がないことだ。ナマエが「しばらく慣れないかもしれませんけど」と添えれば「べつに構わない」と想像通りの台詞が返ってくる。尾形はもう一度カメラを向けた。

「そう言えば、お前役不足の意味間違ってるぞ」
「え!」
「役不足っていうのは役目が実力不相応に軽いこととか、与えられた役目に満足しないことを言うんだ」

ファインダー越しにそんなことを言われ、ナマエは大きな声を上げる。その瞬間にまたシャッターが切られる。完全に言葉を誤用していた。しかも役不足という言葉を知ってから今日までずっとだ。

「お前の言いたいことを表現するなら、力不足や分不相応が正しい。まぁ、俺はそうと思っちゃいないが」
「……この年になるまで正しい使い方知らなかった」
「はは、よくある誤用だぜ」

穴があったら入りたい。そう思いながら両手で顔を覆って、すると再びシャッターが切られる。こんなところまで撮らないでくれ、と顔に当てていた手を尾形に向かって伸ばしてみたが、そんなものが通用するわけもなかった。


ひょっとしてとんでもないことを了承してしまったんじゃないか、と気が付いたのは翌日の社員食堂でのことだった。もちろん尾形の写真の件である。
彼は「愛おしいと感じた瞬間にシャッターを切り、見えない愛を可視化する」と言っていた。それはつまり、彼がナマエと過ごす時間の中で「愛おしい」と思ったことを行動で示されるということに他ならない。

「……ものすごく恥ずかしいことなのでは…」

しかしすべてはスランプだという彼のためだ。今更ぐだぐだというわけにもいかない。
今日のランチメニューは豚の生姜焼き定食である。ここの社食は平均よりは美味いほうらしく、内勤の従業員はかなりの割合でここを利用していた。とはいえ社員食堂があるような会社に勤めるのはこれが初めてのことだったので、ナマエには比較する対象はないが。

「すみません、ここいいですか」
「はいどうぞ……あ、有古さん。お疲れ様です」

混みあっているときは相席も多く、普段通りに了承すると知った顔だった。生産管理課の有古である。有古はナマエと気付いて声をかけてきたようで驚いたふうもなく「お疲れ様です」と会釈をした。彼がそのまま向かいの椅子に座る。

「ミョウジさん生姜焼きですか」
「はい。有古さんは竜田揚げなんですね」
「毎週水曜はこれって決めてるんです」

差しさわりのない食堂のメニューの話から始まり、会話は特別盛り上がるわけでもなく困るほど沈黙に追い立てられることもない。有古は白米を大盛にしているようで、ナマエのトレイに乗っているものとは器の大きさからして違った。若い男性社員としてはそこまで珍しい量でもない。

「そういえば、有古さんって菊田課長とお付き合い長いんですか?」
「そうですね…新入社員の研修の時にお世話になって、それから何かと目をかけてもらっているのでそれなりに長いと思います」

共通の知人といえば菊田くらいのもので、自然と彼の話になった。有古は菊田と仕事終わりの飲みだけでなくてプライベートでゴルフやスキーにまで行っている仲らしい。別フロアの部署でありながらフルネームと顔が一致するほど有古のことを知っているのは菊田がよく話題にするからであるが、想像以上に二人は仲が良いようだ。

「ミョウジさん、アウトドア好きですか?」
「憧れはあるんですけど、経験は殆どないですね。行ってみたいなぁとは思うんですけどなかなか…」
「もしよかったら今度俺と菊田さんとトレッキング行きましょう」
「いいんですか?」

当然社交辞令だろうけれども、ちょっと興味はある。トレッキングというなら本格的な登山よりも気軽なものだろうし、初心者の自分でも恐らく上級者の有古がいればきっととんでもない苦労はないはずだ。それに、あのトレンディドラマのような上司のプライベートに多少興味があった。

「自然が多いところ好きなんで、ぜひ」

自然、といえば、尾形のもとの専門は風景写真だと言っていた。彼はどんな写真を撮るのだろう。例えば山に入って山林の光景を切り取ったり、海のさざめきを記録したりするのだろうか。帰ったら聞いてみて、あわよくば作品を見せてもらおう。そう目論みながら生姜焼きを口に運ぶ。尾形が作ってくれるものの方がショウガが効いていて美味しい気がした。


ただいま、と声を描ければ「おう」と返ってくる。「おかえり」じゃないところが何ともイメージ通りだよなぁと思いつつ、キッチンから美味そうな香りが漂ってきてクンクンと鼻を動かす。ショウガと醤油の匂いが食欲をそそる。もしかして。

「豚の生姜焼き」
「あ、やっぱり」

想像通り今晩のメニューは生姜焼きのようだ。昼間と被ってはいるが、社員食堂で生姜焼きを食べてから尾形の味付けが恋しくなっていたのだ。逆にラッキーだったと思う。

「今日、社食で生姜焼き食べたんですけど、なんか尾形さんの作ってくれるやつのほうが美味しいなぁって思ってたんです。だからなんかラッキーしちゃいました」
「……お前、よく平気でそんなことが言えるな」
「えっ!何か変なこと言いました?」

尾形が呆れたようにため息をつき、わけもわからないままナマエは「手洗ってこい」と洗面所兼脱衣所に押し込められる。呆れられるほど変なことを言っただろうかと思いつつ言われたとおりに手洗いうがいを済ませてリビングに戻ると、もうすっかり食卓の準備が整っているようだった。

「いただきまーす」

ぱちんと手を合わせ、箸を手に早速生姜焼きを頬張る。やっぱり社員食堂のものよりこっちのほうが美味しい気がする。よほど嬉しそうな顔をしていたのか、尾形が「そんなに美味いか」と尋ねて来たので「おいひいです」と行儀悪くも口の中のものを飲みこまずにもごもごと返事をした。

「そうだ、今日社食で別の部署のひとと話したんですけど、その人結構アウトドアな趣味らしくて。尾形さんって風景写真撮るって言ってたじゃないですか。やっぱり山の中とか離島とか…そういうアウトドア的なところ行くんですか?」
「アウトドア的なって線引きはよくわからんが…山に入ったりはするな。知り合いに猟師がいて猟に同行したりもしていた」
「りょうし…山ってことはお魚獲る漁師さんじゃなくて鉄砲撃つ方の猟師さんですか?」
「ああ、猟銃撃つ方の猟師だ」

テレビでは猟の様子を特集したりクレー射撃の競技も中継したりと散弾銃を見る機会はあるが、非銃社会である日本に生まれ育ったナマエは生で散弾銃など見たことがない。猟に同行して獲る写真とはどんなものなのだろうか。

「あの、尾形さんの作品見てみたいんですけど……」

恐る恐る尋ねる。スランプ中の芸術家にとって自分の作品を素人の他人に見せるということが嫌がられることなのかどうかもわからない。尾形は少し考えるように黙ったあと、ぐいっと髪をかき上げる。

「作品集はあるが、全部家だ」

家、ということはあの火事になってしまったマンションだろうか。それならたとえ燃えていなくても消火活動でマトモな状態であるわけがない。「もしかして燃えちゃいました?」と聞けば「いや、別宅」と返ってきた。よかった。とりあえず無事らしい。

「そんなに興味があるなら今度持ってきてやる」

尾形は少し得意げで、とりあえず作品を見せてくれと頼むのが地雷ではなかったことにホッと胸を撫で下ろす。尾形の写真とはどんなものだろう。期待を膨らませてあれこれ想像していると、カシャリとシャッターが切られた。






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