11 可視化、証明、コンクール


焦ったような声で目が覚め、隣を見るとナマエが尾形のスマホで通話をしていた。「ごめんなさいッ!」と謝っているところを見るに、大方自分のスマホと間違えたのだろう。尾形はのそりと起き上がる。

「こんな朝っぱらからかけてくるんじゃねぇ」

ディスプレイはちらりと見たし、どうせそんなことだろうと思ったが、相手は腐れ縁のあの男だった。もちろんこの男が開口一番不遜なことを言っても少しも怯む様子はない。

『お前が既読にしたまま何にも返信してこないからでしょ』
「どうせ大した用じゃないだろ」
『まったくホントそういうところ』

それから周辺の近況報告を兼ねた内容へ適当に「ああ」だとか「おう」だとかの相槌を打ち、すると電話の向こうから特大のため息が飛んできた。寝ているところを結果的に起こされ、ため息をつきたいのはこちらの方だ。
ふと隣から視線を感じ、見下ろすとナマエが気づかわしげにこちらを見ている。恐らく間違って電話に出たことを気にしているのではないか。この男相手に気を遣う必要なんてないのに、と思いながら彼女の髪をくしゃりと撫でた。

『さっきの女の子、お前の彼女?』
「ああ、まぁな。そんなとこだ」

正式にそう名付けるような相手を作るのはいつ振りだろう。ひょっとして彼女とならいままでとは違うものが見えるのではないかと、根拠もなく期待していた。
ナマエがベッドから立ち上がろうとしたから、それを阻止しようと手首を引く。反動で自分の胸の中に寄りかかるように納まる。

『まぁ何でもいいけど、火曜日11時にギャラリーの最寄り集合ね』
「は?おいちょっと待て……」

勝手に決められる予定そう抗議するも、気が付いたらもう通話を切られてしまっている。「切りやがった」と毒づいてはみたが、それがあの男に届くことはない。ディスプレイに目をやるついでに他の通知を確認する。ダイレクトメールに混ざってあの男からの連絡が入っている。既読なんてつけてやるものか、とスマホをベッドの上に放った。


火曜日、尾形は呼び出しのとおり通いなれてしまったギャラリーの最寄り駅に足を運んだ。無視をしてやっても良かったが、なんとなく気が向いたのだ。指定された出口付近で待っていると、ストライプのシャツに黒のジャケットを羽織った男が現れた。

「あ、いたいた、百之助ぇ」
「……チッ…」
「なんだよ、随分ご挨拶だな」
「だいたい何の用だよ、宇佐美」

男の名前は宇佐美。ギャラリーのスタッフをしていて、尾形の腐れ縁的な付き合いの男である。両頬の均等な位置にほくろを持っていて、にゅっとM字に曲がった唇と通った鼻筋が特徴的な男だった。彼は平素大変派手な色合いの服や柄シャツばかりを着ているから、今日のこの格好は仕事なんだろう。

「僕だって別にお前に会いたいわけじゃないよ。鶴見さんが気になさってるから連絡しただけ」
「ほっとけよ」

チッと舌打ちをする。宇佐美は取り合ってやらずに「行くよ」と先を歩き出した。どこへ行くつもりか。「ギャラリーなら行かねぇぞ」と釘をさすと「違うよ」と返ってきた。では一体どこへ連れていくつもりなんだろう。
ここまで来てしまっているのだから今更行きたくないとも言えず、すたすたと歩いていく宇佐美の後ろをついていく。

「百之助、家燃えたでしょ。別宅にも帰ってないから一体どこにいるんだって探してたんだよ」
「別宅の方はあの人が来る」
「ふぅん。それで彼女のところに逃げてたのか」

宇佐美との会話で「あの人」のことはお馴染みのことで、それが誰かと改めて聞かれることはなかった。恋人のところに逃げたというよりは逃げた先で恋人になったというほうが正しいが、それをわざわざ宇佐美に言うことはないだろう。

「で、どこに行くんだ」
「区民ホール」

話の途切れたタイミングで尋ねればそう返ってきた。区民ホールに何の用事だろうか。呼び出されたこととは関係のなさそうな用事だな、と思いながら「何しに」とついでに尋ねると「ちょっと見たいものがあって」と言った。
歩いて十分もしないうちに目的の区民ホールまで辿り着く。出入り口にはささやかに区民写真コンクールのポスターが貼られている。

「おい、ひょっとしてこのコンクール見に来たとかじゃねぇだろうな」
「ご名答」

宇佐美はそう言って地下にある「展示室」と銘打たれた部屋に足を向ける。入口には婦人会のメンバーが折ったかのような折り紙の花が飾られ、部屋の中にはシンプルなフレームに入った写真たちが壁にかけられている。区民写真コンクールに相応しい小ぢんまりとした展示だった。端から展示を見て回る。どれも日常の一コマを切り取った写真ばかりで、悪く言えば凡庸な、よく言えば温かみのあるものだった。

「あ、あったあった」

宇佐美は予め目的の写真でもあったのか、そう小さく言いながらひとつのフレームに歩み寄る。道端の野の花を撮った作品で、最大限譲歩して「素朴な作品ですね」としか言いようもないものだった。しかも佳作にも入っていない作品のようで、プレートには撮影者の名前が書かれているだけである。

「…これ目当てで来たのか?」
「うん。いいでしょ、これ」
「……ギャラリーのスタッフがどこをどう評価してるのかご教示願いたいもんだ」

皮肉たっぷりにそう言えば、宇佐美は「フフフ」と気色の悪い笑いをこぼす。昔から奇妙な男だ。これは聞かないほうが良かったかもしれないな、と隣で顔をしかめる。

「この門倉ってひと、僕知り合いなんだけどさぁ。びっくりするくらい平凡なサラリーマンなんだよ」
「ギャラリーの客か?」
「いや、家が近所なだけ。この写真もびっくりするほど平凡でしょ。知ってる?このコンクールのテーマ」

そう言いながら宇佐美はポスターを指さす。コンクールのテーマは「あなたの小さな幸せ」だ。アマチュアの大衆的なコンクールではよくあるものだろう。大賞の飾られているところを見ると子供の身長を刻んだ柱の写真が大賞を獲っているようだった。

「ふふ、これが小さな幸せって。何の面白みもないし全く上手くもないし、でも門倉さんはこれが小さな幸せだと思って撮ってるんでしょ。そう思ったら笑えてきちゃって」
「……相変わらず悪趣味だな」
「結局箸にも棒にも引っかかってないの。そりゃあそうだよね。アマチュアだからってこんな普通の写真じゃ賞獲れるわけないよ。ふふふ」

宇佐美はその門倉のことが相当お気に入りのようで、さきほどから笑いが止まっていない。こんな面倒くさい男に興味を持たれてしまったその門倉というサラリーマンが哀れで仕方がない。
宇佐美はそれから一応展示室を全てまわり、アマチュアの域を出ない写真たちをそれぞれ眺めていく。門倉の写真が見たかったのは分かるが、どうしてわざわざ尾形を連れてきたのか。それはまだわからないままだ。

「はぁー面白かった。やっぱり門倉さんの写真が一番いいなぁ」
「バックグラウンド込みだろ。お前の趣味は相変わらず歪んでる」
「ハァ?百之助に言われたくないんですけど」

区民ホールを出て宇佐美は近くのカフェに行くと言って歩き出した。ギャラリーに連れていかれるよりはマシだろうと後ろに続く。宣言通り歩いて数分のカフェに入り、向かい合って座ってコーヒーを頼んだ。

「百之助、まだ撮らないの?」
「お前には関係ないだろ」
「篤四郎さんが気にしてるから聞いてやってんだよ。なんでお前のことで篤四郎さんのリソースが割かれなきゃいけないんだ。わきまえろ」

一言返せばそれが何倍にもなって跳ね返ってくる。尾形は苦々しい顔をしながらコーヒーを口に運び、思いのほか熱くてパッと口を離した。正面から「猫舌とか可愛こぶってんのか、コンニャロッ!」と飛んでくる。もう言いがかりもはなはだしい。
尾形百之助は写真家であるが、ここ二年ほど活動を休止している。宇佐美は尾形の作品の取引を良く請け負う「ギャラリーツルミ」のスタッフであり、ギャラリーのオーナー、鶴見の信奉者のような男である。

「どうしてだか篤四郎さんはお前の作品をお気に召しているんだ。さっさと復帰しろっての」
「チッ……勝手なこと言ってくれるぜ」

尾形は舌を打ちながら髪をかき上げる。シャッターを押すだけなら簡単だ。しかしそれでは意味がない。何を写し取るのか、どれを選び、どんな温度で表現するのか。そういう取捨選択の中で作品は出来上がっていく。何をどう選択するべきかがまったく見えなくなってきた。次第にカメラを向けるのも、シャッターを切るのも億劫になってしまった。カメラを持ち歩いてみても、もう一度自分が何かをカメラを手に写真を撮ることは想像もできなくなってしまっていた。

「はぁ……例えば人物は?お前風景写真専門で今まで人物撮ってこなかっただろ」
「人物…」

宇佐美に言われた言葉をじっと考える。確かに今まで人物を撮ることには魅力を感じたことがなくて、ずっと風景ばかりを撮影していた。しかし一体どうしていけばいいのか。興味のないものにはカメラを向けない主義だ。興味のない人物写真でまともな作品が出来るだろうか。そこでひとつ、頭の中でずっとずっと息をひそめている考えが滲みだす。

「……俺には愛がないらしい」
「は?なに急に…」
「いつも女に言われる。しかし愛とは神と同じくらい存在が曖昧なものだ」
「まぁ、目に見えないからね」
「この世にはその曖昧なものを明瞭に他人へと表現できるような人間で溢れているのか。俺がおかしいのか、そう言ってくる女たちがおかしいのか」

自分から愛は生じるのか。何度考えても答えが出なかった。なにせ目に見えないのである。見えるものを記録するように写真に残していくことを得意とする尾形にとって、見えないものを証明することは非常に難しいことだった。宇佐美は尾形が何か掴みかけていることを察し、それ以上口を挟まずに事の成り行きを見守る。

「例えば俺が愛のようなものを感じたと思った瞬間にシャッターを切って、それを蓄積することでいずれ愛のようなものの輪郭を得ることは出来るのではないか」

今までの人生でなにもすべて身体の関係だけだったわけではない。中には自分なりに心を寄せ、愛したいと思った女性もいたし、愛おしいと感じる瞬間もあった。しかしそれはいつもかたちがなく曖昧であり、明瞭になることもないまま「あなたから愛を感じない」「あなたには愛がない」などと言われて終わっていた。

「愛を可視化する」

不可視の愛を可視化する。なんて困難なテーマだろうか。しかしナマエは今までの相手とは何かが違うような気がしていた。本当か気のせいかそれはまだ分からない。しかし撮ってみる価値はあるのじゃないだろうか。自分の世界に入り込んでそこまで言い切った尾形に宇佐美は小さく息をつく。

「……超絶重いテーマぶっこんでくるじゃん、お前…」

尾形はやっと飲める温度まで下がったコーヒーを口にした。ナマエの家で彼女がコーヒーを淹れるときはそこまで待たずとも飲める温度になっている。猫舌だと知った彼女がわざわざ冷ましてから持ってきているのだ。そういう些細な気遣いをするところも、それを当たり前のように表に出さないところも気に入っていた。
宇佐美はじっと尾形を見つめる。そして自分のコーヒーをずずっとすすってからまた口を開いた。

「確かにお前の写真は風景写真ばっかりだし、感情を取り去って目に見える事実を精密にとらえることに定評がある。その作風でスランプになったっていうなら、いっそ新しいことをしてみるのは僕も賛成」
「ん」
「で、今回の子、そんなに本気なの」

本気、というのがどういうものかはピンとこない。尾形はナマエの顔を思い浮かべる。間抜けな寝顔が愛おしいと感じた。そう思うのは彼女が初めてだった。正確な表現は難しい。これからそれが出来るのかさえわからないことだ。

「…まだ分からない。ただ今までとは違う気がしている」
「充分じゃない?」

宇佐美の珍しく肯定的な言葉に顔を上げる。M字の唇をわらににゅっと笑わせて頬杖をつき、尾形を値踏みするように眺めた。

「百之助が愛をテーマにするなんて面白そう」

面白い、という言葉に区民ホールでの宇佐美のことを思い出す。門倉というサラリーマンを随分と穿った視点で見ながらそう評していた。

「…お前に面白いって言われるのはあんまいい気がしねぇな」
「失礼だな」

チッと宇佐美が舌打ちをする。コーヒーを口に含むと、苦みと酸味がバランスよく広がった。存外グルメな宇佐美が選ぶだけあってこの店のコーヒーはそれなりに美味いはずで、けれど彼女の部屋で飲むそれのほうが、どうしてだか美味く感じた。






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