09 目覚め、コーヒー、勘違い


尾形はすっかりソファで寝入ってしまったナマエを見下ろす。本当にのん気な女だと思う。よくもまぁ知らない男を簡単に家に上げ、手当てをし、あまつさえ食事まで与えるなんて。すうすうと気持ちよさそうに寝息を立てるナマエの頬にそっと手の甲を当てる。酒のせいで真っ赤になっていて、じんわりと熱が伝わってきた。

「はは、のん気だな」

こんなところで寝こけて、どんな目に遭っても知らないぞ、と自分の行動を棚に上げてそんなことを考えた。どうしてこの家に上がりこもうと思ったのか、的確な言葉を探すのはなんとも難しい。打算のない親切が珍しくて、どこか気の抜けた態度を見ているのは面白いと思った。飾らないところも好ましくて、今まで関わったことのないタイプの女で興味をひかれた。

「……ナマエ」

そっと名前を呼ぶ。彼女の名前をこうして口に出したのは初めてのことかもしれない。声にすると何もかも溢れそうな気がした。「さみしい」なんて随分なことを言ってくれる。そんなことまで言われて察することが出来ないほど鈍感じゃない。指の先にすうすうと規則正しい寝息がかかる。くすぐったい。

「……たとえば、たとえばお前と一緒にいたら、俺にも愛がどんなものなのか…わかる日が来るのか?」

一方的な言葉にもちろん返事はない。いままで関係を持った女たちから言われた言葉がある。「あなたから愛を感じない」「あなたには愛がない」散々好き勝手言い寄ってきて、みんな最後には決まってそう言うのだ。
愛とは何か。愛なんて神と同じくらい存在の曖昧なものだ。この世にはその曖昧なものを明瞭に他人へと表現できるような人間で溢れているのか。自分がおかしいのか、そう言ってくる女たちがおかしいのか。

「俺から愛は生じるものだと…お前は教えてくれるか」

愛とはなんだろう。そういうものに縁のない人生だったから、そんなものがわかるはずもない。むにゃむにゃと言葉にもなっていない寝言を溢す唇に指を当てる。やわく指先が沈み込む。手を引っ込めると、まだ彼女の唇の感触が残る指先を自分の唇に当てた。味などないとわかっていて、それでもどこか、甘いもののように感じられた。

「ふっ……間抜けな寝顔だ」

不意にスマホが震える。着信ではなくメッセージの通知で、表示された名前を見ながら面倒だな、と裏返す。それから立て続けに三回。そんなに馬鹿みたいに連絡を寄越してくれるなと思ってディスプレイをもう一度ひっくり返してみれば、最後の通知だけは別の人物だった。

『生きてる?』

そんな文言から始まっていて、今日まで着信は散々無視していたがこのメッセージにさえ既読をつけないと本当に面倒なことになるかもしれない、としぶしぶアプリを開く。メッセージを確認すると、そこには生存確認と仕事に復帰するつもりかどうかという問いが書かれていた。

「チッ……面倒くせぇ…」

尾形はそのメッセージに返信することなくまたスマホを裏返してテーブルの上に置いた。届いていたもう一人からのメッセージには既読もつけてやらなかった。


意識がすうっと引き上げられる。なんだか肩も腰も痛い。昨日肉体労働なんかしたかな。いや記憶にないな。そんなことを取り留めもなく考え散るうちに覚醒し、ぱちぱちとまばたきをした。

「え」

ソファの上にいる。なんでベッドで寝てないんだ。昨日の晩はどうしてたんだっけ。記憶を順に辿っていくと昨日の自分の失態がありありと思い出された。そうだ、仕事のミスをうまくフォローしてもらえて事なきを得たのが嬉しくて、あと尾形が一週間でいなくなってしまうのが寂しくて、それから彼の作ってくれる料理が美味しくて。つまるところついつい飲み過ぎてしまったのだ。
自分でもうんざりするのが、どれだけ酔っても記憶だけはばっちり残るタイプだということだ。昨日言ってしまった。それはもう堂々と。

「起きたか」
「ヒュワッ…!」

思わず鳴き声だが悲鳴だかわからない声を上げ、グギギギギと錆びついたドアのようなぎこちなさで振り返る。尾形がキッチンにもたれかかり、手にはマグカップを持っている。中身はコーヒーか、それとも水だろうか。

「お前、酒は残ってるか?」
「はいッ!イイエッ!!」
「はは、どっちだよ」

尾形は軽く笑うと、冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを持ってソファの方へと歩み寄る。わざわざキャップを一回開けてから軽く閉めてナマエに差し出し、ナマエは反射的にそれを受け取った。手のひらがひんやりと冷えていく。
尾形のマグカップの中身はコーヒーだったようで、彼が目の前に座ると香ばしい香りがふわふわと漂ってきた。カーテンの隙間からはこっそりと光が差し込んできているが、時計を見ると午前5時。休日にしてはとんでもない早起きだ。

「ごめんなさい、私がソファ取っちゃったから尾形さん眠れてないんじゃ…」
「床で寝た」
「熟睡出来てないやつじゃないですかぁ…」

昨日の自分の失言もさることながら、尾形を床で寝させてしまったことが申し訳ない。ナマエがこちらを占拠してしまっている以上寝室のベッドを使ってもよかったのに、とも思ったが律儀に「寝室には入らないこと」という取り決めを守ってくれたのだと思うと何とも言えない気持ちになった。

「あの、私昨日とんでもないことを……」
「あ?酔っぱらっちゃいたがとんでもないて言うほどのことは何もなかったぞ」

もっと一緒にいたかった、寂しい、と口走ってしまったことをさしたのだが、尾形にとっては取るに足らないことなのだろうか。ぎゅっと唇を噛む。ナマエはまるで自棄酒のごとくミネラルウォーターを呷り、キャップを閉めてぎゅっと握りしめた。

「お、尾形さんにとってはそうかもしれませんけどッ…!」

取るに足らないことだろう。彼にとってここは1ヵ月間の宿でしかない。住んでいる部屋が火事に遭い、別宅よりも足のつかない場所に逃げたくてここへ来た。何の世話もいらないから寝床だけを貸してくれと、そうやって上がりこんだ。
ぐっと涙腺が熱くなり、目尻に涙が浮かぶ。泣いてどうするんだろう。そう思っても止められなかった。

「……私、たぶん尾形さんが好きなんです。突然転がり込んできた怪しい人ってわかってるのに」
「おい、随分な言い方だな」

なんで、どうして、と聞かれても説明できる言葉がない。彼女がいないと聞いて嬉しくなったし、他人に肯定してほしくてわざわざ友人にまで話した。尾形と食べる食事は美味しかったし、あと一週間で彼との縁が切れてしまうと思うと、どうしようもなく寂しくなった。

「尾形さんと私じゃ住む世界が違うってわかってます。どうにかなろうなんて思ってないし…極道に入る覚悟なんかないし…」
「ちょっと待て」
「すみません、わかってるならそんなこと言うなって話ですよね」
「だから待て」
「一週間はいてもらって大丈夫なんで、今更出て行けとかいいませんし」

尾形は「ハァァァ」と大きくため息をつくと、マグカップを雑にローテーブルに置き、ナマエの肩をぐいっと引いた。尾形の顔が近づいて、あっと言う間に唇を奪われる。手に持っていたペットボトルが落ちてちゃぷんと大げさに音を立てる。「キャップ閉めておいて良かったな」と頭のどこかで冷静になって考えた。

「お前、やっぱり勘違いしてやがるな」
「え?」
「言っておくが、俺はヤクザでもチンピラでもねぇぞ」

鼻先の触れ合う距離でそう言われ、ジッと見つめる目力はむしろ堅気じゃないと言われた方が説得力がある。しかし本人がそうではないと言っている以上、そういった類いの職業ではないんだろう。だからといってここに来て3週間働いている素振りはないし、もしかしてそもそも職についていないのか。ナマエが思わず「ニート?」とこぼせば、未だかつてない大きさのため息が返ってきた。

「写真家だ、俺は」

しゃしんか。写真家?言われた言葉を頭の中で漢字に変換した。尾形は一度身体を離すと自分の荷物の纏まっている部屋の隅に数歩で移動し、カメラバッグを持って帰ってくる。事態が飲み込めずに黙ったままのナマエを置き去りにして尾形はカメラを取り出して、あちこちと操作してレンズをナマエに向けた。カシャリ。シャッターが切られる。

「えッ!」
「やっと戻ってきたか」

毎日よくもまぁレンズを磨いているものだなとは思っていたが、まさか商売道具だったのか。彼の発言といい黒塗りの高級車といい、先入観が強すぎてサッパリそんな可能性は考えたことがなかった。

「尾形さん、写真家なんですか!?」
「だからそう言ってるだろう。まあ、正確には休業中だが」
「え、あ、放火されたから?」
「違う。その前からだ」

尾形がスパっと切り返す。それにしても、何をどうしたら写真家が道端で刺され、マンションを放火されるに至るのか。そんなことが起こるのはヤクザでなければフィクション世界の話だろう。ナマエは恐る恐る口を開いた。

「あの、刺されたとか家燃やされたって、私、抗争のアレかと思ってたんですけど……」
「あ?そんなんじゃねぇ」

尾形はあっさりと否定し、それからぴったりと口を閉じる。言えないようなことなのならやっぱりそういう悪い世界のことを連想してしまう。自分の中で得心のいかないものを解消したくて「じゃあなんなんですか?」とそのまま問えば、尾形が一度口を開いて閉じる。それから結局しぶしぶ開いた。

「……女」
「は!?」
「半年くらい前に切った女につけられて刺された」

気まずいのか面倒くさいのか、尾形はそこで視線を逸らし、ついでに放火はこれまた数ヶ月前に切った女の元カレの逆恨みだろうと証言する。確かに抗争の類ではないが、痴情のもつれにも程がある。頭が痛くなってきた。そんなふうに恨まれるような男ならば、好きだなんていう自分の発言も見直すべきだろうか。

「……尾形さんのこと好きって言ったのキャンセルできたりとか…」
「するわけねぇだろ」
「デスヨネ」

ナマエの友人たちは非常に平々凡々な顔ぶれである。そりゃあ多少の山や谷はあるが、異性関係で恨まれた末に刺されたり家を燃やされたりするような知り合いはいた試しがない。
自ら進んでたぶらかされようというわけではないけれど、尾形のどこか人を惹きつけるミステリアスな空気とかエキゾチックな瞳だとかは、たぶらかされたって仕方ないかもしれないと思わせるものがあった。いったい何人の女性を泣かせてきたんだろう。

「……お前、なんか失礼なこと考えてるだろ」
「いや!まさか!」
「目が泳いでるぞ」

思っていることを隠せないタイプなのも自分にうんざりする点に書き加えておくべきだ。尾形はそれ以上ナマエに発言を求めることはなく、ハァと大げさにため息をついて髪をかき上げる。

「ろくに眠れてないから眠いんだ。お前のベッド使わせろ」
「それは良いですけど……わっ!?」

尾形がナマエの腰の辺りに両手をまわし、そのままいとも簡単に抱きかかえる。突然の浮遊感に驚いて、反射的に尾形の首元にぎゅっと抱きついた。
のしのしとフローリングの上を歩き、寝室に続くドアを行儀悪く足で開けると、半ば転がすようにしてナマエをベッドの上に寝かせる。そして自らもナマエの隣に寝転がった。

「え、ちょ、尾形さん!?」
「なんだよ」

なんだよでもかんだよでもない。ベッドを使う話からどうして一緒に寝る話に発展しているのか。もぞもぞと動いてみたけれど、逃げられないように脇腹をがっちりと掴まれる。

「お前もどうせ眠れてないんだろ」
「や、ソファで寝ますから…」
「なんでだよ。隣にいろ」

どうして急にこんなに距離が近くなってるんだ、だとか、どうして偉そうに命令形なんだ、だとか、言いたいことはいろいろあって、けれど尾形がどこか少年めいた瞳で見下ろしてくるものだから、抗議なんてひとつも出来なかった。

「……8時には起きますからね?」
「ん」

ただ今は、まるで自分を離したくないかのように腕を込めるこの体温に寄り添っていたい。
ナマエは瞼を閉じ、尾形の胸板にそっと頬を寄せる。少しだけコーヒーの香りがして、あとは自分と同じ柔軟剤の匂いだった。






- ナノ -