07 雑黒


夏が徐々に影を潜めている。ナマエは意を決して汚れてもいいTシャツとハーフパンツ姿になり、腕まくりまでして掃除に取り掛かった。このところ忙しくし過ぎたせいで正直ろくに掃除が出来ず、今朝黒く憎き「ヤツ」に遭遇してしまった。
ボロアパート、もといアンティークなこの物件では避けられないことのひとつだけれども、見てしまったからには徹底的にやってしまわないと気が済まなかった。

「ちょっと宇佐美くん、そこどいて!」
「別に掃除なんか僕がいても出来るでしょ」
 
1Kは四畳半の畳敷き。半ば万年床と化している布団や貰い物のテーブル、読み漁った文庫本などが積み重なっていた。そもそも部屋が不潔というよりは、圧倒的に占有面積に対して物が多すぎて、ごちゃごちゃとごちゃついているという始末である。

「ほんと豚小屋みたいな部屋だよね」
「そんなに汚くない!」
「豚って綺麗好きなんだよ。知ってた?」
「えっ、そうなの?え?あれ?てことはこの部屋綺麗ってこと?」
「フフ、相変わらず馬鹿だね、ナマエは」

宇佐美に馬鹿にされて「ムキィーッ!」と猿のような声を出してみたが、そんなものがこの男に通用するはずがない。引き続き宇佐美はナマエの掃除の導線を邪魔するような場所に立っている。

「宇佐美くんってモテなさそう」
「何を根拠に。そこそこモテてたよ」
「うっそ。こんなに意地悪なのに?」
「それはナマエが馬鹿すぎるから」

むっとしてもう一度宇佐美を睨む。すると思いのほか柔らかい顔をしている宇佐美と目が合ってしまい、どきりと心臓が鳴った。
ナマエは勢いよく目を逸らし、気にもとめてませんよ、と演出するがごとく雑多になってしまっている小物類をひとつの箱に入れようと纏めていく。その時だった。

「え、あれ…あ!あった…!!」

ナマエはびゅんっカラーボックスと文庫本の間に飛びつく。宇佐美はそれが自分のごく近くであったためにギョッとしてナマエを見下ろした。ナマエが見つけたのは乳白色の根付で、指三本分はあろうかという大きさだった。

「これ、おばあちゃんの形見なんだ。失くしちゃったと思ってて…ずっと探してたの」
「…そう。見つかって良かったね」
「うん」

ナマエは根付をぎゅっと抱きしめる。大事なものなのに失くしたんだ、馬鹿だね。なんてからかいの言葉が飛んでくるかと思ったのに、そんなことはひとつもなかった。


今日は珍しい日だった。宇佐美が日中に現れて、ナマエも劇団とカフェバーの両方オフで、完全なる休日だった。実体がないとはいえ人が立っていればもちろん掃除などしにくいことこのうえなく、なんだか物凄く非効率的に掃除を終えた。そもそも大して汚れていたという程でもないけれど、狭い部屋だから掃除をしても片付いた気は少しもしない。

「はぁ、疲れたぁ」
「別にそんなに大仕事でもなかったでしょ、こんな狭い部屋」
「だって宇佐美くんが監視するみたいに見てるんだもん…」

プレッシャーだ。寝る間際のだらだらした姿を見られているとはいえ、昼間の燦々と日光のあたる中で見られ続けるというのは中々の緊張感だった。しかも宇佐美は手伝うつもりもないようだし、まるで掃除の時間に生徒指導の教師に監視されているような気分になった。

「たるんでるぞ!ミョウジ一等卒ッ!」
「ヒッ!」

突然宇佐美から檄が飛び、ナマエはびくりと肩を震わせて小さい悲鳴を上げた。声もいつもよりも厳しく聞こえ、そろりと顔を見れば、声音に反してニヤニヤ笑っていた。

「こうやって、サボってる奴の指導とかしてたんだよ。まぁ、僕はそこまでガヤガヤ言うほうじゃなかったけど」
「宇佐美くん、偉いひとだったの?」
「偉くはないね。一等卒───並みの兵士よりは成績優秀ってくらい」

どうやら、この突然の豹変は生前の自分の様子を少し再現しようとしたものらしい。貴重な体験であるが、びっくりさせられるのは御免だ。大きい声で檄が飛ぶなんてことは稽古場でもあるけれど、現代人のそれとは比べ物にならない迫力だった。

「少尉とか?軍曹?とか?」
「馬鹿、そんなに偉くないよ。僕は上等兵」

少し呆れたように「全然知らないんだね」と言われたが、現代日本にはそもそも軍隊がないのだ。テレビで自衛隊の特集をしているときに出演者が階級で呼ばれたりしているような気もするけれど、それはもちろん帝国陸軍とは違うし、身内に自衛隊員もいないから詳しくもない。

「そもそも少尉っていうのは士官学校出てないとなれないんだよ。出身から違うわけ。まぁ軍曹は成績優秀者なら推薦してもらってなれる可能性もあるけど」
「宇佐美くんは学校出てないの?」
「士官学校は金持ちの坊ちゃんじゃなきゃそもそも入れない」

なるほど、士官学校というのはエリートの通う場所なのか。明治時代の学校制度とは非常に朝令暮改も多く煩雑で、ナマエがその細かな仕組みを知るはずがなかった。ともあれ、少なくとも宇佐美はそのエリート学校に通うようなお坊ちゃまではなく、比較的一般的な家に生まれたものと思われる。もう死んでいる人間に対してごく一般的な家に生まれているというのも何だけれど。

「宇佐美くんの隊にもいた?少尉さん」
「もちろんいたよ。一人は清廉潔白を絵に描いたような御仁で、もう一人は薩摩隼人のお坊ちゃま」
「さつまはやと?」
「鹿児島の男のことそう呼ぶの」

当然のことだけれど、宇佐美と話していると知らない言葉がたくさん出てきた。彼から聞く言葉のうちいくつかはなにも昔の言葉というわけでもなく現代も使われている言葉だったりもして、単純に自分が世間知らずなだけだったと思い知ることも何度かある。勉強になるなぁと思う反面、こんなに世間知らずでこれから戯曲なんて書いていけるものかと不安にもある。

「宇佐美くんって頭いいよね…」
「なに。急に話飛んだんだけど」
「いやぁ、なんていうんだろ。同じくらいの歳なのにさ、物知りだなぁと思って」

宇佐美が何か言いかけてグッと口を閉じる。知識という面もそうだけれど、地頭が良いというか、話していてポンポンと当意即妙な回答が返ってくるのが面白い。頭の中の知識の層が厚く、そう言う反射神経が良いのだと思う。

「ナマエは馬鹿だよね」
「知ってるよ、どうせ馬鹿ですー」

ナマエがつんっと唇を尖らせると、宇佐美が愉快そうにくすくすと笑う。そんなことは今更言語化されなくたって自分でもよくわかっている。半年ほど宇佐美と一緒に暮らすようになり、ことあるごとに「馬鹿だね」と言われ続けている。

「別に悪いとは言ってないでしょ」
「…なんか…でも嫌じゃん…」
「馬鹿なくらいがいいよ。ナマエは」

そう言われても何もいい気分はしない。ナマエが拗ねる様子を見て、宇佐美は更ににやにやと笑みを深めたのだった。


例の付き纏いに関して、しばらくの内は動きがないかに思われた。しかしついに数日前、嫌な方向に事態が進展してしまった。
稽古場を出てアムールに行こうとしているところだった。後方から視線を感じる。気のせいかと思って数回振り返り、人影はなかったもののやはりまた後ろをついてくる気配がする。

「おーい!ミョウジちゃーん!」

そのときそう名前を呼ばれ、ナマエはもう一度振り返ると、十メートルほど後ろからマツオカが手を振っていて、そこからまだ本調子じゃない足を少し引きずりながらナマエの方へ歩み寄る。

「マツオカさん。お疲れ様です」
「お疲れ。今からバイト?」
「はい。マツオカさんはどこか行かれるんですか?」
「私は病院。一応今日で先生から太鼓判もらえる予定よ」

どうやら彼女は痛めた足首のための通院らしい。大事にならなくて本当に良かった。そうだ、このままマツオカと一緒に入ればあの男に無理やり話しかけられることもないだろう。利用するような形になって申し訳ないけれど、ナマエはマツオカに「途中まで一緒に行っても良いですか?」といって、どうにか一人きりになる時間を回避したのだった。

「ただいまぁ」
「おかえり」
「はぁ…疲れた…」

それからアムールでの勤務を終え、ようやく深夜に帰宅をする。宇佐美がいつも通りの声で「おかえり」と言ってくれるのが何よりホッとする。何となく気を張ってしまう一日だった。あまりひとりきりで行動するのは避けた方がいいかもしれない。

「なに、どうかしたの?」
「いやぁ、今日ずっと変な視線感じてて…」
「例の男?」
「わかんないけど…」

顔は見えてないからわからない。とはいっても、それ以外に心当たりはないけれども。座長に報告をするか、それとも警察か。いや警察はこの状況で何かをしてくれるとは思えない。ナマエがそれきり黙ると、宇佐美がそれをじっと見つめて口を開く。

「外ではあんまりひとりにならないようにね」
「…うん、気を付ける…」

声はもうあからさまに沈んでいた。不安しかない状況で前向きに何てなれるわけがない。しかもアパートのセキュリティなんてザルだし、だからといってオートロックがついているような良いマンションに住める金があるわけもない。
ナマエはすごすごと部屋の中を進み、ローテーブルの前の定位置で膝を抱えて座った。宇佐美も後ろからついてきて、彼もまた向かいの定位置に座り、下唇を噛むナマエに苛立たし気に声を上げる

「あー、もう、そんな顔しないでよ」
「だってぇ…」
「この家の中では、僕が守ってあげるから」

声は一転して柔らかいものに変わり、宇佐美は手を伸ばそうとしてそれを引っ込める。幽霊に守ってもらうなんて少しも少しも意味はわからないけれど、宇佐美にそう言ってもらえるのは心強かった。

「……ありがと」

へにゃりとナマエが笑う。宇佐美は虚を突かれたように目を丸くして、それから目尻を緩めて柔らかく笑った。


相手に場所が割れているだろう稽古場まではなるべく人通りの多い道を使って早歩きで移動する。アムールから自宅までは防犯ベルを片手に明るい道を選んで歩く。スマホは常に110番出来るように予め用意しておく。
どうして自分がこんなふうに自衛をしなければならないんだ、と理不尽は感じるけども、結局のところ自分の身を守れるのは自分だけなのだからと割り切ることにした。
キロランケには白石経由で少し話が漏れたようで、防犯ベルを持たせてくれたのは彼である。幸いここ数日妙な視線も足音も感じない。飽きてくれたのならそれが一番ありがたい。

「……あれ?」

アパートの外階段を登っていると、自分の部屋のドアノブに白いビニール袋がかかっていることに気が付いた。アパートの誰かが落とし物でも届けに来てくれたのか、それともいまどき丁寧な引っ越しの挨拶だろうか。そう思いながら階段を登り切り、袋を手に取る。それはコンビニのビニール袋で、中にヨーグルトとカットされたパイナップルのカップフルーツが入っている。そしてさらに「お疲れさま」と書かれたメモがその中に覗いた。

「ヒッ……!!」

ナマエは思わずそれをその場に落とし、急いで鍵を開けて部屋の中に滑り込んだ。これを持ってきたのが誰かなんてことは考えなくても分かった。しかも恐ろしいのが、ヨーグルトもカップフルーツもまだ冷えているということだった。家を特定されたというのみならず、あの男はナマエの帰宅時間を把握していた可能性もあるし、何よりついさっきまで、もしかしたら今も、この部屋のごく近くにいるということだ。

「ナマエ?」
「うさ、宇佐美く……」

部屋の中には今日も宇佐美がいる。それだけが救いだった。驚きと恐怖のあまり涙も出てこない。宇佐美はすぐに異変を察知し、ナマエのそばまでスススと寄った。そしてうずくまるナマエに代わって鍵を閉める。

「どうしたの」
「ドアノブにコンビニの袋がかけてあって、中のヨーグルトとかまだ冷えてて、あの、それでお疲れさまって書いた紙が見えて…」

たどたどしいナマエの説明でおおよその事態を理解した宇佐美は「だから言ったのに」と言わんばかりのため息をつき、ナマエは震える声で「ごめんなさい…」と謝った。彼はつんと尖った唇をぐにゃりと歪める。その時だった。ピンポーンという間の抜けた音が響く。この部屋のインターホンが押された。誰に、なんてそんなの決まっている。

「ナマエ、部屋の奥に行って目瞑ってな」
「え?」
「コイツは僕がどうにかしてくる。だから戸を開けても見えないところ…そうだな、隅で掛け布団でも被ってて」

ナマエは機械のようにこくこく頷くと、這うように部屋に上がりこんで掛け布団を引っ掴む。その間にもピンポーン、ピンポーンとインターホンの音は鳴り続けていた。ナマエが布団に包まったのを確認すると、宇佐美は部屋の隅に置きっぱなしになっている金槌をふわりと浮かせた。大道具から間違えて持って帰ってきたのだとナマエが言っていたものだ。
がちゃりと鍵を開けると、その瞬間に戸の向こう側から「ミョウジさん!」と男の声が聞こえる。宇佐美はすかさず金槌を振りかぶり、男の方は何もないところでひとりでに動く金槌に驚いてその場に尻もちをつく。

「うわッ!なんだこれッ!」

宇佐美が金槌を男目掛けて振り降ろし、男の肩にそれがめり込む。続けざまに右左と払えば、恐れを成した男は這いつくばって逃げ出し、階段に辿り着いたところでふらふら立ち上がる。

「殺さないのはなんでかわかる?」

聞こえないと承知のうえで宇佐美はそう話しかけ、じりじり階段を下っていく男の後ろをゆったりとした動きで追った。一発で仕留めてやっても良かった。あの網走監獄の囚人のように。相手はこちらが見えていないのだから、そんなことは造作もないことだ。それでもそれをしないのは、ナマエの自宅周辺で死人を出したくないからだ。これ以上彼女の周りで騒ぎが起こるのは本意ではない。宇佐美は無表情のまま金槌を男の膝に打ち下ろす。

「いぎぃ…ッ!」

みっともない声を上げながら、男は外階段をごろんごろんと転がっていく。すると丁度一階に住む住民が何ごとだとドアを開き、大声で「うるせえぞ!!」と怒号を飛ばす。男は片足を引きずりながら、命からがらとでもいう様子で闇の中に逃げて行った。

「フゥ、こんなもんか」

どこかに訴え出ようにも自分の方がそもそも変質者の類なのだから、そんなこと出来ようはずもない。宇佐美は金槌を手にナマエの部屋へと戻る。鍵をきっちり施錠して中に入れば、ナマエは言いつけ通りに掛け布団に包まってじっとしていた。

「ナマエ、もう大丈夫だから」

努めて優しく声をかけると、布団の中からナマエがそろりそろりと顔を出す。頭を撫でてやりたいのに、それが出来ないのが少しもどかしい。怯えるような瞳は濡れ、外から差し込む街灯の光がささやかに照らす。

「僕の助けられないところで変な奴に絡まれないでよ、馬鹿」

宇佐美がそう言うと、ナマエは緊張していた顔をようやく少しだけ緩ませた。こんな感情になってしまうのはいつからだったか。いや、始まりなんて今更些末なことだった。ナマエはまだ肩ほどまで掛け布団に包まったまま宇佐美に笑いかける。

「ありがとう。宇佐美くんがいてくれてよかった」

追い払ったと言っても、眠るのはまだ少し怖いだろう。目を覚ますまでそばにいて安心させてやりたいけれど、それは出来ないことだった。何故なら宇佐美は───。







- ナノ -