06 幕間


千秋楽。拍手が鳴りやまない。スポットライトを浴びた主演女優はこめかみから首筋に汗を流し、一身にその熱を受けている。ナマエも初めての興奮に心臓がばくばくと鳴っていた。光で客席へと白いヴェールがかけられ、惜しみない喝采はまるで洪水だ。

「本日は誠にありがとうございました!」

主演女優のその声にあわせ、壇上の全員が「ありがとうございました」と声を出す。そしてすっと頭を垂れ、ナマエもそれに倣って頭を下げる。自分のつまさきを見て、それから深々と下げた頭を隣の役者に合わせて上げて行った。花形女優の怪我から一週間。肝いりの舞台は見事な成功をおさめた。


ナマエはTシャツとジーンズに着替えると、先輩の団員たちについてロビーに向かった。いわゆるロビー面会というもので、役者の知り合いや招待客と少し話をしたり、場合によってはファンと軽く話したりする。
今回正式に出演することになったナマエに面会予定の人間はいないけれど、表の導線確保や物販の手伝いなど、やらなければいけないことは沢山ある。

「わ、先輩やっぱりすごい」

ロビーにつくと、今回代打で主演になった先輩が数名の招待客と話をしている。それにその周りには順番を待つようにしてファンらしき男が数人様子をうかがいながらきょろきょろ視線を泳がせている。
それを横目で見つつ、今日はいつも以上の人の入りだなぁとロビーを眺める。その中に知っている顔がいることに気が付いた。

「あ」

左頬にいびつな三角形の傷を持つ彼だった。「黒い女」を楽しみにしてくれていることはあの日わかっていたことだが、この公演にも来てくれていたのか。丁度ナマエと目が合い、彼がぺこりと頭を下げた。

「ミョウジさん知り合いきてるの?」
「知り合いっていうほどじゃないんですけど…」
「よかったら行っといで。物販の方手足りてるし」

物販のブースにいる先輩の劇団員にそう言われ、一応、と彼の方に向かう。ぺこりと会釈をすれば彼もそれに返した。

「あの、今日はお越しいただいてありがとうございます。黒い女のときにチケット販売させてもらってた者です」
「覚えてます。今日の公演も良かったっす」

三角形の傷を持つ男もナマエのことを覚えていたらしい。知り合い未満の微妙な距離感が空気になって現れている。黒い女も再演のときから見てくれていたし、インゴットのファンなのかもしれない。そうだ、座長に報告するためにも聞けるなら名前を聞いておこう。

「あの、黒い女のチケット買って下さった時の話したら座長がすごく喜んでたんです。良ければ名前とかお伺い出来ますか?」
「あ、俺、野間っていいます。別に座長さんと面識あるとかじゃないんスけど…」
「野間さんですね、通ってくれてること知ったら座長また喜ぶと思うので」

やっと名前を聞くことが出来た。三角形の傷を持つ彼の名前は野間というらしい。野間は随分と物静かな話し方で、複数に話し声の溢れるロビーでは少し聞き取りずらい。彼が何かを言ったようだが聞き取れず、ナマエは「え?」と聞き返しながら一歩距離を詰めた。

「…ミョウジさん、すごい良かったです。研究生だって前言ってたのに、全然そんな感じしなかったので」
「ありがとうございます。実は告知にもあった通り急遽キャスト変わっちゃって。その代打だったんです」

一瞬どうして名前を、と思ったが、キャストを変更するにあたってSNSなどで告知しているのだから当たり前だ、と思い直す。それでも名前をわざわざ覚えてくれていたのはありがたいことだが。
野間はそれから「次の公演も楽しみにしてるんで」と言ってロビーをあとにした。ロビーで観客と話すってこんな感じなんだなぁとどこか他人事のように考える。

「あの。ミョウジさんですよね?U子役の……」
「あっ、はい、そうです…!」

背後から男に声をかけられた。知らない男だったが、手にチケットの半券を持ってるから客の一人なのだろう。

「すごく良かったです。あの、U子の笑うシーンが可愛らしいんですけど、ちょっと狂気っぽいところがあるっていうか、暗転する直前に視線下げる仕草とかすごくキャラクター性が伝わってきて…」
「ありがとうございます、細かいところまで見ていただけて嬉しいです!」
「本当にあの、U子ちゃんハマり役だったっていうか、研究生さんなんですよね?あ、SNSで見たんですけど…全然研究生だったようには見えなくて、あ、もちろんいい意味で……」

男はばたばた取り留めもなく話をする。ナマエも慣れていないために上手に話すことは出来ないが、どうやら彼は随分と熱心に公演とナマエの演技を見てくれたようで、そこまで手放しに評価されてしまうと気恥ずかしいところもあるけれど、やはりなにより嬉しかった。

「あの、握手してもらっていいですか?」
「もちろんです!」

男がふるふると震えながら手を差し出し、ナマエはそれをぎゅっと両手で握る。こんなふうに握手を求められるなんて初めてのことだった。

「これからも応援してます」
「はい、ありがとうございます!」

男はぺこぺこと頭を下げ、何度も振り返りながらロビーを後にする。過大評価だとは思うけれども、こうして評価してもらえることはありがたいことだ。これからもっと頑張ろう。そう気持ちを新たに、ナマエは物販の手伝いに戻ったのだった。


「──ってことがあってさぁ」

千秋楽公演の打ち上げののち、普段よりも遅い時間に帰宅した。アパートでは宇佐美が待ち構えていて、ナマエは早速今日会った暫定ファン一号のことについて話をした。

「……それ、大丈夫なの?」
「なにが?」
「なんか変な輩じゃないかってこと」

一緒に喜んではくれなくとも「良かったね」くらいは言ってくれるかと思ったのに、宇佐美は随分懐疑的な様子だった。
確かに話し方には独特のスピード感というか、言うなればオタクの早口のようなものは感じたが、緊張していればそんなふうにもなるだろうし、話し方ひとつで変な輩と決めつけるのはいかがなものなのか。

「だって私のSNSまで見てくれてたんだよ?」
「それが一番気持ち悪いでしょ。なんで研究生のそんなもんまで見て覚えて話しかけてくるんだよ」
「だって私が知らないだけでインゴットの固定のお客さんかもしれないし…そうだとしたらインゴットの公式アカウント経由で目に入るじゃん」
「ナマエに話しかける前後で他の劇団員とは話してたの?」
「……話しかけてなかった」
「ほらね」

宇佐美の理論に死角はない。というか、宇佐美に口で敵うわけがない。彼は頭の回転が速くて弁が立つ。それから宇佐美がトドメのように続ける。

「まだド新人のナマエに狙い打って褒めちぎるなんて、下心があるに決まってる」

そうなのだ。急遽代役で初舞台に立った自分の演技を身内から「よくやった」と労われることはあるにしても、客から手放しに褒められるのは少し意味不明で、宇佐美の言う通りだとすればそれに説明がついてしまう。

「まぁ、何にせよ気を付けときなよ。ひとり暮らしなんだし」
「宇佐美くんはいるじゃん…」
「僕はアパートから離れられないでしょ」

宇佐美は呆れ交じりにそう言った。こんなふうに毎晩のように会っていたって、宇佐美は幽霊なのだ。彼の言う通り彼はこのアパートを遠く離れることは出来ないし、ナマエが一人暮らしというのは紛れもない事実である。
こんなに普通に話をするのに、宇佐美は幽霊であって、生きた人間じゃない。初めて出逢った頃からわかっていたはずなのに、なにかどこか、突然寂しい気持ちになった。

「まぁ…とにかく千秋楽おめでとう。お疲れさま」

ナマエが気落ちしているとでも思ったのか、宇佐美がなだめるように言う。それからキョロキョロ部屋を見回し、ハンドタオルに目をつけると、それを浮かせてナマエの頭を撫でるように動かした。
宇佐美の手なんて感じられるはずがないのに、タオル越しに彼を感じられるような気になった。


その日、次回公演の打ち合わせのためにナマエは稽古場の最寄り駅で電車を降りた。マツオカが今日から復帰する。結局怪我というのは骨に異常まではなかったらしく、長期間の活動休止は免れた。もっとも、プロとして公演に穴を開けてしまったことはしばらく引きずってしまうだろうけれど。
正団員になる云々という話はまだ明確化したわけではなかった。マツオカも復帰することだし、もしかするとまだ少し先になるかもしれない。

「あれっ、ミョウジさんですよね?」
「はい?」

稽古場までの道の途中、不意に声をかけられた。振り返ると千秋楽の日に声をかけてきた男が立っていた。宇佐美の話を思い出し、思わずヒュッと息を飲み込む。

「偶然ですね。今日他の劇団の公演見に来てるんです」
「えと、あ、そうだったんですね」
「このあと東演パラートまで行くんですけど、ミョウジさんは稽古ですか?」
「あ…その、はい」

返事をしてしまって、そこで男の話がおかしいことに気が付いた。東演パラートとは劇場の名前であるが、確かいま改修工事中だ。ここでやっている「他の劇団の公演」なんてあるはずがない。

「途中まで一緒に行ってもいいですか?ア!もちろんお邪魔とかはしないので!」
「いや、そういうのは…ちょっと…」
「どうしてもダメですか?いいですよね?」
「あの、ごめんなさい…」
「えっ、何でですか?こんなにお願いしてるんですよ?」

グイグイと男が詰め寄るような勢いで言った。走って逃げるか。いや、しかし稽古場までの間に追いつかれてしまうかもしれない。男の言い分をのんでやり過ごすか。稽古場までは幸いそう距離があるわけでもない。どうしよう、どうすればいいだろう。

「あれぇ、ナマエちゃん?」

割って入ったのはどこか間の抜けた声だった。いつの間にか落ちていた視線を上げると、そこには綺麗な坊主頭の男が派手なシャツを着て、棒付きキャンディーをぺろぺろと舐めている。アムールの常連、というかキロランケの友人の白石だった。隣には顔にカタカナの「サ」のような傷がある随分といかつい男の連れがいるけれど、そちらは見覚えがない。

「白石、知り合い?」
「キロちゃんのカフェのバイトの子」

白石が隣の男に言った。救世主だ。ナマエは「助けてください」と二人に言おうとして、それより早く顔に傷のある男が口を開いた。

「なぁアンタ、さっきからお姉さん困ってるみたいだったけど」

彼はずいっと一歩踏み出て、自称ファンの男とナマエの間に立つ。身長も高いしガタイもいいから、傍に立つだけでかなりの威圧感があった。

「な、なんなんですか、俺はミョウジさんのファンで……」
「ファンだからって迷惑かけていいわけじゃねえだろ」
「ミョウジさんは迷惑とか一言も……」
「ア?」

そう凄まれて、男は「ヒッ」という悲鳴とともに黙った。もうこの状況ではどうしようもないと思ったのか、そのまま「また公演行くので!」とナマエに向かって言ってそのまま駅の反対側に走り去っていく。ナマエはやっと息をついた。

「ナマエちゃん、大丈夫だった?」
「すみません、妙なところをお見せしてしまって…ありがとうございました」

白石に気遣われ、ナマエは二人に向き直るとぺこりと頭を下げる。本当に助かった。稽古場に近いこんな場所で騒ぎなんて起こしたくなかったのだ。顔に傷のある男は杉元佐一と名乗った。白石は友人だと言ったけれど、杉元はそれを「腐れ縁の間違いだろ」とばっさり切り捨てる。すると白石が「クゥゥン」とまるで捨てられた子犬のような顔をして、それを見ていたら緊張の糸が切れ、思わず少し笑った。

「ナマエさん、あれストーカー?」
「いえ、そこまでなにかされてるとかじゃないんですけど、今日は何か突然強引に来られてしまって…」
「ああいう手合いはつけあがるから、早いうちに対処しといたほうが良いと思うよ」

杉元が気づかわしげにナマエを見る。確かに、今日のこれで済めばいいけれど、これからこういうことが続くとなれば劇団にも迷惑をかけかねないし、エスカレートするかも知れないと思うと恐ろしい。しかし実害のない現時点でどこにどう相談すればいいものか。

「まぁまぁ、今日のところは無事で良かったってことで、ね!ナマエちゃんどこか行く途中だったんでしょ?送るよ」

空気を変えるように軽快に白石が言った。手間をかけさせるのも悪いと思いつつも、まだ先ほどの男が近くにいるとなると怖くなって、申し出に甘えることにした。劇団に所属しているということは二人ともキロランケから聞いていたわけではないようで、道中で話せば驚いた様子だった。
そしてその日帰宅してことの顛末を宇佐美に話すと、目じりをキリキリと吊り上げて「だから言ったでしょ」ときついお叱りを受けることになるのであった。







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