05 芝居


公演の準備は滞りなく進んでいた。8月の公演は新作公演だ。座長の書き下ろしで、あるひとりの女殺人鬼の一生を描いたものだった。インゴットの公演としては、最長の公演時間を誇るものであり、劇団としても気合の入った舞台であることは間違いない。
ナマエはその日も日中稽古場に向かい、大道具に衣装にと忙しなく裏方作業に勤しんでいた。裏方作業の中でも学べることは山ほどある。最終的に劇作家になるとして、役者はもちろんのこと、裏方へも深い理解があるほうが有利に決まっている。

「ミョウジさん、その衣装合わせるからこっちにまわして」
「はい!」
「ミョウジちゃーん、午後から次のフライヤーの受け取り行けるー?」
「はい!14時からなら行けます!」
「あれ、二幕の小道具どこ行った?」
「あっ、それなら今座長がチェックしてます!」

あちこちからナマエに言葉が飛ぶ。大人数ではないのだから、もちろんのことひとりひとりの仕事が多い。その中でもナマエは下っ端で研究生という立場だから、メインで任される仕事がなくてもあれこれと忙しい。簡単に言ってしまえば一番の雑用係である。

「えっと、フライヤーの受け取りを先にして……ミョウジフライヤー受け取り行ってきまーす!」

ナマエは「はーい」という団員たちに声を背に聞きながら作業場を出て印刷会社に向かう。フライヤーをいつも頼んでいる印刷会社で、稽古場からは徒歩10分くらいのところにあった。今日受け取るフライヤーはもちろん今稽古しているものではなくて、更に次の公演のフライヤーである。印刷会社の従業員ともいつの間にかすっかり顔見知りになってしまった。


忙しなく印刷会社から戻ると、いつになく稽古場が騒ついている。なにかトラブルでもあったのだろうか。

「あの、何かあったんですか?」
「さっきマツオカさんが稽古中に転んだんだよ。歩けないくらいで、いま病院に行ってる」
「えっ!!」

まさか自分が不在にしている少しの間にそんなことが起こっているとは少しも思わず、ナマエは大きな声を上げた。公演はもう一週間後に迫っている。端役ならまだしも、マツオカは主演だ。大事がなければいいが、もしもの場合はどうなってしまうのか。

「あの…こ、公演は……」
「代役を立てるしかない」

言葉を引き継ぐように座長が言った。マツオカはインゴットの花形で、なかなか替えの効くような人材ではない。このところのインゴットの主演と言えばマツオカや座長であり、他の追随を許さない側面があった。
どうなってしまうのだろう。公演一週間前で主演の花形女優が怪我をするなんて、ナマエにとっては初めてのことだった。しかし公演を取りやめることなんて出来るはずがない。座長の言う通り代役を立てて上演するほかないだろう。そうなったらこのひとか、それともあのひとか。ナマエは焦った頭でぐるぐると考えていく。

「…ミョウジ、君にも本番に出てもらう」
「え……え!?」

ナマエは先ほどよりも大きな声を上げた。座長は今たしかに本番に出てもらうと言った。研究生の自分に、だ。もちろんいままでプロとして舞台に立ったことは一度もない。あるのは地元の高校の演劇部の公演くらいなものだった。

「ミョウジが熱心なのは知ってるし、もうそろそろ研究生から上がる頃合いだと思ってたんだ。いい機会だし、君にも任せたい。出来るか?」
「は、はい!頑張ります…!」

突然訪れたチャンスに、バクバクと心臓が鳴った。本番に出られる。舞台に立つことができる。左胸に手のひらを当て、興奮を抑えるように何度かゆっくり呼吸を繰り返した。


どたばたと忙しない足取りでアパートの外階段を登っていく。降って湧いた千載一遇のチャンスを早く宇佐美と共有したかった。この日ばかりは近所迷惑だとかもお構いなしで、一直線に自分のアパートに向かう。

「ただいま!」

深夜0時にはあり得ない声の大きさで部屋の中に向かってそう言うと、中からいつもの「おかえり」が返ってこない。代わりに隣室の壁がドンッと大きく叩かれる。そろそろ大家さんに話が入ってしまうかもしれない。

「今日は宇佐美くん来ない日なのかな……」

大きな独り言をそう口にして、玄関でスニーカーを脱ぐといそいそローテーブルの前の定位置に向かってぽすんと腰を下ろす。鞄の中から次回の台本を取り出し、早速開いた。
ナマエに任されたのはもちろんマツオカの代役などではない。マツオカの代役には先輩の劇団員が入り、その穴埋めの、さらに穴埋めとして端役を任されることになった。台本は頭に入っているけれど、他の役者との掛け合いや実際の舞台上での動きなど、確認しなければならないことは沢山ある。台本を頭からめくり、流れをもう一度確認していく。

「あれ、台本見てる」
「あっ!宇佐美くん!」

ふっと背後から声がかかり、ぱぁっと顔をあげる。宇佐美だ。宇佐美はナマエを見下ろすと、彼もまた定位置と化しているナマエの向かいに座り込んだ。

「聞いて聞いて!」
「なに、めちゃくちゃ機嫌いいじゃん」
「私、来週の公演出られることになったの!」

飛び上がらんばかりの勢いでそう言って、また壁を叩かれてはかなわないとハッと口をつぐむ。宇佐美はただでさえ大きい目をぱっと開いて驚いている様子だった。

「下働きだったんでしょ?なんで急にそんなことになったの?」
「うん、まぁあんまり手放しに喜べないんだけどさ、主演の先輩が怪我しちゃったんだ。それで空きが出た端役を私がやらせてもらえることになったの」

根本的に、マツオカが怪我をしたことで出た空きに入れてもらえるということになっているのだから他人の不幸を喜ぶようで少し気になるが、だからといってこのチャンスをみすみす逃すことには出来ない。きっと今回の役を充分にこなすことが出来れば正団員への昇格の話が出てくるに違いない。

「すごいね。で、それが次の台本?」
「そう。頭には入ってるんだけどさ、演じるならそれだけじゃダメだから」

宇佐美は反対側からナマエの手元を覗き込む。果たして明治時代の軍人である彼に戯曲が読めるものかと少し思ったが、そういえばナマエの拙い戯曲を酷評されたのだった。宇佐美はそのままの姿勢で「どんな内容?」だとか「君の役は?」だとか、比較的興味深そうに尋ねてきた。

「えっとね、殺人事件で家族を失った女の人の話なんだけど、小学校の時にそのひとは同級生を殺してしまうの。で、その殺人が見つからなかったことに女のひとは自分が正しいんだって解釈して、そこからどんどん邪魔になった人を殺していく…っていうミステリなんだけど…」
「ナマエの役は?」
「私はこれ。繰上りみたいな感じで穴になっちゃって」

言ってしまえば、ナマエの役はさほど物語の中で重要な役ではない。主人公の女に殺されることもないし、大きな影響を与えるということもない。しかしそういう役にもきっちりと役割がある。さてどうやって演じればいいのか。空気感に溶け込んで、他の演技の妨げにならないように立ち位置を正確に理解していく必要がある。
あのあと役を入れ替わって合わせてみたが、やはり重要なシーンを優先的にやるためにナマエのところはまだ殆ど手つかずだった。
台詞の読み合わせだけでももう少しやりたかったな、と考えていて、ナマエにひとつの妙案が思い浮かぶ。

「…ねぇ宇佐美くん。読み合わせ付き合ってくれない?」
「僕が?」
「そう。書いてあるところ読むだけでいいから!」
「なんで僕がそんな面倒なこと…」
「お願いっ!」

パチン、と両手を合わせて拝むように宇佐美に頭を下げる。すると、宇佐美が「しょうがないなぁ」と大きくため息をついて、台本を寄越すように指さす。これは読み合わせに付き合ってくれるということだろう。

「ありがとう!」
「ほら、大きい声出すとまた隣から怒られるよ」

宇佐美の手はまるで生きている人間のように台本を取り上げ、それを指でぺらぺらとめくった。どういう仕組みで無機物に触れているのかはわからないけれど、あまりに自然な仕草だった。でも彼に実体はない。手持ち花火を彼の手から引っ手繰ったときだって少しも感触なんてなかった。

「面白いね、これ」
「あっ、やっぱり宇佐美くんもそう思う?」
「うん。同級生殺しちゃうところなんか共感できるなぁ」
「えっ?」

寄りにもよってそんな殺人衝動に共感すると言い出し、しかもそれが冗談か本気なのかもわからないから始末が悪い。宇佐美は「なんてね」などという冗談めかす言葉を付け加えることもなく更にぺらぺらとページをめくっていく。

「別に僕、芝居の経験とかないからね」
「うん、本当に付き合ってくれるだけでありがたいから」

より難しそうなシーンを選び、そこを重点的に読み合わせて行く。宇佐美は思いのほか上手くこなしていった。深夜だから大きな声も出せなくて、しかしその状況でここまで自然に出来るのだから、彼はもしかして芝居の才能があるのではないかと思わされた。

「宇佐美くん、上手だね」
「そう?」
「うん。昔お芝居やってたんだっていわれてもびっくりしないくらい」

じっと見上げてそう言えば、宇佐美は少し何か考える素振りをしたあとに「当たらずとも遠からずか」と溢した。経験はないと言いながらも、何か思い当たることでも実はあったのだろうか。

「気弱で人の良さそうな新人とか、そういうのなら得意だよ」
「え、なんでそんな限定的?ていうか、宇佐美くんにそんなしおらしい感じ出来るの?」
「ナマエ、僕が生き物に触れないからってナメてるだろ」
「ち、違う違う!だって真逆だから想像出来ないんだもん!」

ナマエが慌てて弁明した。ナマエに対する宇佐美は概ねしおらしさとかそう言うものとは無縁に思える。別に嫌がらせをされたり呪われたりはしていないが、正直な物言いにしおらしさは一切感じられない。

「ねぇ、本当になんでそんなに限定的なの?やったことあるの?」
「まぁね。演劇じゃないけど」

どうやら実務経験からくる自信だったらしい。なんだろう。例えば軍に入った当初のパワハラ的なものから身を守るためとかだろうか。いや、当時の事情はよく分からないが、そんな気弱な様子を見せた方がそう言うものは加熱する気がする。
ナマエがうんうん考えていると、宇佐美は「まぁもういいか」と言って真相を話し始めた。

「間諜やってたんだよ、僕」
「かんちょう?」
「スパイ」

首をかしげるナマエに宇佐美が分かりやすい言葉に言い換えた。間諜という言葉に馴染みはなかったけれど、スパイと言われればよくわかる。そんなドラマみたいなことをしていたのか。いや、幽霊だという時点でそもそもドラマチックなのだけれども。

「軍のお仕事?」
「あー、まぁね。網走監獄ってあるでしょ。あそこでちょっとした情報収集するために看守として潜入してたんだ」

網走監獄というか網走刑務所といえば、日本一過酷な刑務所として有名なところである。学生時代に習った内容によれば、確か一度山火事で燃え落ちたのではなかったか。歴史的な話で思い出せるのはそのぼんやりとした記憶くらいで、あとは映画スターが有名な映画を撮っていたとか、そういう最近のことしか知らない。だから明治時代がどうであったかなんて知るはずもなかった。

「宇佐美くん、陸軍の軍人さんだったんでしょ?刑務所だってなんか仲間みたいなものじゃないの?」
「そもそも軍とは違う組織だし、どこもかしこも仲良しこよしってわけじゃないんだよ」

たとえ今の日本の刑務所の話でさえも、確かにどういう法律のもとでどういう組織がどうやって管理運営をしているかと言われると、正しく答えられる自信はない。当時を生きていた宇佐美が言うのならそうなのだろう。

「その諜報活動は成功したの?」
「あー…まぁ、そこそこ」

宇佐美は何か歯切れ悪い。スパイ活動とはいえ、100年以上前のことだし本人も話すくらいだし、聞いていけないことはないのだろうと思ったのだが不味かっただろうか。そうは思いつつも、ナマエは好奇心で「どれくらい潜入してたの?」続けて尋ねる。

「…三、四ヶ月くらいでバレた」
「えっ、結構すぐバレてない?」
「うるさいなぁ。やってもないのに簡単に言わないでくれる?」

宇佐美はそう言ってチッと舌を打つ。そのさまは随分迫力があって軍人だったんだもんな、と改めて思い直した。あまりに気安過ぎてついつい忘れてしまう。ナマエが黙ったままでいると、宇佐美は台本をテーブルに置いてトントントンと指で叩くジェスチャーをした。

「ほら、読み合わせやるんでしょ。付き合ってあげるからさっさと続きやるよ」

以前、自分の戯曲を見せたときには酷評の方が気になって頭から抜けていた。明治時代の人間というのは、現代の文章をこんなにもすらすらと読むことが出来るものなのだろうか。ナマエと生活しているのだから学習した、と言われればそれまでだけれど、なにかどこか、しっくりこないものがあった。







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