03 明転


夏が始まった。といってもこの頃は夏の始まりが早くなっているから、もうずっと暑い日が続いているとは思うが。
ナマエのアパートには古いタイプのエアコンしかついていない。真後ろの窓を開けておく必要のある窓付けエアコンで、室外機が要らないのが売りだが、使用時の音も大きくて電気代も高い。

「あっ、つい…」

そのためあまり使用することなく、劇団の先輩からおさがりで貰った扇風機でなんとか夏をやり過ごしている。
深夜に差し掛かる時間だというのに、気温は一向に下がる気配がない。熱帯夜とはまさにこのことだ。窓を開けて風通しを良くしてみようと試みるも、ひとつしか窓がないのだから大した効果はなかった。

「ねぇ、宇佐美くんって幽霊なんだからなんか保冷効果とかないの」
「はぁ?ひとを何だと思ってんの」
「地縛霊」

暑さえへの苛立ちから適当にそんなことを言えば、苛ついたのだろう宇佐美がペットボトルのキャップをナマエに向けてポコリとなける。必要以上に「痛いっ」と言ってみたが、そんなものが宇佐美に通用するわけもなかった。

「ていうか、私が言っといて何なんだけどさ、宇佐美くんって地縛霊なの?」
「さぁ、どうだろうね」

この話題を振ると、未だにはぐらかされる。前も同じようなことを聞いて、だけどその時も鍋が噴きこぼれそうになってしまって聞けずじまいだった。何となくずっとタイミングが悪い。
とはいえ、これはただの興味本位で聞いているに過ぎないことだった。宇佐美がどんな理由でここにいるにせよ、恐らく自分には関係ないことだろうと思っているからだ。

「夏真っ盛りってかんじでさぁ、アムールも学生っぽい子多いんだよねぇ」
「アムール?」
「うん。私が働いてるカフェバー。あれ、お店の名前言ったことなかったっけ」

聞いたことない。と相槌を打ち、アムールという言葉になにかじっと考える。明治時代の外国語の浸透率は調べたことはないけれど、なにか知っている言葉だったのだろうか。アムールと言えばフランス語で「愛」だ。さほど難しい単語というわけでもないし、文学作品か何かで知っていたのかもしれない。

「で、なんだっけ。学生が多くなってきてるの?」
「え、あ、うん。どっちかっていうと年齢層高いお店なんだけどさ、さすがに長期休暇始まると学生さんも増えてきて…」

宇佐美が話をまた戻してしまったので、真偽のほどは定かではなくなってしまった。高校を卒業してからこうして上京してきているナマエにとって、学生という存在は何だか眩しい。こんなことを言ってしまうと「まだ若いくせに」とオーナーに笑われてしまいそうだけど。

「来月からは大学生も夏休みになるし、ちょっと隠れ家っぽいって言っても新宿だしね、忙しくなるなぁって」
「副業忙しくなって本業は?」
「8月末に公演打つから団員は稽古だけど、私研究生だし…また裏方かな」

インゴットは比較的公演の数が多い。だから数ヶ月間音沙汰無し、なんてことはなく、年がら年中何かと忙しい。もっとも、これは座長や花形のマツオカのような人間のことを指すが。

「戯曲、自分で書いたりしないの?」
「えっ」
「だって、結局それが夢なんでしょ。女優はその通過点でさ」

それはそうだ。劇作家に憧れて上京して、インゴットの座長の勧めで今はまず女優の道を目指している。戯曲を書いたことがないかと言えば、それは否だった。今まで五つほど着手して、二つほど書き上げていた。とはいっても上演する場所も役者もいないのだから、人前で上演したことは勿論ないが。

「見せてよ。ちょっと興味ある」
「で、でもさぁ…」
「どうせご都合主義の稚拙な出来ってのはわかってんだから」
「辛辣だなぁ」

宇佐美の物言いは些か真っ直ぐ過ぎてチクチク感じることがあるけれど、忌憚のない意見だということは間違いがなくて、それはすこし心地が良かった。幽霊にとってはもうこの世の人間の事なんてどうでもいいと思っているだけなのかも知れないが。

「じゃ、じゃあ…これ…」

ナマエが差し出したのはくたびれた大学ノート。これはまだ高校在学中に書き上げた一番初めの戯曲だった。舞台は南の島。特別な力を使う巫女の一族がいて、主人公はその一族の娘。島には青い洞窟というものがあり、それには神聖な力が宿るとされている。そしてそれをめぐって、巫女の本家筋と分家筋のお家騒動が始まる。

「……これ、分類的には何になるの?」
「えっと、ミステリーかな…」
「なんか全体的に漠然としてるけどさ、ナマエって実際こんな感じの島行ったことある?」
「さ、札幌生まれの札幌育ち…」

忌憚のなさすぎる意見がズバズバ飛んでくる。実際に見聞きしていないものを表現するというのは確かに難しい。何ごとも実体験が一番生々しく簡単に表現できるものである。しかし自分の実体験を戯曲にしたところで少しも面白くないと思う。平凡な人生だ。

「具体性がなくて退屈。あと最終的に主人公が島の外の男と結ばれて終わるっていうのもご都合主義の極みってかんじでつまらない」
「でもハッピーエンドは気持ちいいし…」
「だったらそうなっていくことを納得と共感できる理由がないと、書いてる人間が気持ちいいだけでしょ。誰かに見てもらいたいならさ」

ご指摘ごもっともである。趣味の作品ならいざ知らず、商業的に価値を持たせるためには観客を楽しませるものでなければならない。世の中にはその限りでない作品も存在するが、それはごく個人的なものであったり、実績を詰んだ作家による新しい挑戦的なものであり、駆け出してもいないナマエが目指すべきところではない。

「もっと身近なものから書いた方がいいんじゃない」
「うっ…言われると思った…」

確かに、行ったこともない南の島を舞台にしたミステリーなんて無理がある。これを書いたときは確かその時に読んだ本に影響を受けたのだったと思うが、思い返してみれば模倣になってしまっているような表現もある気がする。

「でもさ、私の人生なんて少しも面白いことなんてないんだよ。普通の子供で、普通の高校卒業して、普通に家族に上京反対されて、家出みたいにして連絡も取らずにさ」
「充分面白いと思うけど。反対されたからって本当に家飛び出すやつって。そんなに多くないでしょ」

自分の人生で一番面白いことになっているのは間違いなく今だろう。家族の中で唯一夢を応援してくれていたのは祖母だけだった。しかしその祖母が亡くなり、孤立無援の状態になった。何度も繰り返した喧嘩を止めてくれるのはいつも祖母で、その祖母がいなくなってからは喧嘩をしても落としどころも見つからず、引っ込みがつかなくなって家出同然で上京した。

「でも…こんなの面白いかな?」
「本当のことだけを書くんじゃなくて勿論嘘を混ぜるんだよ。そうしなきゃ大体の人間の人生なんかつまらないに決まってる」

まさか幽霊にアドバイスを貰うことになるとは思わなかったが、言葉は中々に的を射ていた。つまらないし振り返りたいとも思っていなかった自分の人生を、今少し振り返ってみても良いのかもしれない。


ナマエはその日、座長に頼まれた用事で所沢に来ていた。お遣いも済ませてさあ帰ろうというころにはすっかり日が落ちていて、しかし中々人が多い。何か祭りでもあるのか、と思っていたら、不意に少し遠くからドォンという大きな音が聞こえた。振り返れば、夜空にぱらぱらと美しく光が飛び散っている。

「わぁ…花火だ」

そうか、今日はこれを見に来た客が多くてこんなにも混んでいるのだろう。納得だな、思いながら、しかし一人でこれを鑑賞する気にもなれず、そのまま改札を潜って都内に向かう電車に乗った。
一時間半ほどで家の最寄りに到着し、家の近くのコンビニでアイスを買って帰ることにした。もちろん贅沢で有名なメーカーのカップアイスなどではなく、ソーダ味のお手頃なアイスキャンディーが目当てである。涼しい店内に入り、早速冷凍ストッカーの方へ向かう。そのとき季節商品を扱う棚が目に入った。

「あ」

花火だ。ファミリー向けの手持ち花火のセットが売られている。宇佐美くんは花火好きかな。そんなことを思ってしまって、気が付くとアイスではなく花火セットを持ってレジに向かっていた。
そこから数分で帰宅し、いつも通りに「ただいまぁ」と声をかければ宇佐美の声で「おかえり」と返ってくる。今日は少し早く出てこれているらしい。

「宇佐美くん見て見て。花火買ってきたんだ」
「うわ、無駄遣い」
「そんなこと言わないでよ。宇佐美くん好きかなぁと思って買ってきたのに」

ナマエは早速部屋の隅に転がっているライターを探し出し、宇佐美に「一緒にやろ」と声をかける。宇佐美は少し面倒くさそうな様子を見せながらも、なんだかんだとナマエについて表へ出た。アパートの敷地内なら宇佐美も行動可能な範囲だ。

「はい。宇佐美くんの分」
「……空中に花火が浮くことになるけど」
「大丈夫だよ。アパートのひとくらいしかここ通らないし」

宇佐美に手持ち花火を一本持たせ、その先にライターで火をつける。持つ、と言ってもポルターガイストの要領というか、彼には実体がないのだから持つという表現が正しいのかはわからないが。

「火、貰うね」

そう言って宇佐美の隣にしゃがんで導火線を近づける。ボボッと燃え移り、そこから勢いよく火花が散り始めた。黄褐色が柳のように流れていく。花火で少しだけ手元が明るくなったが、宇佐美の姿が濃くなることも薄くなることもなかった。

「今日さぁ、お遣い先で花火大会やってたの。あんまりちゃんと見えなかったけど、打ち上げ花火は迫力あるよねぇ。ああいうのってなんか伝統って言うか、日本の夏だなぁって思う」

所沢で見た打ち上げ花火を思い出す。少し遠かったけれど、やっぱり綺麗だった。もっと近くで見ればきっともっと迫力があって圧倒されたことだろう。ナマエが「宇佐美くんの時代はどんなふうだった?」と尋ねる。

「昔は別に、専門の職人とかいなかったよ」
「えっ、そうなの?」
「少なくとも僕が死んだ明治41年まではね。農家が趣味で作ってるとか、そういう感じだった」

てっきり昔々から花火職人のようなものがいるのかと思っていたのに、そういうわけでもないらしい。こんなことは宇佐美と出逢っていなければ知ることも調べることもなかっただろう。丁度二人とも持っていた花火が終わってしまって、次の一本に火を移しながら構える。

「なんか…100年前ってだけでさ、そんな大昔の事じゃないはずなのに…いろんなことが全然違うんだね」
「まぁね、あの時代は西洋化が急速に進んで…実際生きてた僕だって目まぐるしく色んなことが変わっていった。法律も朝令暮改ってかんじの多かったし」

幕末から明治にかけては、本当に激動の時代である。長く鎖国の時代を経た日本が開国し、それまでの徳川の時代が終わって朝廷へと主権が返還された。その後列強諸国に追いつかんとさまざまな政策によって近代化を測った。明治時代は45年であるが、初期と後期では驚くほど文化に違いがある。

「宇佐美くん、そんな時代を生きてたんだもんね」
「…なに、急に」
「だって…なんか宇佐美くんって話してても全然昔の人って感じしなくてさ、教科書に載るような時代に生きてたんだなんて、忘れちゃいそうなんだもん」

100年以上前に死んだ人間のはずなのに、不思議と宇佐美と話していて会話の齟齬が起きることはなかった。もしかしてこの100年間、彼は幽霊のままこの世界を見てきたんだろうか。だとしたらそれは、どれだけ孤独なことだろう。

「宇佐美くんの話もっと聞かせてよ」
「嫌だね。どうせナマエの下手な戯曲のネタにされるんでしょ」
「なっ!違うって!」

ただ純粋に話をしたかっただけなのに、とそう反論すると、丁度その時にアパートの住人が敷地に足を踏み入れた、手持ち花火がひとりでに浮いているところを見られては不味いと、宇佐美の持っていた花火を無言でひったくる。
両手に花火を持って一人さみしく花火をしているという非常に不審な人物に仕上がってしまった、とひったくってから気が付いた。

「こ、こんばんわぁ…」

引き攣った顔で何とかそう挨拶をすると、住民は訝し気にナマエを見て会釈だけをしてそそくさと自分の部屋に入っていった。隣で宇佐美が腹を抱えて笑っていて、誰にも見えないし聞こえないからってあんまりだぞ、と睨みつけるけれど、彼に効くはずもない。
花火をひったくったときも、やはり宇佐美の手の感覚なんてものは少しも感じることが出来なかった。







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