02 劇場


宇佐美という男は、ナマエの部屋に憑く幽霊である。
実体のない彼は壁も戸もすべてすり抜ける。けれど彼の意思で触れようと思えば触れることも出来る。これは無機物限定の話であって、人間を含めた生き物には触れることが出来ない。

「宇佐美くんって生前東京にいたりしたの?」
「いや、任務で来たことはあったけど、住んでたことは一度もないよ」

そうなのか、とナマエはまた頭を抱える。どうして宇佐美がこの部屋を離れることが出来ないのか、という点に関し、何かヒントはないものだろうかと考えていたのだ。
行動範囲を制限される幽霊といえば地縛霊のようなものがよくあるそれだけれど、縁もゆかりもない地で地縛霊と化すというものおかしな話である。死んだ場所、というのも少し考えたが、それだって札幌の任務だと言っていた。

「なに、急に」
「あ、いや。なんでこの家から出れらないのかなぁって思って」
「そりゃあ……」

宇佐美はそこまで言って黙ってしまい、ナマエはこてんと首を傾げる。しかし言葉は続けられることがなくて、そのまま「なんでもない」と黙ってしまった。絶対何か心当たりがあるに違いないとは思うけれど、追及したところで答えてくれる気がしない。

「ナマエ、鍋吹きこぼれそうだけど」
「えっ…あッ!!」

宇佐美に言われてコンロに目を向ければ、今にも湯が吹きこぼれそうな調子だった。慌ててつまみを弱火に傾ける。貴重な食材を無駄にせずには済んだけども、やはり宇佐美にはぐらかされてしまった。


ナマエが研究生として所属する劇団「インゴット」は下北沢を拠点にする小さな劇団だ。座長は舞台人の登竜門とも呼ぶべき某有名大学の第一文学部出身の男で、元々インゴットは彼と彼の同級生によって旗揚げされた劇団である。
ナマエのここでの仕事は裏方ばかりだ。そもそも研究生という立場上それは当たり前のことではあるが。

「ミョウジさん、こっちのフライヤー配りに行ってもらっていい?」
「あ!はい!行きます!」

ナマエは作業の手を止め、先輩の劇団員からフライヤーを受け取る。これは来週行われるこの劇団の公演のものである。もちろん、研究生であるナマエはこれに出演するわけではない。
作業場を出てフライヤーを手に駅前に向かった。駅前にはナマエと同じようにフライヤーを配っている他劇団の人間が数人いた。日本屈指の演劇の街というところだろう。

「お願いしまーす!劇団インゴットでーす!」

なるべく気前よく声を出す。誰も陰気な売り子からビラを貰いたがらないだろうしチケットも買いたがらないだろう。とはいえ、そうそうチケットは買ってもらえるものでもないしフライヤーだって受け取ってもらえる機会は少ない。演劇の街ということもあってきっと他の駅よりは興味を持ってもらえる機会も多いが、現実は甘くない。

「劇団インゴットでーす!来週の公演のご案内してまーす!」

次回公演は「黒い女」というサスペンスである。脚本は座長が書いたもので演出も座長。公演としては再々演。再演の際に客として見たけれど、同時多発的な演出に「目が足りない」と思った衝撃は忘れられない。

「黒い女再々演でーす!よろしくお願いしまーす!」
「黒い女ってマジですか」
「えっ」

公演名に反応したのか、斜め後ろから男に声をかけられた。ナマエは慌てて振り返ると、声をかけてきた男にフライヤーを差し出す。男は坊主頭で、左頬にいびつな三角形の傷があった。

「あ、あの、再々演で…!良ければ!」
「今チケット買えますか?」
「はい!もちろんです!」

男は財布からチケット二枚分の代金を出し、ナマエは「二枚ですか?」と確認をする。どうやら友人を連れてきてくれるつもりのようで彼はチケットを二枚購入した。

「黒い女、再演のとき見たんスけど、最高でした。えっと、インゴットの方ですよね?」
「あ、はい。研究生です」
「公演楽しみにしてます。頑張ってください」
「ありがとうございます!座長に伝えておきます!」

男は満足げにチケットを見て、ナマエに頭を下げると駅の反対側に歩き去っていった。こうして声をかけてもらえるのは貴重なことだ。ものすごく弱小、とまでは言わないけれど、インゴットはまだまだ小さな劇団である。

「あっ、名前聞いておけば良かった」

せっかく座長に報告しようにも、名前を聞き損ねては抽象的な人物像を伝えることしかできない。再演ということはもしかしたらナマエが見たその日にも、同じ客席に座っていたのかもしれないな。そう思うとなんだか不思議な縁を感じた。


フライヤー配りにある程度見切りを付けて作業場に戻る。黒い女は掛け合いがメインのミステリのため、セットはそれほど凝っていない。あれから手売りのチケットが三枚捌けた。結構な収穫だ。

「お疲れ様です、ミョウジ戻りました」
「ミョウジさんお疲れ。感触どうだった?」

ナマエが戻ってきたのを見て、座長がとことこと歩み寄る。50歳手前の彼は昔この劇団で役者もしていたが、今は脚本や演出をメインにしている。他の劇団で脚本を書くこともあり、名実ともにインゴットの大黒柱だ。

「手売りで五枚捌けました。二枚買ってくださった方がいて、その方は再演のときにも見に来てくださったそうで…」
「マジ?嬉しいなぁ。名前とか聞いた?」
「すみません。それが聞き忘れちゃって……左頬に大きな傷がある男の人だったんですけど…」

傷かぁ。と座長は首をひねる。あの大きな三角形の傷はかなり印象的で、見たら忘れることはないのではないだろうか。そう思うと、座長は例の彼とは面識はないのかもしれない。
ナマエはそれから先輩たちの作業に合流する。役を貰っているメンバーは稽古に勤しみ、その他の面々はセットやら衣装やらにかかった。

「ミョウジちゃん、最近伸びてきたよね」
「えっ、本当ですか?」
「うんうん。最初は正直どうなることかと思ったけど…そろそろ研究生上がらせてもらえるんじゃないかな」

声をかけてきたのは劇団の花形女優であるマツオカだった。彼女は15年くらい前からこの劇団に所属していて、黒い女の初演、再演、今回の再々演と主演を任されている。そんな彼女にこう言ってもらえることは有難いことだ。

「ミョウジちゃん将来的には作家目指してるんでしょう。それなら、今から人間観察はよくしといた方がいいわ。絶対将来役に立つから」
「人間観察、ですか…」
「うん。だって作家っていろんな人の人生を書くでしょう」

人間は自分以外になることはできないが、演劇で自分のことばかりを書くわけにはいかない。想像するしかない他人の人生をそこに描き出すことが出来なければ、到底作家になどなれるはずがない。
しかし観察と言っても見るだけでは何かが分かるような気がしないし、一体どうすればいいのだろうか。
そのナマエの困惑ぶりがわかったのか、マツオカはそのまま「例えばね」と続ける。

「この人はこう言ったらどう返事をしてくるか予想しながら話すとか、そういうのでもいいと思うよ。自分の中で会話のパターンを積み重ねて、なんとなく自分の中でその人を理解していくの」
「理解する…」
「もちろん完全に理解するなんて無理だけど、なんていうんだろう。自分にはないものを形作るイメージかな」

なるほど、それなら今日からでも出来る気がする。何せナマエの家にはよく話す同居人がいるのだ。出現時間が不安定なのがネックだけれど、なんとなく今晩は会える気がする。

「今日家帰ったらさっそくやってみます!」
「家って…ミョウジちゃん一人暮らしじゃなかった?」
「あ、いや、この後家帰ってバイト行くんで!その時に!」

危ない。うっかり変なことを言ってしまった。幽霊と同居しているなんてバレて妙ちくりんな霊感少女だと思われるわけにはいかない。ナマエが適当にごまかすと、マツオカは「頑張ってね」と言って役者陣の稽古に混ざっていった。


それからナマエは作業場を後にして、一度アパートに立ち寄ってからバイト先である新宿のカフェに向かう。いまのところこのカフェでの給料が収入のほぼすべてあり、事実上は劇団員というよりもフリーターという表現のほうが正しい。
カフェは夜の時間帯はバーになるため、遅くまで働かせてもらえるというのも有難い点だった。オーナーは髭を蓄えた色気のある40代の男で、彼を目当てにしてきている客も少なくない。

「ただいまぁ」

勤務を終えて帰った深夜1時。一人暮らしのくせにこうして律儀に「ただいま」と声をかけるようになったのはここ最近のことである。

「おかえり」

何故なら、いまはこうして帰宅を待っているひとがいるからだ。もっとも、彼を人と呼んでいいのかは未だ決めきれないことだけれど。
とにかく、宇佐美はこうして夜になるとよくあらわれる。時間を計測しているわけではないけれど、概ね深夜と言える時間が多いように思う。

「夕飯は?」
「バイト先で食べて来たぁ」
「風呂は?」
「銭湯寄って来たぁ」
「じゃあ、あとは寝るだけってか」

宇佐美は思いのほか面倒見がいいのか、こうしてナマエの世話を焼くように声をかけた。一度宇佐美に「お母さんみたい」と言ったときは物凄い形相で怒られたけれども。
風呂のないこのアパートで風呂に入るには近くの銭湯に行くしかない。それが幸いなことにその銭湯がかなり遅い時間まで営業してくれているので、よっぽどのことがなければ入れないということはなかった。

「宇佐美くん、お話ししよう」
「なに、急に」
「人間観察みたいな?」

ナマエは貰い物のローテーブルの前に座り、宇佐美の言葉を待った。なんて言うだろう。「なんでそんな面倒なことしなきゃいけないの」それとも「話すことなんかないんだけど」だろうか。マツオカに言われた通り返答を予測してみる。

「……ナマエ、僕に興味あるの?」

どれも外れた。当たり前のことだけれど、まだまだ宇佐美のことは分かっていない。
興味があるかどうかと言われれば、あるに決まっている。だって幽霊だ。しかも明治時代の軍人で、どうしてだか自分の部屋に憑りついている男。これが本当に幽霊なのか実は自分の妄想なのかも怪しい。

「あるよ。だって宇佐美くんは現代の人じゃないし、私の知らないこと沢山知ってそうだもん。明治時代の軍人さんの話なんて誰にも聞けないしさ」
「知ってどうするの」
「うーん、演劇の糧?みたいな?」
「女優に兵士の経験談って必要?」

曖昧な言い回しになったそれに宇佐美が口をへの字に曲げた。嘘ではないが、これでは自分がいたずらに他人に消費されるような言い方に聞こえて不愉快かもしれない。
ナマエはいたずらな動機で尋ねているわけではないと伝えるべく、ことの発端を話し始めた。

「私、劇作家になりたいんだ。舞台の脚本書いたりする人。だから今はその下積みの下積みで女優目指してる。劇作家になるには色んな人の観察したほうがいいってアドバイスしてもらって。それで宇佐美くんにも聞けたらなぁって」

ナマエが正直にそこまで話すと、宇佐美は少し怪訝な顔をしながらも「しょうがないな」と口を開いた。

「そんなに面白い話はないよ。君からすれば血生臭いことばっかりだろうし」
「うっ…それはちょっと怖いけど……よ、よろしくお願いします!」

ぺこりと頭を下げればゴチンとローテーブルで額を打った。それを見て宇佐美は「馬鹿だな」と少し笑う。

「僕は北海道の第七師団で歩兵第27連隊に上等兵として所属してた。日露戦争にも出征して、旅順攻囲戦でも戦ったよ」
「旅順って、中国の?」
「そう。僕らは第三軍として明治37年、旅順に動員されたんだ。酷い戦いだった。先の日清戦争での成功体験があったからか、上層部は総攻撃にこだわった。でも実際は日清戦争後にロシア軍が要塞を改造してて、戦場の条件はまるで違った」

ナマエは日本史で学んだところをどうにか頭の中から引きずりだす。日本史は苦手な方ではなかったけれど、近代史は特別得意というわけでもなかった。宇佐美の言っていることはぼんやりと教科書の映像が浮かぶだけだ。

「総攻撃は三回行われた。堡塁に潜んだロシア兵に日本軍の歩兵は突っ走っていくしかなかった。一回目で5000人、二回目で2000人、三回目でも5000人は死んだ。そしてその第三次の総攻撃で僕らの小隊長が旅順要塞の要である二〇三高地に旗を立てた。それが12月5日。それから今度は奉天に向かって、そこでも僕らは戦った。年が明けて、鶴見中尉殿が被弾なされたのが…そうだ、確か3月の上旬だった」

まるで教科書を読み聞かせるような声は淡々として、そこにはずっと感情が読み取れなかった。しかし最後に付け加えられた「鶴見中尉殿」という言葉にはひどく熱がこもっているように感じる。
ナマエは思わず「鶴見中尉、さん…?」とその名を復唱する。

「そう。僕たちの小隊長。聡明でお美しくてお強くて…僕が命を賭けてお仕えしたお方」

宇佐美はナマエの前でいつも冷静だった。だからこんな情熱的な言葉を使うなんて想像も出来るはずがなかった。

「あのころ、鶴見中尉殿は僕のすべてだった」

そううっとりと口にする宇佐美は自分の右手をそって唇に宛てた。その時初めて彼の小指の先がなくなっていることに気が付いた。
鶴見中尉殿とはどんな人物だろう。鶴見中尉の話をする宇佐美は見たこともない熱を帯びた顔をしていた。彼からそれほどの憧憬を受ける人物に、今はもう会うことも出来ないというのが少し悔しい。







- ナノ -