01 開演


馬鹿みたいに狭い1Kのアパートは風呂なし。駅からは15分かかるが、近くにコンビニとスーパーがあり、老夫婦の経営している銭湯があるのもいいところだ。強いて言うのならば、トイレが和式なのが難点だと思う。タイル張りになっていて、冬になると寒くて仕方がない。
こんな狭いアパートに同居人がいる。これを一般的な同居人と言えるかどうかは別にして、少なくとも私生活になにかと口を挟んでくるのだから、ナマエはこれを同居人に数えていた。

「宇佐美くーん、それ取ってー」
「自分で取りなよ」
「だって手が離せない」

ナマエは一口しかコンロのない狭いキッチンに立ち、フライパンを振っていた。じゅうじゅうと炒められているのは特にまとまりのない野菜ばかりである。にんじん、ピーマン、じゃがいも、キャベツの芯。これらを塩コショウで適当に炒め、皿に盛りつけて鰹節を振ったら完成だ。宇佐美に取らせたのは百円均一で調達した平皿である。

「じゃじゃーん。スペシャル野菜炒めの出来上がり」
「くず野菜の炒め物でしょ」
「もう。本当のこと言わないで」

ガスコンロの火を止め、平皿と箸を持って隣の部屋に向かう。先輩に貰ったおさがりのローテーブルは好みでもなんでもないキャラクターが描かれていた。
ナマエの後ろを宇佐美がふよふよと滑るように移動する。足はあるように見えるが、どうにもそれを使っている様子はない。この男には実体というものがないのだ。


劇作家になりたくて札幌から上京した。高校を卒業して、家とは半ば喧嘩別れのようになっている。二年間一度も実家に帰っていなかった。結局何の芽も出ないままで合わせる顔がなかったし、そもそも帰ったところで何を話せばいいかもわからなかった。
研究生として籍を置く劇団の座長の勧めでまず女優を目指すことになった。劇作家の中にも自分が役者を経験している者は多い。
上京して二年、劇団の研究生になって一年半、ナマエは未だ夢をかなえることはおろか、その兆しさえ垣間見ることは出来ないでいた。

「はぁぁぁ…またオーディション落ちた…」

研究生の身分でも受けることのできる他劇団の公演のオーディションを受け、見事に落ちた。気分は最悪だけれど、だからといって帰って食べるものがないのは困る。スーパーで値引きされている弁当を購入してアパートまでの道のりをとぼとぼと歩いた。
アパートは築50年をゆうに超える古ぼけた木造二階建て。女の一人暮らしに防犯面ではどうなんだ、と言われてしまうとそれまでだけれど、金銭面のことを考えるとこれ以上の場所に暮らすのは中々に難しい。
タンタンタン。古い金属製の外階段はスニーカーで登っても大袈裟な音がする。これがどの部屋にも大変大きな音で響くので、深夜や早朝は注意が必要だった。軽快に登り切り、最後の一段に足をかけたそのとき、つるりとつま先が滑って足を踏み外す。

「うわッ…!」

身体が後方に傾き、自分ではもう軌道修正が出来なかった。落ちる。そう覚悟して目をぎゅっと瞑ると、今度は不自然に前方に向かって引っ張られた。前のめりになり、抱えていた弁当を下敷きに鉄板の上に転がった。着地が上手くできなかったから、絶対に身体のどこかを擦りむいたと思う。そしてまだ春にもなっていないというのに、花のいい香りがした。

「いててて……」
「転びそうになってるのに目ぇ瞑るとか、馬鹿じゃないの」

頭上から声がする。少年というほど幼いわけではないが、どこかそういう幼さを感じさせる声だった。誰かが助けてくれたんだ、と思って見上げ、ナマエは「ありがとうございます」の言葉も言えずに絶句した。見上げた先の男は薄ぼんやりと濁り、向こう側に自分の部屋の扉が見える。つまりこの男は透けている。

「え……」
「間抜けな顔だな。なんでこんな娘が……」
「えっ!ええぇ!?」

数拍遅れて男が透けていることを理解し、ナマエは思わず大声をあげる。そこでやっと男はナマエの顔をじっと見つめ「見えてるの?」と尋ねた。見えてる。そりゃあもうばっちりと見えてしまっている。こんなことを尋ねてくるのだから、本当は見えてはいけないのだろう。

「はっ!?えッ!?なんで透けて…!!」

ごちゃごちゃとこんがらがる思考のままそう大声で叫んでしまい、今度は一番奥のアパートの戸が勢いよく開いて「うるせえぞ!!」と怒号が飛んできた。ナマエは慌てて「すみません!!」と謝り、急いで立ち上がると自分の部屋めがけて走り出す。駆け込んだ自分の部屋で戸に背中を預けて「はぁぁぁ」と息をつくと、目の前に先ほどの男が立っていた。もちろん招き入れてなどいない。

「なんッ…!」

なんでここに。とそう声を上げそうになって、慌てて口を閉じる。これ以上ご近所の心象を悪くするわけにはいかない。このアパートは壁が薄い。

「な、なんで中にいるんですかぁ…」

ナマエは打って変わってひそひそと内緒話でもするようなボリュームで半透明の男に尋ねた。男はまだ興味深そうな顔のままナマエを見つめている。
半透明の男は紺色と赤の制服を着ていた。見たところ警官などの類の制服ではない。どこか全体的に古びていて、例えば軍服のようなものに見えた。

「ほ、ホログラム…」
「なわけないでしょ」
「最新科学技術…」
「なんでこんなボロアパートに?」

なるべく穏便な仮定をしてみたが、目の前の男がすぐに棄却していく。そりゃ分かっている。半透明で人間みたいなかたちをしているとなれば、古今東西相場はこれと決まっていた。

「幽霊…?」
「たぶん正解」

つんと尖った、いわゆるアヒル口のような可愛らしい唇がにんまり笑った。ナマエはその場にずるずるずると座り込む。男は目の前に屈み「そんなとこ座ったら汚れるよ」と幽霊らしくもないことを言ってみせた。


放心することおよそ5分。意外と早く正気を取り戻したナマエは、確かに玄関に座り込んでいても仕方のないことだとのろのろ部屋へ上がった。室内に妙なところはない。先輩にもらった好きでもなんでもないキャラクターのローテーブルと古本屋で買った小説、貰いものばかりで統一感のない衣類が雑然と主を待ち構えている。いつも通りの自分の部屋だ。

「えっと……」

ローテーブルを挟み、ナマエは幽霊の男と対峙していた。男のほうも律儀に正座をしている。何から聞けばいいのか。どうしてここに?何か私に恨みが?成仏できないんですか?この世に未練が?いくつも疑問は駆け巡るが、すべてつかみ損ねた流しそうめんのように流れて行ってしまう。

「えっとその、幽霊さんは…」
「宇佐美」
「あっ、はい。宇佐美さんですね。宇佐美さんは…その……なんでこのアパートに…」
「さぁ。気付いたらここにいたから」

幽霊は宇佐美という名前らしい。思いのほかしっかりと話が通じてしまって、半透明であること以外はまるで生きた人間のように意思の疎通が取れる。幽霊とはこういうものなのだろうか。

「幽霊って結構意思の疎通取れるんですね」

ナマエが呑気にそう言うと、宇佐美はじろりと視線をやってから盛大にため息をついた。今のどこにため息をつかれるような要素があったのだろうか。

「のん気な奴だな。僕が悪霊だったらどうするの」
「え、宇佐美さん悪霊なんですか!?」
「そうだって言ったら?」

えっ!とまた驚きのあまりに大きな声を出しそうになってしまい、慌てて口を閉じる。何度でも言うがこのアパートは壁が薄い。
悪霊だったら不味いのではないか。憑り殺されるとかそういうのは映画とか小説でよく見る。しかしそうだとして、どうしてそんなものが自分に憑りついているのか。

「悪霊ではない。たぶんね。君に何か恨みがあるってわけでもないし…ただどうやらこの部屋から離れるのは難しいみたい」

宇佐美は少し迷惑そうに言った。どうして彼が迷惑そうな顔をするのか。突然化けて出られて迷惑しているのはどちらかといえばこちらの方なのに。

「えっ、ちょっと待ってください。この部屋から離れられないってことはずっと見えてたんですか!?」
「まぁね」
「うっそぉ……」

こんな壁の薄いボロアパートでも至福のプライベート空間である。他人に見せられないようなヨレヨレの部屋着で自堕落に過ごしたり、オーディションに落ちて自棄酒したり、体感トレーニングのために妙ちくりんなポーズを取ったりと、一人だからこそ出来る他人に見せたくない時間を過ごしていたというのに。それを他人の、しかも幽霊とはいえ男に見られていただなんて。

「別に小娘の私生活なんか興味ないよ」
「いや、そう言われるのもそれはそれで複雑というか……」
「なんだよ、我が儘だな」

いや、なんで私は幽霊にこんなふうに言われなければいけないんだろうか。そう思うも、どうにもそんなことは言い出せない雰囲気だ。よくわからないけれどこの幽霊には変な威圧感がある。

「宇佐美さんはその…人間だったんですよね…?」
「そう。陸軍第七師団の兵士」
「ああ、道理でそれっぽい恰好…」

明かされた生前の身分に彼の格好への得心がいった。軍服のようだと思ったが、まさに軍服だったというわけだ。第七師団といえば北海道に設置されていた部隊のような気がする。歴史にはあまり詳しくないが、地元だということを理由に元々兵舎だった施設などに遠足で行ったことがある。
陸軍第七師団、つまり日本軍の軍人。そうなれば宇佐美は少なくとも77年以上前の人間ということだろう。終戦とともに日本軍は解体されている。軍服の様子などでもしかすると年代も分かるのかもしれないが、ナマエにはそれがわかるほどの知識はなかった。

「えっと、じゃあその、太平洋戦争とかで戦死なさったとか…?」
「いや。僕が死んだのは明治41年。札幌の任務だった」
「明治!?ってことは…えっ、100年以上前ですか!?」

てっきり戦争で命を落とし、残された未練のために彷徨い続けているのかと想像したが、そういうことでもないらしい。じっとナマエは宇佐美を見つめる。

「なにか…未練があったりとか…?」
「どうだろうね。別にそんなつもりなかったんだけどな」

宇佐美のきっぱりとした口調が少し崩れた。未練がなくても人間は幽霊になるものなのだろうか。いや、そもそもこのまま幽霊という非科学的な存在を認めてしまっていいものなのか。

「まぁ、どっちみち僕はこの部屋から遠くに行けないみたいだし、よろしくね」

宇佐美がアヒルみたいな口をにんまりと笑わせる。「困ります…!」と今度こそ大きな声を出してしまって、右隣の部屋からドンッと壁を叩かれた。いわゆる壁ドンというやつである。


そんなやり取りがあり、いくつかの悶着の末、幽霊宇佐美との同居生活が始まった。
宇佐美について分かったことは大きく四つ。
まず一つ目、生きているものには直接触れることが出来ない。しかし無機物を動かすことは出来るようで、それを見たときに「これが本物のポルターガイストか」と妙な感動を覚えた。
二つ目、彼の行動可能な範囲はアパート周辺に限られている。彼は遠くへ行くことは出来ないらしい。
三つ目、彼は四六時中現れるわけではない。基本的に夜中に現れることが多いが、初めて会った時のように日中のこともある。いずれにせよ半日以上連続して姿を現すようなことは出来ないようだった。
そして四つ目、彼はナマエ以外には見えない。試しにアパートの近くを二人で歩いてみたが、大家さんは全くもって宇佐美に反応を示さなかった。もっとも、ついこの間までナマエにだって見えていなかったのだから、どうしてナマエにだけ見えるようになったのかは今のところ不明だけれど。

「宇佐美さんって、あんまり歳かわらないですよね」
「何言ってんの、明治の日本兵だよこっちは」
「え、でも幽霊になってからも年齢ってカウントするんですか?」
「知らないけど」

宇佐美と暮らし始めて二週間ほど経ったある日、ナマエが不意にそう言った。彼は二十代前半に見える。死後も年齢を加算していく方式を取るならばプラス110年ほどでおよそ130歳と少しかもしれないが、それはこの若々しい見た目では無理があるだろう。

「君、いくつになったんだっけ」
「今年21歳になります。宇佐美さんも20歳とかそのくらいですよね?」
「いや僕は───まぁいいや。そういうことにしてあげるから、畏まった喋り方しなくていいよ」
「良かったぁ。自分の家でまで敬語使わなきゃいけないのちょっと嫌だったんですよね」

ナマエがへらりと笑うと、宇佐美は「気にするところそこかよ」と少し呆れたように笑った。これは大変に気にするべきところである。ここはこのコンクリートジャングル東京でナマエの唯一手放しにリラックス出来る場所である。

「じゃあ宇佐美くんって呼ぶね。私のことも好きに呼んでくれていいし」

そこまで言って、自分がまだ名乗っていないことに気が付いた。これは一方的にあれこれ聞いてしまったな、と省みて、改めて名乗らなければと口を開く。

「私の名前は───」
「ミョウジナマエでしょ。知ってるよ、それくらい」

宇佐美はアヒルみたいな唇で笑う。気が付くと部屋の中には、甘く馨しい花の香りが満ちていた。







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