sideU 03 カーテンコール


ストーカー騒動は目論み通りなりを潜めている。そんな中、宇佐美は東京を訪れていた。目的は昔馴染みの面々に会うためだ。鯉登と月島、それから二階堂兄弟に三島や野間なんかにも声がかけられている。つまるところ会社設立のためのメンバーで居酒屋で酒を飲みながら鶴見を囲もうという懇親会のようなものであり、幹事は宇佐美だった。

「カフェアムールねぇ」

これはナマエのアルバイト先のカフェバーの名前だ。オーナーの名前はキロランケ。佐藤や鈴木なんて一般的な名前ならまだしも、さすがにこの名前は素通りできない。今世で何人に生まれているか、そもそもその名前が本名かどうかも知らないが、そんな名前で簡単に被られてはたまらない。これは見ておかねばならないだろう。

「あー…二階堂たちと行く予定だったのに…」

東京の地理に疎いという二階堂兄弟のために事前に新宿駅で待ち合わせをしようと提案し、その場所にカフェアムールを指定した。あわよくば勤務中のナマエをこっそり見てやろうと思っていた。しかし実家の野暮用があり、予定する新幹線に乗れなくなってしまったのだ。懇親会には充分間に合うが、カフェアムールの待ち合わせ時間には間に合わなかった。二階堂たちのことだから、時間を過ぎてもずっと待っているなんてことはなさそうな気がする。
それでも一応店構えだけは見ておこうと宇佐美はアムールに向かった。アンティーク調の佇まいの外観で、店の中はそこそこに賑わっているようだ。道路に面している大きな窓から中を覗いてみたが、やはり二階堂たちの姿はない。さて、仕方がないから探しに行くか、と大通りのほうへと歩いていくと、よく聞き知った声が先から聞こえてきた。

「すみませーん!えっと…月島さーん!」

ナマエだ。自分の目で彼女を見るのは初めてだった。夢で見た彼女と少しも変わりない。確信はより強固になっていく。ナマエはよりにもよって月島を呼んでいるが、一体どういう流れがあるのかさっぱりわからない。ナマエは呼び止めた月島と隣にいる鯉登になにやら短い話をすると会釈をして踵を返した。
ナマエとすぐそばですれ違う。ナマエは宇佐美には気が付かないままで隣をすり抜け、アムールまでの道のりを戻っていった。本物の彼女はどことなく、甘い花のような香りがするような気がした。

「月島さん、鯉登さん。ご無沙汰してまーす」

明治時代よりは幾分か背の高いように見える二人にそう声をかける。いや、背が伸びているのは鯉登のほうだけかもしれない。


それからしばらく経って、ナマエは正団員になって初めての公演を迎えた。本当はこっそり見に行ってやろうと思っていたが、仕事の都合がつかなくて断念した。確か千秋楽だと言っていた日の夜、宇佐美がナマエの部屋で帰りを待っていても中々姿を現さなかった。打ち上げでもあるのかもしれない。
結局ナマエが帰宅したのは時計の針がてっぺんを回る頃で、しかも随分酒の匂いを漂わせて帰ってきた。

「うっわ、酔っぱらい」
「え?あれぇ?うさみくん?」

全く待っていてやったのにこんなに遅く、しかもトロンを目が溶けるほど酒を飲んでいるなんて。と、お門違いの怒りを内心感じつつ、だけどナマエの気の抜けた顔を見るとすぐにどうでもよくなってしまった。

「うさみくんだ、わぁ、久しぶり、嬉しい、どうしよう」

ナマエは最近全く好意を隠さない。いや、本人は隠しているつもりかもしれないが、寝言といい今日の表情といい、隠せていないにも程がある。のろのろと靴を脱いで定位置に座り込むナマエの後ろをついて移動し、宇佐美も向かいの定位置に腰を下ろす。
舌足らずの彼女によれば、やはり今日が千秋楽で、宇佐美の読み通り打ち上げをしてから帰宅したらしい。ナマエは打ち上げや公演のことを上機嫌に話した。

「宇佐美くんにも見に来てほしかったなぁ」
「無茶言わないでよ、僕はここから離れられないんだからさ」
「だってー、杉元さんも見に来てくれたよー?面白かったって褒めてくれてー…」
「杉元?」

聞き捨てならない固有名詞にピクリと耳が反応する。キロランケなんて特殊なものよりはいくらも一般的なものではあるが、アムールでも月島や鯉登と接触していたし、その杉元だって宇佐美の思い浮かべている杉元の可能性が大いにある。ナマエはそんな心中など露知らず、杉元についての補足説明を始めた。

「杉元佐一さん。アムールの常連さんの友達みたいなひと」
「よくもまぁ、ナマエはよりにもよって変な奴とばっかり出会うよね」
「変って言わないでよぉ、いいひとだよ、杉元さん。この前はマフラー貸してくれてさぁ」
「あのオレンジのマフラー杉元のだったの?」
「そー。なんか柔軟剤っぽいさわやかーな匂いがしてさー、ぜーんぜん落ち着かなかったのー」

無意識に眉が痙攣した。疑わしき固有名詞が杉元佐一本人であったこともさることながら、少し前にこの部屋で異彩を放っていた香りの正体が杉元だったとは。ナマエはそのまま杉元がいかに美形で親切で親しみやすい人柄だということを誉めそやした。杉元の方は知らないが、ナマエには絶対他意などなくて、だからこそ余計にたちが悪い。宇佐美の眉間に深いシワが刻まれる程度には誉めそやしたあとで、ナマエはひときわ緩い顔で笑う。

「やっぱりさぁ、わたし、宇佐美くんの匂いのほうがすき」
「僕の匂い?」
「うん。お花みたいな、いー匂い」

なんて恥ずかしいことを抜け抜けと。酒の力とは恐ろしいものである。何でもない風を装いながらも抑えきることが出来ずに、宇佐美の真っ白な肌は赤く染まった。無自覚ほど怖いものはない。

「そういえばねぇ、杉元さんのお友達も来てくれたんだよ。演劇好きな人で、ああいう人に褒めてもらえるのはやっぱり嬉しいなぁ」
「それ、男?」
「そうだよ」

なんだか流れ的に嫌な予感しかしない。不死身の杉元の知り合いの男なんて白石か、それとも土方歳三や谷垣か。なにも昔の知り合いがすべてというわけではないのは百も承知だが、宇佐美自身もあの頃の繋がりを求めてしまっているところがあるし、杉元がそうだった場合宇佐美の心当たりのある人間の可能性もある。脳裏に腐れ縁の顔が浮かび、頼むからあいつだけはやめてくれと心の底から祈った。

「一応聞いとくけど、名前は?」
「名前?は、えっとねぇ…尾形さん、ってひと」

宇佐美は大きくため息をつく。よりにもよって宇佐美が思い浮かべた「あいつだけはやめてくれ」の筆頭である。もちろんそんな因縁を知りもしないナマエはこてんと首を傾げているが。

「ほんっと、ナマエは変な奴とばっかり出会うよね」

全く実体の方の自分はいまだ顔を合わせることが出来ていないのに、これ以上面倒な男とばかり知り合わないで欲しい。横から掠め取られでもしようものならたまったものじゃない。


少し目を離した隙に、ナマエは日露戦争についてあれこれと調べだした。何のつもりかと思えば「宇佐美くんのことが、何か分かるかなと思って」なんて言葉が返って来た時にはもう眩暈がした。ほとんど同化しつつある外側の宇佐美が当時の自分の事や自分を取り巻く環境のことを説明してやると、ナマエは一文字だって聞き逃すまいと真剣に耳を傾けた。そして根付の中身を明かした。

「…ごめん」
「何が?」
「だって……私が持ち出したからこんなとこまで連れてきちゃって…」
「別に。この100年以上ずっと意識がはっきりしてたわけじゃないんだ。ここに連れてこられて覚醒したかんじ。だからまぁ、札幌を見守ってたとか言うわけでもないしね」
「……そうなの?」
「そうだよ」

宇佐美はおずおずと尋ねるナマエを見つめて頬杖をつく。今日は幽霊の方の自分が話す日らしい。その自分がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。実体のほうの宇佐美はどういう因果か引き寄せられたに過ぎなくて、だから途方もない時間を覚醒して生きていた感覚はない。
初めの頃は幽霊の自分と実体の自分の誤差というか、頭の中と口の動きのギャップに気持ち悪さを感じることがあったが、ここ最近はすっかりそれもなくなった。今では実体の宇佐美の方の意志で話せることも増えている。

「馬鹿なナマエと一緒に過ごすのも、悪くないしね」

真っ直ぐで、一生懸命で、少し抜けてて、目が離せなくて。いつの間にかナマエのことが好きになっていた。幸いなのは、自分がナマエが信じ切っているような「ただの幽霊」ではないことだ。成仏しておしまい、彼女の稀有な思い出、になんてなってやるつもりはさらさらなかった。
宇佐美がこれからのことをあれこれと算段していると、ナマエが少し言いづらそうにして、それから意を決したように口を開く。

「…宇佐美くん…あのね、私」
「ナマエ、それ以上は──」

ナマエが何を言おうとしているかなんて今までの実績とこの表情を見れば明らかだ。待て待て待て、今告白をされると説明が面倒くさい。宇佐美は咄嗟にナマエの口を塞ごうと手を伸ばしたが、生き物に触れることの出来ないこの身体はするりとすり抜けてしまう。必然的にナマエとの距離が近づき、不安げに揺れる瞳と視線がかちあう。

「好き。宇佐美くんのことが、好き」

くそ、予定が狂った。東京に出てきたあたりから幽体の方が実体に引き寄せられて来ているのを感じていたんだ。完全にそれが終わるころには転職も済むだろうし、それからナマエに告白しようと思っていたのに。計画がすべて水の泡である。

「…幽霊なんかを好きになってどうするんだよ」
「わかってるよ。だけど好きになっちゃったのを…私嘘になんかできない」

宇佐美は触れられないことも承知の上でナマエの頬を撫でる真似事をする。触れられそうで触れることができないのがもどかしい。早く会いたい。生きた自分の身体で、この頬に触れたい。
ふと、頭の中に新しいプランをひらめいた。そうだ、ナマエから告白をしてくるのならそれもそれで結構じゃないか。東京に引っ越すタイミングで迎えに来て、実は生きた人間でもあったなんて知らせれば、まるで戯曲のようでなかなかいい。そのうち彼女の作品のいいネタになるかもしれない。

「……多分僕は、もうすぐ消える」
「う…そ……」
「本当だよ。自分のことだから、よくわかる。だから止めようとしたんだ」

宇佐美は努めて深刻そうな顔を作ってみせた。あの頃は数ヶ月間で間諜だと露呈してしまったが、今回はきっちりサプライズまでバレるわけにはいかない。
また必ず会えるとわかっていても「忘れないで」なんて言って保険をかけてしまったのは、日和ってしまったんだろと言われれば、そうなのかもしれない。


結局、会社の立ち上げまでは地元に残ることにしていたため、ナマエと別れてから半年もの時間が過ぎてしまった。会社を作るというのは想像以上に面倒なことが多い。しかしそれもこれもすべて敬愛する鶴見のためなのだから、やりがいさえ感じるというものだ。
幽体の自分と実体の自分はあの日完全に同化した。幽体の経験はすべて実体の宇佐美に吸収され、これではっきりと同一人物になることが出来た。

「ふふ、ついに来月か。ナマエのやつどんな顔して驚くかな」

さて、舞台は整った。すっかり自分を幽霊だと信じ切っているナマエを迎えにいってやろう。そして抱きしめてキスをして、ようやく真似事ではなく彼女自身に触れることができるのだ。きっと馬鹿みたいな顔をして驚いて、涙だって惜しみなく流すに違いない。

「いってきます」

何はともあれとりあえず、今日のところはライフワークであるジョギングに出発しなければ。この時期は青葉が茂って城の周りも心地いい。懐かしの新発田とも、もうすぐお別れである。
もちろん明治時代のあの頃からは見違えた故郷を走り抜ける。コースに特にこだわりはないが、なんとなく目的地にしやすかったから新発田城で折り返すことにしていた。お気に入りのビビッドカラーのウェアは田舎町では多少目立つ。もっとも、そんなことを気にするタチではないが。

「はっ…はっ…はっ…はっ…」

一定のリズムで息を吐き、それに合わせて足を動かす。ぐんぐんと身体は前に進み、あっという間に折り返し地点の新発田城まで辿り着いた。新発田城址公園に差し掛かったところでベンチに座った小さな女の背中を見つける。ひょっとして、なんかじゃない。間違いない。彼女を見間違えるわけがない。

「宇佐美くん」

か細い声で宇佐美の名を呼んだ。半年ぶりの彼女の声にどくんと血が逆流するような気分になる。ああ、もうなんでこんなにいつも計画を台無しにしてくるんだろう。無自覚というのは本当に恐ろしい。自然と口角が上がっていくのを感じる。

「独り言でひとの名前呼ばないでくれる?」

彼女が勢いよく振り返る。いまにも泣き出しそうな情けない顔で、そんな顔をさせているのが自分だなんて嬉しくて仕方がない。種明かしをしたら、ナマエは一体どんな顔をしてくれるだろう。こんなに体が熱いのは、きっとジョギングだけのせいではなかった。







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