sideU 01 フェードイン


始めは少しの違和感だった。
眠っていたはずなのに朝起きてもあまり疲れが取れていなくて、眠い目をこすりながら出勤した。宇佐美が勤めるのは新潟市内にある食品関係のメーカーだった。隣県の国立大学を卒業して就職した中小企業だ。

「おはようございます」
「ああ、宇佐美君おはよう」

事務所に顔を出せばパートタイマーの中年女性にそう挨拶を返される。大手企業ではない親族経営の会社だけども、特段問題と思えることもない。残業もあまりないし、人間関係も特筆すべきほど良くも悪くもなかった。

「今日いつもより遅いのねぇ」
「あはは、ちょっと寝坊しちゃって」
「あら珍しい」

地方特有の人間関係の面倒くささはあるけれども、生まれ育った場所なのだから耐えられないというほどでもなかった。朝起きて出勤して仕事をこなし、定時そこそこで退勤して帰って自分の時間を過ごす。刺激はないけれどありふれた、ごく普通の生活。
そのごく普通の生活に変化が現れたのは、眠りが浅くなったと感じ始めて一年が経過したころだった。毎晩妙な夢を見るようになったのだ。
狭いアパートの一室。畳敷きのそこには所狭しと置かれた本や服などで埋め尽くされ、雑然とした様子だった。掃除が出来ていないとか整理が出来ていないとかではなくて、恐らく根本的に部屋の面積に対してものが多いのだ。なにせ部屋は四畳半ほどしかない。

「ん、んん……」

小さく声と、それから衣擦れの音が聞こえてくる。その方向を見れば、薄っぺらな布団に女が眠っていることに気が付いた。この部屋の住人だろう。宇佐美は俯瞰するような視点からその部屋をぼうっと眺めていて、まるで自分に盗撮めいた願望でもあるのかと思わされてため息が漏れた。しかも眠っている女は見覚えも何もなく、いわば宇佐美の想像上の女であった。

「……まぁ確かに顔は好みだけど」

勿論だが、盗撮の趣味はない。夢には意味があるというけれど、一体これに何の意味があるんだろう。宇佐美の気配に気付くこともなく女はすやすやと眠り続けていた。


毎晩のように夢を見た。夜中であるのは変わらず、女は寝ていることが多かった。起きているとしてもローテーブルに向かって書き物をしていて、宇佐美に気が付く様子はなかった。女の生活を覗き見するような夢を見始めて三か月。その日はたまたま前日の夜更かしが祟って、昼間に深い眠りについた。目の前にはいつもの部屋が広がっている。
昼間だからか彼女もおらず、布団もきっちり畳まれている。布団を畳んだところで狭いのは変わらないな、と眺めていると、外からタンタンタンと金属製の外階段を登ってくる音が聞こえた。

「はぁぁぁ…またオーディション落ちた…」

彼女かもしれない。宇佐美はいつの間にか部屋の扉をすり抜けるように外に出た。階段を登ってきていたのはやはりこの部屋の主である彼女だった。彼女は最後の一段に足をかけたとき、つるりとつま先が滑ってそのまま踏み外す。

「うわッ…!」

危ない、と思うよりさきに宇佐美の身体が動いていて、後方に傾いた彼女を引っ張り上げるべく服の袖口をぐいんと引っ張っていた。抱えていたコンビニの袋らしきものが彼女の下敷きになり「いててて……」と声を漏らしながら身体を持ち上げよう身じろぎをする。

「転びそうになってるのに目ぇ瞑るとか、馬鹿じゃないの」

その声は宇佐美の声だった。しかし宇佐美は口を開いたつもりはない。何が起こっているのか理解する間もなく驚いた彼女と目が合い、宇佐美の声は更に「間抜けな顔だな。なんでこんな娘が……」と愚痴をこぼしていた。

「えっ!ええぇ!?」
「見えてるの?」
「は!?えッ!?なんで透けて…!!」

驚いたように声を上げていて、しかし驚いていたのは宇佐美自身も同じだった。何せ先ほどからの行動も発言も宇佐美の意志ではなかったからだ。一体何が起こっているんだと思考を巡らせている間にも「外側の宇佐美」と彼女は先へ先へと動いていく。
いつの間にかいつも見下ろしている彼女の部屋に移動しており、そこでもやはり宇佐美は蚊帳の外で「外側の宇佐美」と彼女がふたりで会話をしていた。
外側の宇佐美は自分が幽霊であり、明治時代に死んだ陸軍の軍人であると自称した。北海道の第七師団。明治41年に札幌の任務で死に、特に未練もないがこうして彼女の部屋に化けて出ているらしい。

「まぁ、どっちみち僕はこの部屋から遠くに行けないみたいだし、よろしくね」

勝手に外側が話をまとめていく。彼女は「困ります…!」と大きな声で言ったが、そう言いたいのは宇佐美も同じことだった。
その日の目覚めは最悪。疲れて寝落ちたというのにまったく疲れが取れていない。むくりとベッドから起き上がり、肺の空気をすべて吐き出すかのようにため息をつく。夢というものは起きてしまえば曖昧になるというのが定石だが、ことこの夢に関しては一切そんなことはない。むしろ起きてからのほうが鮮明に思い出せるような気がする。

「……陸軍第七師団…札幌…明治41年……」

外側の宇佐美が語ったことを口に出して並べていく。そのどれもに強烈な思い入れがあり、そして口にするたびに頭がきりきりと痛んでいく。陸軍第七師団歩兵第27連隊、宇佐美時重上等兵。それが自分の前世であると、宇佐美はこの時はっきりと自覚した。


それから、宇佐美は眠るたびに彼女の部屋で覚醒し、彼女は宇佐美を視認できるようになったために「外側」とまるで友人のように話をした。聞こえてはいるが、宇佐美自身が外側に干渉することは出来なかった。
そこからの宇佐美の行動は早かった。何より探すべきは敬愛する鶴見である。自分が記憶を持って生まれたということは、ひょっとして彼もこの世に新しく生を受けているのではないか。もっとも、今日まで自分だって記憶を持たずに生きてきたのだから、記憶を持っているかは怪しいところだが。

「……いた」

元来行動力の化身のような男だ。それにこの情報化社会で見つけるにはいくらでも手だてがあった。一昔前のインターネットの普及が今ほどではない時代であればもっと難航していただろうと思う。
宇佐美は見つけ出したSNSのアカウントにダイレクトメッセージを送り、反応を待った。鶴見ほどの人物であればどこかで教鞭を執っているか、なにか事業をしているのではないかと読んだ。それがまさに大当たりで、鶴見は海外でコンサルティング業をしており、仕事用のSNSが本名だった。

『時重君久しぶり。まさか君から連絡を貰えるとは思わなかった』

そんな文言から始まった多少白々しい返信に笑みを深める。聞くところによると、鶴見は現在すでに月島と鯉登の所在を把握しているらしい。絶対自分の事だって下調べしていたに決まっていると確信があった。
近々日本に帰国するという彼と約束を取り付け、宇佐美は眠りについた。その日も相変わらず、例のアパートの夢を見た。


彼女の名前はミョウジナマエ。札幌出身で、劇作家を目指して上京したらしい。劇団に研究生として所属しているが、収入の殆どはアルバイト代であり、家族から反対されながらも東京に出て来たらしく、支援もないから貧乏暮らしだった。狭い部屋で小さく丸まって、宇佐美に対して気の抜けた笑顔を見せる。もっとも、それは外側の宇佐美に向けられているものだけれど。外側の宇佐美は彼女を気に入っている。まぁ分からなくもない。あんな無防備な笑顔を見せられて嫌いになれというほうが難しいだろうと思う。
蒸し暑い7月のある夜の日、ナマエが嬉々としてカラフルな袋を掲げた。夏の風物詩、花火である。

「宇佐美くん見て見て。花火買ってきたんだ」
「うわ、無駄遣い」
「そんなこと言わないでよ。宇佐美くん好きかなぁと思って買ってきたのに」

ナマエは宇佐美の嫌味めいた相槌もどこ吹く風で部屋の隅に転がっているライターを探し出す。一緒にやろ、と無邪気な笑顔で言われると断れるはずもない。アパートの敷地の中なら行動可能な範囲だからと、花火が出来そうな中庭だか何だかわからないスペースに二人で移動する。

「はい。宇佐美くんの分」
「……空中に花火が浮くことになるけど」
「大丈夫だよ。アパートのひとくらいしかここ通らないし」

手渡された花火を地面に向けて持ち、ナマエが先端に火をつける。触れているような実感はなく、なのにまるで持っているように花火は浮遊する。ナマエが宇佐美の花火から火を取り、勢いよく火花が散る。揺らぐ炎に合わせてナマエの影が濃くなり、また薄くなる。
どうやら気まぐれに花火を買ってきたのは、お遣い先で花火大会を見てきたかららしい。そう言えば昔は専門の花火職人なんていなかったし、打ち上げに許可も必要なかったはずだ。当たり前に明治時代の記憶が覗いて、時おり記憶が混濁しそうになった。

「なんか…100年前ってだけでさ、そんな大昔の事じゃないはずなのに…いろんなことが全然違うんだね」
「まぁね、あの時代は西洋化が急速に進んで…実際生きてた僕だって目まぐるしく色んなことが変わっていった。法律も朝令暮改ってかんじの多かったし」

頭で考えるより先に声が出ている。気持ち悪い感覚だった。自分ではない自分が話しているようで、だけど声は間違いなく宇佐美自身のものである。

「宇佐美くん、そんな時代を生きてたんだもんね」
「…なに、急に」
「だって…なんか宇佐美くんって話してても全然昔の人って感じしなくてさ、教科書に載るような時代に生きてたんだなんて、忘れちゃいそうなんだもん」

ナマエがほわりと頬を緩ませてそんなことを言った。内心図星を突かれてどきりとする。宇佐美から「全然昔の人って感じ」がしないのは、まさに現代人の宇佐美が同居しているからだ。宇佐美が焦っているとは露知らず、ナマエが「宇佐美くんの話もっと聞かせてよ」と強請った。

「嫌だね。どうせナマエの下手な戯曲のネタにされるんでしょ」
「なっ!違うって!」

ナマエが勢いよく言い返したところでアパートの住人が姿を現し、宇佐美から浮遊させている手持ち花火を慌てて取り上げると、ナマエは言葉を詰まらせながら「こ、こんばんわぁ…」と挨拶をする。住人は明らかに引いた顔ではたから見れば彼女は両手に手持ち花火を持って一人さみしく花火をしているちょっとヤバい女だ。

「ふふっ、あはははは!」

思わず腹を抱えて笑って、するとナマエが恨めしそうに宇佐美を睨みつけた。


この夢を見出してからというもの、寝ていても身体が休まるような休まらないような妙な心地だった。彼女はいつもアルバイト先から近所の銭湯に寄って帰ってくる。その日もいつも通りナマエの部屋で家主の帰宅を待った。

「ただいまぁ」
「おかえり」

建付けの悪い戸が開いてナマエが帰宅する。こうして迎えるのも随分慣れてきてしまったように思う。ナマエが靴を脱いでペタペタと部屋の中を歩き、宇佐美は数センチ浮いたままスルスル滑って移動した。この足を使わずに移動する感覚もまた、かなり慣れてきたことだった。
荷物を置いて珍しく「はぁ、疲れたぁ」などと言って、訳を聞けばシフトを早出したためらしかった。ご苦労なことだ。
彼女はこれから夕飯のようで、テーブルの上に置いたビニール袋から弁当を取り出す。よくあるコンビニ弁当だ。

「うっわ、また弁当?」
「だって作る気力ないしスーパーも空いてないし」
「だからってまた味の濃いもんばっかり…」

このあいだもコンビニ弁当だった。実生活でマメに自炊をするタイプである宇佐美としては中々真似しようとも思わない食生活である。ナマエは「コンビニ弁当美味しいよ?ほら、お米も玄米だし」と言い訳めいたことを言って、「まぁ白米よりは栄養価高いだろうけど……」と一部を認めた。ナマエがじっと宇佐美を見上げる。何か変なことを言っただろうか。

「宇佐美くん物知りなんだね」
「何が」
「だって玄米の栄養価が高いとか、そんなことも知ってるんだと思って」

まずい、失敗した。いや、失敗もなにもないのかもしれないが、確かにこの知識は明治時代に得たものではなく、現代の自分自身が得た知識である。追求されれば「明治時代の軍人の幽霊」の整合性がとれなくなってしまう。
ナマエは深い意図はなかったのか「玄米が栄養価高いって知ったのいくつの時だったかなぁ」とのん気なことを言っていて、有耶無耶にするように早く弁当を食べてしまうよう勧める。

「はぁ、美味しかった。ごちそうさまでした」
「明日は自炊しなよ」
「えぇぇ、どうだろ。シフト結構遅くまで入ってるしなぁ」
「貧乏人が買い食いばっかしてどうすんの」

ナマエに尤もらしく指摘すれば、どうにか不労所得を得ることは出来ないだろうかと夢物語を語り始めた。宝くじに埋蔵金。いずれにせよごく一般人であるナマエには無縁の話だろう。

「例えば、昔さる理由で隠された金塊があって、その場所を示す暗号がある日バラまかれてしまったの。それでその金塊を隠した男の娘がその噂を聞いて、生き別れた父親に会うために旅の中で仲間を集めながら国中を巡るの」

まるで身に覚えのあるその話に内心どきりとした。まさか彼女もあの時代の関係者なんだろうか。ミョウジナマエという名前にもこの顔にも覚えはないが、宇佐美が知らないだけというのは大いにあり得る話だ。平静を装って「何の話?」と尋ねれば「次の戯曲のアイデアだよ」と返ってくる。

「それ、最後はどうなるの?」
「え、ラスト?」

鎌をかけるようにそう言ってみせれば、ナマエはうーんと首をひねった。あの時代の最後を宇佐美は知らない。しかし残された歴史を見る限り、鶴見の夢が破れたということは想像に難くなかった。ナマエは即興でラストシーンを考えるような素振りだ。関係者というのは早計だっただろうか。

「……金塊を見つけて、大事なひとを得て、それで隠された財宝は皆のために使われて、国は繁栄したのでした…っていうのはどうだろう」
「大事なひとって?」
「ええっと…恋人とか、生涯の友人とか!」

ぐっと眉間に皺を寄せる。恋人、生涯の友人、そんなものにかの男が負けてたまるものか。誰に向けているかもどこか不鮮明な嫉妬心めいたものが湧き上がり、彼女の語るラストシーンを作り物とわかっていても否定してやりたくなった。

「ご都合主義のつまらない話だね」
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
「主人公はさる美しい将校。国を憂いた彼が隠された黄金を探し出し、そしてそれを軍資金に中央政府に反旗を翻す。戦友の屍を越え、愛するの眠る大地を守り続けるために弱体化した中央政府に目にもの見せてやるんだ」

こうなるはずだった。鶴見は、あの美しいひとは、そうして大いなる目標のために頭脳を尽くし、策謀を張り巡らせ、ときに圧倒的な力で蹂躙した。自分はそのひとつの駒であり、もっとも愛されたそれだった。

「それって…宇佐美くんの実話?」
「さぁ、どうだろうね」

思わず興奮してしまった。ナマエを適当にはぐらかせば、彼女がムッと口先を尖らせる。この日自分と外側の自分の境目が徐々に薄れていることに、宇佐美はまだ気が付いていなかった。

「ねぇ、宇佐美くんってさ、夜に来るよね。昼間は出てこれないの?」
「なに、藪から棒に」
「だって、宇佐美くんって基本夜しか出てこないじゃん。でも初めて会った日は昼間だったし…なんか幽霊にも法則があるのかなと思って」

答えは簡単だ。実体が眠っている間だけ、宇佐美はここへ来ることが出来る。法則もなにも、それだけだ。あの日はたまたま昼間に眠ってしまっていただけに過ぎない。

「……さぁね」
「あっ!今の間絶対何かわかってるやつじゃん!」
「うるさい。深夜に騒がしくして壁ドンされても知らないよ」

ドンッ、と見計ったように隣室から壁を叩かれる。有耶無耶にするにはナイスタイミングだった。ナマエが宇佐美を恨めしく睨んだが、宇佐美はどこ吹く風を貫き通す。
もうこれは予感じゃなく確信になりつつある。ここは宇佐美の夢の世界なんかじゃなく、現代日本の東京であると。







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