15 終演


実家へ久しぶりに連絡をした。緊張しながらかけたけれど、思いのほか言葉に詰まることはなかった。身構えたわりに母はあまりに普通で、東京の生活は辛くないか、困っていることはないかと、ナマエの生活をあれこれと心配をした。

「大丈夫だよ。劇団のひとも優しいし、まだ成果はなかなか出ないけど…」
「無理しないのよ。ダメだって思ったら、いつでも帰ってきていいんだからね」
「…うん。ありがとう」

その母の言葉を、以前なら夢を否定するような言葉として受け取っていたかもしれない。幼かった。未熟だった。いまならこの言葉がどれだけ自分を心配してくれているものかがよくわかる。

「そうだ、お母さん、おばあちゃんのことなんだけどさ…その、形見の根付ってどういう経緯で手に入れたものとかって知ってる?」

ナマエは手のひらで根付をころころを転がす。くちなしの花が描かれた美しい根付。宇佐美をここに呼び寄せ、宇佐美との縁を繋いでくれた大切なもの。ナマエの言葉に母は「ちょっと待ってなさいよ」と言って一度とたとたと受話器のそばを離れると、数分ですぐに戻ってきた。

「お父さんに聞いてきたけどね、あれ、空襲の時に持ち出した大事なものを入れるためにおばあちゃんのお母さんが誂えたんだって」
「中身はなに?」
「さぁ…そこまではわかんないみたいだけど…気になるなら開けてみなさいよ」

母も父も、あの美しい根付の中に彼の遺骨が入っていることは知らないようだった。まるで自分だけの秘密のようだ。ナマエは母に「うん」とだけ相槌を打つ。
実家で話を詳しく聞いてみても、もう誂えた本人はおろか、その娘である祖母さえ亡くなってしまっているのだから本当のことはわからない。
自分の故郷に帰ることの出来なかった軍人の遺骨を、いつか故郷へ帰してやりたいと、曾祖母たちはそんな気持ちだったのだろうか。

「そのうち顔出しなさいよ。お父さんも会いたがってるから」
「うん。また連絡する」

じゃあね。そう言って通話を切ろうとすれば、電話口の母が「ナマエ」と名を呼んで引き止めた。一体なんだろう。「どうしたの?」と用件を尋ねると、少し言いづらそうな様子を電話の向こうから感じ、それからそっと続けられる。

「……応援、してるからね」
「……うん、ありがとう」

成果は出ていない。正団員になったからといって、ここから成功できると決まったわけでも、劇作家になる道を切り開けたわけでもない。それでも、それでも母がこんなことを言ってくれるなんて、札幌を飛び出してきたあの日には、想像もできないことだった。


宇佐美がいなくなって半年。年を越して春を過ぎ、だんだんと暑さの増す初夏。ナマエは劇団の稽古のないタイミングでアムールのシフトを三日ほど休み、電車に揺られていた。東京駅から上越新幹線で1時間30分と少し。新潟駅で乗り換え、そこからは村上行の電車で40分弱。辿り着いたのが越後平野北部に位置する新潟北部の中核都市、新発田市である。

「ふう、晴れてて良かったな」

6月らしくこのところは雨の日が多い。今日はからりと晴れていて、むしろ汗ばむくらいだった。宇佐美と一緒に過ごした夏も、幽霊なんだから保冷効果はないのか、なんて悪態をついたものだ。
行く当ては特になかった。観光したい場所があるわけでもなかったし、まして宇佐美が過ごしていた場所を知っているわけでもなかった。
ナマエは改札を出ると、きょろきょろ左右を見回す。マンションやコンビニなんかはあるが、東京に比べれば随分とのんびりした場所であるのは間違いなかった。

「お城があるんだっけ」

事前に調べたところによると、駅から少し離れた場所に新発田城というお城があるらしい。特にこれといった目的もなく来てしまったのだし、観光と呼べるかは分からないがせっかくだし足を運ぼう。駅に掲示されている周辺の地図をスマホで撮り、それを見ながら知らない街を歩く。
100年以上前、この街で彼が生まれた。面影など残っているはずもないが、そう考えるだけでただの「知らない街」ではなくなった。

「かっこいいお城だなぁ」

新発田城は別名あやめ城とも呼ばれる。安土桃山時代に築城したものであり、山城ではなく平地に構えられた平城だ。道を挟んだ表門前には赤穂義士の堀部安兵衛の像が建っている。年末の時代劇スペシャルなどで名前くらいは聞いたことがあるけれど、堀部安兵衛が新発田の出身であることはここで初めて知った。
像は残っていなくとも、宇佐美時重という男もまた、この像と同じようなものだ。この世に生きて、死んで、もうここにはいないひと。
ナマエは新発田城をぐるりと見て回ったあと、ここが自衛隊の駐屯地のごく近くであることに気が付いた。即席で調べたところによると、敷地内には白壁兵舎広報資料館というものがあり、これは1875年に建てられた兵舎で文字通り今はその中に新潟の郷土部隊である歩兵第16連隊の資料が展示されている。
他にやることもないし、とナマエはその資料館を訪れ、展示されている資料を端から見て回った。従軍日誌や家族への手紙から軍衣や小銃など、明治から昭和にかけての資料が行儀よく並べられている。展示されている軍衣は、宇佐美の着ていたものとは少し違うように思えた。

「……宇佐美くんも、こんな銃を持って戦場に行ったのかな」

ぽつりと溢す。彼は北海道の第七師団であり、ここに展示されているものは第二師団のものだ。とはいっても、装備などは地域で変わることもないだろう。あの軍装で小銃を担ぎ、旅順の地を駆けていたのだろうか。ナマエは持ち出した根付をぐっと握りしめる。
それほど大きな施設ではないから、見て回るのにさして時間はかからなかった。白塗りの美しい兵舎をあとにして、そこからとぼとぼと新発田城の方へと戻る。いくら行く当てがないからといっても住宅街をうろつくのは怪しすぎる。地元のひとに何か観光地などないか聞いてみようという算段だった。
資料館の東側には新発田城址公園という公園があり、その入り口があることに兵舎からの復路で気が付くことが出来た。駐車場を通り過ぎて中に入って行けば、芝生の広がる穏やかな空間が見えてきた。少し歩き疲れた。丁度ベンチには誰も座っていないようだし、ここで足を休めていくのも良いだろう。

「はぁ、ここから海とか行けるのかなぁ」

芝生を眺めながらベンチに深く腰をかけ、足をぷらんと投げ出す。公園の中に植えられている木々は瑞々しく葉を生い茂らせ、夏が近いことを予感させた。今日は大して暑くないけれど、ここからは日毎に暑さが増すだろう。部屋のエアコンは効きが悪いし、今年も扇風機で何とかやり過ごすしかないか。去年のように彼に無茶振りはできない。

「……会いたい…」

日常のどんなところにも宇佐美の影を探した。コンビニで弁当を買えば小言を言われたことを思い出したし、ローテーブルの向こう側に話しかけてしまうこともあった。当たり前のように彼はナマエの生活の一部だった。

「宇佐美くん」

名前を呼ぶ。すると少し気だるげに「なに?」と聞き返す。ナマエはその日あったことを彼に報告したりして、それを案外真剣に聞いてくれる。大抵は毒舌で、だけど間違ったことは言わなかったし、ナマエが本当に傷ついているときは寄り添ってくれた。心の拠り所だった。もっとも、もうそれも、終わってしまったことだけれど。ぎゅっと唇を噛む。その時だった。

「独り言でひとの名前呼ばないでくれる?」

背後から聞き慣れた声が飛ぶ。澄み切ったトーンの柔らかい男の声。真夜中のアパートでずっと聞いていた、もう聞けないはずの声。ナマエは勢いよく振り返る。そこにはあの日光の粒になって消えた男が、軍衣ではなくて派手な色柄のランニングウェアを着て立っていた。

「う、さみ……くん…?」
「なんでこんなところにいるのさ」
「え…え……?」
「まったく僕の計画台無しなんだけど。どうしてくれるの?」

まるで悪びれる様子もなくそう宣うと、首からかけていたタオルで汗を拭う。恰好を見るかぎり走っていたようで「はー、あつ」と溢しながらナマエの隣に座った。都合のいい幻覚だろうか。それにしてはまるで生身の人間みたいだ。彼の座った右側から体温が伝播してくる。

「で、なんでこんなところに来てんの?」
「う、宇佐美くんの生まれ故郷が見たくて…それと遺骨をここに返せたらって…」
「僕の実家も知らないのに?」
「そ、それはそうだけど…」

幻覚にしてはよく喋る。一枚も二枚も上手な話し方はアパートで聞いていたのと同じだった。ナマエはぎゅっと根付を握りしめ、思考の渋滞する頭を抱えたまま右隣の彼を見上げる。そこには柔らかな顔を見せる宇佐美がいて、しかしアパートで見ていたように向こう側は透けていなかった。

「どうして……」
「何が」
「だって、まるで生きてるみたい…」
「そりゃ、生きてるからね」

当たり前にそう言った宇佐美はナマエの肩を引き寄せて、ナマエはすっぽり腕の中に納まった。ごちんと彼の胸板に額がぶつかり、その向こうの皮膚の裏に血が流れているのを感じる。生きている。

「汗くさい…」
「しょうがないでしょ、ジョギングしてたんだから」
「でも…全然やじゃないよ」
「変態みたいに聞こえるよ、それ」

声が思わず震えた。目尻には涙が滲んで、はらはらと頬を通り過ぎて彼のウェアを濡らしていく。しゃくりあげると、ナマエが泣いていることに気が付いた宇佐美は抱きしめる手を緩めてナマエに上を向かせ、自分のウェアの袖で濡れた目元を少し強引に拭っていく。

「宇佐美くん、生きてるの?」
「うん」
「ほんとにほんと?」
「本当だよ」
「だって信じられない…」
「馬鹿だなぁ」

宇佐美はお決まりのその言葉をかけ、それからもう一度ナマエを抱きしめた。初めて感じる彼の体温は想像よりもうんと熱かった。


近くの自動販売機で宇佐美が調達してきたお茶でごくごくと喉を潤す。暑いのと疲れたのと泣いたので失われた水分を補給出来た、と満足してペットボトルを口から離す頃には、中身は半分程に減っていた。

「どう?落ち着いた?」
「全然混乱してるけど」
「まぁ、そうだろうね」

目の前の彼は、ナマエの都合のいい幻覚でも幽霊でもなく生きた人間だという。ナマエはひどく動揺しているのに、彼は予めわかっていたような素振りで少しも驚いていないようだった。

「この際だからネタバレするとさ、君の部屋に出て行ってた僕は魂の分離体みたいな、多分そんなんだったんだよ」
「なにそれ」
「証拠があるわけじゃないけど、実際僕は君の部屋に行ってたときの記憶あるしね。ナマエお手製のクズ野菜の炒め物も深夜のコンビニ弁当もよく覚えてるし」

宇佐美の分析によると、骨に引き寄せられていた精神の一部ではないかと読んでいるらしい。そしてそれと精神を共有していたから、ナマエの部屋で過ごした幽霊の状態のこともしっかりと記憶にあるようだ。彼がどうにも明治時代の人間だと思えない節があったのは、そこに現代の彼の感覚が混在していたためだったということか。

「僕が…実体の僕が眠ってる間だけ君の部屋に行けた。だから基本僕が眠ってる夜中しか出ていけなかったんだ」
「なるほど…?」
「話、ついてきてる?」
「わ、わかんないよ…そんな突拍子もないこと言われても…」

じとっと宇佐美がナマエを見るので、慌てて手を振りながら弁解をする。理解しているといえばしているような気もするけれど、まだ夢心地のようなところもある。「まぁいいか」と宇佐美は追及を諦め、自論の続きを話し始めた。

「最初は流石に変な夢かと思ってたんだけどさ、途中からどう考えても現実のこととしか思えなかったし、調べてみたらきっちり新宿にアムールってカフェバーあるし、これはそう考えるしかないんだろうなって」
「……そんな都合の良い話ある?」
「フフ、ナマエ好きでしょ。ご都合主義のハッピーエンド」

意地悪く笑ってみせて、そんな顔まで見惚れてしまうからもう惚れた弱みだと思う。宇佐美はきっとそれも分かっていて、だからいっそうたちが悪い。

「僕、去年の秋頃から転職活動してたんだよ。尊敬するひとが東京で起業するって聞いて。だからナマエを迎えに行って驚かせてやろうって思っててさ」
「えっ!じゃあ消えちゃった日も本当は全部わかってたってこと!?」
「そう。ていうか、多分消えたって言うより東京に行ったのがきっかけで幽霊の方が実体に戻ってきたってイメージの方が近いと思う」
「ちょっとまって!東京来てたの!?」
「うん。アムールも肉眼で確認しておきたかったし。ナマエとはニアミスだったけどね」

あまりにあっけらかんと言われ、腹の底から大きくため息をついた。もう二度と会えないと思って決めたあの覚悟は何だったんだろう。宇佐美は「だから僕のこと忘れないでねって言ったでしょ」と当然のように付け足した。

「宇佐美くんの馬鹿。いらないよ、そんなサプライズ。私もう二度と会えないって思ってずっと辛かったのに」
「僕のこと考えて泣いた?」

少し嬉しそうにそんなことを聞いてきて、むっとしてぽこぽこと彼を殴る。三発目で拳を手のひらに包まれて、ささやかな抵抗は簡単に中断されてしまった。唇をぎゅっと噛んで、すると宇佐美の手が今度はナマエの頬にすり寄った。そしてそのまま顎を掬い上げ、少しだけ顔を傾けてキスをする。唇には触れる感覚がしっかりとあって、思っていたよりも彼の唇は甘い。

「来月には東京に引っ越すから、もうちょっとだけ待ってて」

そんなの待つに決まっている。もう二度と会えないと思ったくらいなのだ。鼻先の触れ合う距離でナマエが「うん」と頷くと、宇佐美はそれに満足したようにもう一度ゆっくりとキスをした。

「宇佐美くん、もう消えたりしない?」
「当たり前でしょ。幽霊じゃないんだから」

この間まで幽霊だったくせによく言う。花のような甘い香りはなりをひそめ、宇佐美の香りがほんのりナマエに届いた。







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