14 楽日


一般的な社会人より随分と遅く起床し、身支度を整えて稽古場に向かう。今日はあらかじめ言われている仕事があるわけではなかったが、稽古場にタオルを忘れたことを思い出したからだ。

「おはようございまー…す…って、誰もいないか」

仕事がないのだから、他の劇団員は当然いなかった。時おりナマエのように何か忘れ物だとかで顔を出す人間もいるが、それは特例中の特例だ。稽古場を見渡す。次の公演で使う美術のデザイン画が壁に貼られている。今度の公演は精神病棟を舞台にした主人公とイマジナリーフレンドの対話の物語だった。

「……前向かなきゃな」

時間は進んでいる。生きている人間には明日が来る。立ち止まっていても変わらないし、塞ぎこんでいたところで宇佐美と同じ時間を刻めるようになるわけじゃない。もしも自分が幽霊になったら、そんなことができたなら、彼と同じ時間を過ごすことが出来るんだろうか。

「はは、馬鹿みたい」

宇佐美に言われる時とはまったく違った。その言葉は鋭い刃になり、容赦なくナマエの心に突き刺さった。恋を自覚してしまったときから分かっていたことだ。稽古場の隅に転がるタオルを回収して、今日はそのままアムールに向かった。早めに出てこれないかと連絡があり、時間的にはぎりぎりだったものの、その方が宇佐美のことを考えずに済むからありがたかった。

「おはようございまーす」
「おう、おはようさん」

バックルームに顔を出せば、キロランケがシフト表をいじっている。次のシフトはどんなふうに希望を出したんだったか。出来るだけ多く勤務を入れてもらえるようにお願いしておこうか。

「あの、キロランケさん。来月のシフトも出来れば多めで入れてほしくって」
「普段からナマエのシフトは多い方だぜ?増やして大丈夫か?」
「はい。なんか雑念を吹っ飛ばしたいっていうか。はは…」

ナマエがそう言えばキロランケは「なんだ、失恋でもしたか?」と痛いところをついてくる。宇佐美から面と向かって「君のことは好きじゃない」と言われでもしたわけではないが、先のないこの恋にそもそも失恋以外の道はなかったのだ。
思考を遮るようにドアベルが来客を知らせる。ナマエはホールに出て常套句を口にした。

「いらっしゃいませ」

入店してきたのは上品に整えられた髭が印象的な紳士だった。図書館で出会った男だ。確か名前は鶴見といった。ナマエが席を案内しようと歩み寄ると、彼もまたナマエに気が付いたようだった。

「おや、君は…ミョウジさんだったね。ここで働いているのかい」
「はい。お久しぶりです。偶然ですね」

ナマエは話もそこそこに鶴見をカウンター席に案内をした。鶴見はブレンドを注文し、さっそくサーバーにカップをセットしてオリジナルブレンドを注いでいく。宇佐美とはまた違う男性物の香水がほのかに鶴見から香った。

「お待たせしました」

ナマエが目の前にサーブすると、鶴見は上品な仕草でカップを持ち上げて口をつける。まるでおとぎ話の登場人物のような優雅さがある。小さく「良い豆だ」と彼が言ったので、ナマエは小さく「ありがとうございます」と相槌を打つ。

「差し出がましいようだが、何か悩んでいるのかな」
「えっ…」
「すまないね、昔から職業病か、人間観察が癖になってしまっていて」

出し抜けに見透かされて驚いた。そんなにも分かりやすく顔に出てしまっていただろうか。仕事中だというのに情けない。

「すみません、お客様にそんな気を遣わせてしまって…」
「いやなに、私が特別目ざといというだけさ」

鶴見は恐縮するナマエにそうやんわりと言い、またコーヒーを口に運ぶ。アムールのコーヒーはキロランケ厳選の上等な豆で作られていることは間違いないが、鶴見がカップを傾けていると本来の価値以上のもののように見えるから不思議だ。

「……実はその。少しだけ悩みがあって」

ナマエがぽつりと打ち明けると、鶴見は「ほう」と言葉を漏らしてカップをカウンターの上に戻す。悩みがあるとつい口をついてしまったが、自分のアパートに幽霊が出るだとか、その幽霊に恋をしているだとか、そんなことが説明できるはずもない。
黙ったままでいれば、鶴見はそれ以上ナマエの言葉が続くことはないと判断したのか、そっと口を開いた。

「偶然だと思うようなことも、一見意味などないように思えることも、案外悩みを解決する手がかりになったりするものだ。よくよく観察したり…例えば今までのことをもう一度見つめなおしてみたりというのも、解決の糸口になるかもしれない」
「そういうものでしょうか…」
「ああ。もっとも、君の悩みへ対するアドバイスになっているかどうかは保証できないがね」

鶴見が悪戯っぽくウインクをしてみせる。店内が落ち着いていたこともあって、それから鶴見の話をいくつか聞かせてもらった。最近まで海外で仕事をしていたこと、それに目途が付き、かねてからの目標であった自分の会社を設立しようと帰国したこと、そのために昔の優秀な仲間たちに声をかけて回っていること。

「優秀なのは間違いないんだが…いかんせん全員癖が強くてね」

そう笑う鶴見はどこか楽しそうで、きっとその仲間たちと働けることを心待ちにしているのだろうということがうかがえる。
鶴見はそうして時にナマエと穏やかな会話を交わしながら30分ほど滞在して店を出て行った。偶然と思うようなことにも、一見意味などないように思えることにも、なにか手がかりがある。鶴見からもたらされた言葉が頭の中でぐるぐると巡っていった。


アムールでの勤務を終えて帰路につく。その道中ナマエはぽつりぽつりと宇佐美に出会ってからのことを思い出していた。最初に出会ったのはアパートの階段。転びそうになっているところを彼が服を引っ張るような形で阻止してくれたのだ。礼を言おうと顔を上げたときに彼の向こうが透けて見えて、ひどく驚いたことをよく覚えている。

『ほ、ホログラム…』
『なわけないでしょ』
『最新科学技術…』
『なんでこんなボロアパートに?』

当たり前のように返事があって、まるで生きている人間と話しているかのような気持ちになった。ホログラムだとか最新科学技術だとかと突拍子もないことを言って「幽霊」という最も非科学的な答えを避けようとしてみせた。
生前は軍人であったと簡単に身分を明かしたくせに、出てくる時間などの縛りの話はすぐにはぐらかした。地頭がいいのか、現代の戯曲の形式で書かれたナマエの拙い処女作をつらつらと批評し、しかもそれが全て的を射ているのだから恐れ入った。頭がいいといえば、こんなこともあった。

『玄米が栄養価高いって知ったのいくつの時だったかなぁ』
『ほら、もうそんなこといいから食べなよ。コンビニで温めてきてもらったんだろ』
『はーい』

彼は玄米の栄養価についても良く心得ていた。あれは少なくとも、明治時代の一般教養の枠からは外れた知識だったのではないだろうか。いくつか明治時代に関する本を読んだから、今ならより彼の博識さがわかる。
ストーカー被害に遭ったこともあった。あの時もずっと宇佐美は心配してくれていて、最終的には彼が追い返してくれたおかげでストーカーはぱったりと姿を見せなくなった。

『僕の助けられないところで変な奴に絡まれないでよ、馬鹿』

宇佐美の顔を見て心底安心することが出来た。彼がいてくれるからもう平気だと思えたし、ひとりじゃないと救われた。
100年以上前に死んだ人間だというのに、彼との会話はそんなものを少しも感じさせなかった。会えない時間が続くと寂しくて、そのうちに感情は膨れ上がっていく。すっかり彼の花のような香りがないと落ち着かなくなっていた。

「……あれ…?」

ナマエはぴたりと足を止めた。何かおかしくないか。どうして彼は出会ったあの日「ホログラム」という言葉を否定して「アパート」なんて言葉を使えたんだろう。あの頃はてっきりこの100年間でそういった言葉を学んで来たのかと思っていたが、彼は東京に来てから意識がはっきりとしたと言っていた。他にも思い返してみれば、どうにも語彙が明治時代の人間とは思えない瞬間が何度もあった。

「宇佐美くんは…幽霊じゃ、ない…?」

まさか、という可能性が頭をよぎる。だとしたら彼は自分にだけ見える幻覚だとでもいうのか。でもそれならナマエが知り得ないような知識を持っているのはおかしくないか。
彼はいったい、何者なのだろう。


その日の夜、宇佐美は今日が最後になるだろうと言った。泣いて喚いて迷惑をかけてしまいたくて、しかしナマエはそんなことをする勇気もなかった。代わりに最後だからと宇佐美に思い出を強請った。

「宇佐美くん。消えちゃうまで、今日はそばにいて」
「…いいよ、それくらい」

ナマエは布団とローテーブルの間の定位置に腰を下ろし、宇佐美はいつもの向かいではなくてナマエの隣に座った。生身の人間であればきっと右側からじわじわと彼の体温を感じることが出来ただろう。今は何も感じない。

「今日、本当に消えちゃうんだよね」
「うん」
「明日から宇佐美くんのいない部屋になるなんて…なんだか実感ないなぁ」
「幽霊と同居なんてしてる方が変でしょ」
「はは、そうだね」

宇佐美の言葉に思わず笑う。幽霊と同居なんて妙ちくりんなことになったと思っていたはずなのに、いつの間にか当たり前になっていた。ナマエがふっと頬を緩める。

「でも、その変なのが好きだった」

穏やかなその声に、宇佐美はきゅっと口を引き結び、畳に投げ出されたナマエの右手にそっと自分の左手を乗せる。それは触れ合うことなく、宇佐美の手とナマエの手がまじりあうように重なった。いっそのこと、本当に混ざってしまえばいいのに。そんな詮無いことを考える。

「宇佐美くんの匂いが好き。花のいい匂いがする」
「花?」
「そう。宇佐美くんがそばにいるときは、根付に入ってる宇佐美くんの遺骨とおんなじ匂いがする。たぶんくちなしの花の匂いじゃないかって」

思い返してみれば、初めて出会った日も花のいい香りがした。触れられないのに匂いはするなんて不思議なこともあるものだ。もっとも、彼の存在そのものが不思議なのだから、それくらいは些末なことなのかもしれないが。

「ほかの匂いは落ち着かないの。宇佐美くんの匂いが一番好き」
「よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるよね」
「だって……恥ずかしがって言わないままだったら、後悔しそう」

ナマエがそう眉を下げると、宇佐美がぐっと息をのんだのが分かった。普段ならこんな恥ずかしいことを素面じゃ言えないだろう。けれど最後なのだ。恥も外聞もない。一生後悔するくらいなら、ここで一瞬恥をかいた方がマシだと思う。

「馬鹿だな」

宇佐美が優しい声音でそう言って、視界の端で動いたのが見えた。つられるように顔を上げると、彼は目を柔く笑わせてこちらを見つめていた。美しい相貌がじっと近づき、ナマエは予定調和のように目を閉じる。
唇に触れる感覚はいつまで経ってももたらされることはない。それでもまるでキスをしているみたいに唇が熱くなるような感覚に陥った。

「ナマエ」

そう名前を呼ばれて、ゆっくり瞼をあげる。睫毛の触れてしまいそうな距離に宇佐美がいて、透けた彼の向こうに薄っぺらなカーテンが見える。ああ、終わる。そのことをどうしてだか明瞭に理解した。

「好きだよ」
「……宇佐美くん…」
「僕のこと、忘れないでね」
「忘れられるわけないよ」

消えてしまうくせに忘れるななんて酷いことを言うものだ。しかし頼まれたって忘れることは出来ないだろう。そう予感しているから構わなかった。
宇佐美の体がよりいっそう透けていく。彼が消えてしまう瞬間というのを、今日まで一度も見たことがなかった。いつもこうなのか、それとも今日が特別こんな風なのか。ただ一つ直感したのは、これが最後だろうということだった。

「…宇佐美くんが、人間だったら良かった」

言ってはいけない言葉だと思っていた。というより、言っても仕方がない言葉だとわかっていた。宇佐美がナマエを見つめ、ふっと顔を綻ばせる。彼の指がナマエの頬に伸び、目元を撫でるように親指が動いていく。それでも何も感じることは出来ない。彼はここにいないひとなのだと途方もなく突きつけられる。
きらきらと彼の身体が光の粒に変わっていく。名残り惜しむように宇佐美はもう一度、ナマエにキスの真似事をした。







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