13 暗転


宇佐美を好きだと自覚したところで、出来ることは何もなかった。調べても調べても、一兵卒だったという彼のことがわかる資料などどこにも残されているわけがない。あれから図書館に行って日露戦争やその後の日本のことが書いてあるような本を読んでみたけれど、どこにも彼の名前はなかった。

「はぁ…そりゃそうだよね」

名前が出てくるのは、専ら司令官ばかりである。大山巌、東郷平八郎、乃木希典。ナマエでも名前を聞いたことがあるような司令官たちで、兵卒の名がその中に刻まれることはない。どの作戦に何人投入され、死傷者がどれほど出たのか、そしてその作戦で戦況がどう動いていったのか。兵卒は戦争において「数」でしかなかった。

「宇佐美くんは……」

白黒の写真。煙を上げる艦隊。28センチ砲の砲台。自分には想像もつかない世界で、きっと宇佐美に会うまでこれほど真剣にこの国の過去の戦争のことを考える機会はなかったのではないかと思う。
宇佐美はいくつのときに出征したのだろう。大日本帝国軍には徴兵制度があったはずだけれど、それが何歳から適用されるのもなのかもナマエは知らなかった。
ぐっと唇を噛み、本を閉じる。どうせ変えようもない現実なのに、昔のことを知ろうとするたび宇佐美がどんどん遠ざかるような気がした。

「ナマエ」

名前を呼ばれ、慌てて本を背中に隠した。顔を上げれば、まだいつもより少し早い時間だというのに宇佐美が珍しくもう出てきたらしい。本を隠したのをバレてしまわないように努めていつも通りの顔を作り「宇佐美くん、早いね」と事も無げに言ってみせる。宇佐美がじっとナマエを見つめた。

「何か隠してるでしょ」
「え?い、いやなんにも……」

ナマエの動揺を一発で見破り、訝し気な顔をして大きな目でナマエを追い詰めていく。綺麗な顔だな、かっこいいな、といままでならそこまで意識もしてこなかったことに頭の中が支配され、吸い込まれてしまいそうだと思った。

「嘘」
「う、嘘じゃないよ…」
「じゃあさっき何隠したの?」
「隠してなんか──」

ない、と言おうとして、背中に違和感を感じた。ふゆりと隠したはずの本が浮遊している。そうだ、宇佐美は無機物なら何でも動かせてしまうのだ。背中から離れていくそれを捕まえようとしたが時すでに遅く、浮遊したそれが宇佐美の胸元に飛んでいく。

「…1905旅順陥落?」

宇佐美が読み上げたのは借りてきた本のタイトルだ。日露戦争の全体史ではなく、旅順の攻略についてもっと限定した本を読めば彼の事が少しでも知れるのではないかと思った。もっとも、そんな期待は外れたけれど。

「なんで急にこんな本読んでるの?」
「えっと、それは…」

口ごもるナマエを、答えを返すまで黙らせてなんかやらないとばかりに宇佐美が見つめ続ける。自分の気持ちまでは打ち明けなくとも、単に彼に興味を持ったということを言ってしまえばいいのではないか。いままでだって彼に生前のことを尋ねたことは何度もある。

「う、宇佐美くんのことが、何か分かるかなと思って…」
「僕のこと?」
「うん。だって…宇佐美くんのこと全然知らないんだもん。話を聞かせてもらっても近代史ってそんなに得意じゃなかったからピンと来ないことばっかりだったし……なにか、ちょっとでも分かるかなって…」

正直に白状すると、宇佐美は本のページをいくつかぺらぺらとめくった。沈黙の時間が少し怖い。ストーカーじみたことをしてくるやつだと呆れられてしまっただろうか。今までなら、彼は幽霊なのだしと細かいことは考えずに済んだのに、意識してしまったせいでそれも出来ない。

「馬鹿だね、ナマエ」

言葉のわりに声音は穏やかだった。ページをめくる手を止め、本を閉じるとローテーブルの向かいの、いつもの場所に腰を降ろす。それと一緒に本はナマエへと返された。

「僕はいち兵卒だよ。後世に残るような本に仰々しく名前が載ってるわけないでしょ」
「それは…わかってたけどさ」

わかっていても、手がかりは彼の「第七師団、歩兵27連隊の上等兵」という証言しかないのだ。彼の出身地も生い立ちも、どうやって死んでいったかだって知らない。ただ真夜中にこの部屋に来てくれる、少し意地の悪い幽霊。それだけ。

「ナマエ、本当に僕に興味があるんだね」

前にも二回同じようなことを言われた。一回目は臆面もなく肯定できたけれど、二回目は何だか胸が痛くなるような気がした。思い起こせばそのときから、もう彼のことを好きだったのかもしれない。否定なんて出来なかった。否定すればそれは自分の気持ちごと否定してしまうことと同じだと思った。ナマエは唇を噛み、それから薄く開く。

「……あるよ。宇佐美くんのこと、知りたい」
「ナマエ……」

震えてしまうかと思った声は一直線に宇佐美に飛んで行った。宇佐美はそれを真正面で受け止め、瞼を半分降ろして本のタイトルを見つめたあと、ゆっくり閉じてから開く。

「僕の故郷は新潟県新発田市。農家の長男に生まれて、四人兄弟の上から二番目だった」

宇佐美はゆっくりと自分の出自について話を始めた。新発田の一般的な農民の家に生まれたこと、柔道教室に同郷の鶴見が時おり指導に来ていて、彼のことをその時からずっと慕っていたこと。

「長男って家を継がなきゃいけないから、基本的に徴兵も免除されるんだ。だけど僕は篤四郎さんの…鶴見中尉のお力になりたくて、北海道の第七師団までついていった。日露戦争の出征は君が知りたがるほど変わったことはないと思うけど…そうだな、帰還してから僕らは鶴見中尉のもとでとある大きな計画を実行した」
「とある、計画…?」
「そう。でもどこにもそれは残ってないから…あの騒動自体上がなかったことにしたんだろうね」

聞く限りまるでクーデターだ。どのような規模かは分からないが、彼が大きな計画と言い、それが後世に残っていないということは、本当に何か大きな力が騒動ごと消し去りでもしたのか。宇佐美の話はまだ続いた。

「とにかく、僕はその計画の途中、札幌麦酒工場で起きた衝突で殺された。それが僕の最後」

札幌。宇佐美の最後の場所であり、ナマエにとっては生まれ故郷だ。彼との数少ない接点と言えば札幌という一点だけかもしれない。ひょっとして、その共通点が彼をここに引き付けたのだろうか。いや、札幌というだけならごまんと人はいるはずだ。

「宇佐美くんは……どうしてこの部屋に出てくるの…?」

散々聞いたことだった。どうしてこの部屋なのか、どうしてここから離れられないのか。いつもはぐらかされる問いを、今日なら答えて貰えるんじゃないかと思った。ナマエがじっと宇佐美を見つめる。宇佐美はつんと尖った唇を引き結び、それから「ハァ」と大きくため息をついた。

「まぁ、いつまでも隠していられないか……」

観念したような口ぶりでそう溢し、ナマエに向かって右手を差し出す。意味も解らずそれにまるでお手をするように乗せる素振りをすると「違う」と一蹴された。説明もされていないのだから何を求められているのか分かるはずもない。

「根付、出して」
「えっ、なんで…」
「いいから」

あの根付は祖母の形見だ。宇佐美がいるときに掃除をしていて見つけたものなのだから存在を知っていてもおかしくはないが、どうしてこの流れで根付を要求されるのか。しかしそれを拒否する理由もなく、宇佐美ならきっと乱暴に扱うことはないだろうと思えたので、ナマエは大人しく仕舞っていた根付をことりとローテーブルの上に出した。

「これ、真ん中で開くの、知ってる?」
「え、う、うん…この前たまたま開くんだなって気付いて…」
「中身は見た?」
「見たよ。何かわからないけど、花の匂いみたいなのがする白いのが入ってて…」

根付に納まる程度の白茶けた塊。表面はざらざらとしていて、力を込めると壊れてしまいそうで怖かった。そして花のような香りがした。まるで宇佐美が現れた時と同じような香りだった。
宇佐美が「開けるよ」と断り、根付を上下に開いていく。花の香りがより強く溢れる。中にはやはり、あつらえたようにぴったりと納まったあの白茶けた塊がじっとしていた。宇佐美の声がささやかに空気を揺らす。

「──これは、僕の骨だ」

ひゅっと息をのんだ。いや黙ったのではなくて「え」だとか「あ」だとか、そういう言葉にもならない短音を漏らしたのかもしれない。そんなことを曖昧になるくらいナマエの頭と口が分断されていた。
骨。確かにそう言われてみれば、これは骨のようにも見えなくない。けれどそれならどうして、祖母は後生大事にこの骨を持っていたのだろうか。

「う、さみくんの…骨……?」
「そう。僕は札幌で死んで、そこで簡易的に火葬された。軍の正式な処理じゃなかったしあのあとは忙しなかったみたいだから、そのまま丁重に葬ってくれるよう地元の人間に頼んだってさ」

さきほど聞いた話によれば、彼はクーデターか何かを起こした反乱分子のようだった。そんな立場だったから、正式な手続きが取れなかったのかもしれない。目の前の人物の遺骨が触れられる距離に存在するというのは、何だか妙な心地だった。

「多分これに呼ばれて、僕はこの部屋に来てる。ここから離れられないのもそのせいだと思う」
「私が…私が根付持ってきちゃったから宇佐美くんのこと東京まで連れて来ちゃったってこと…?」
「まぁ、そうとも言えるかな」

この根付がひとつの鍵のような役割をしていたのだとすれば、縁もゆかりもない東京のボロアパートに宇佐美が幽霊として現れるのも何となく納得は出来そうだ。しかしだとしたら、自分のせいで彼はこんな遠くまで連れてこられたということになってしまう。

「…ごめん」
「何が?」
「だって……私が持ち出したからこんなとこまで連れてきちゃって…」
「別に。この100年以上ずっと意識がはっきりしてたわけじゃないんだ。ここに連れてこられて覚醒したかんじ。だからまぁ、札幌を見守ってたとか言うわけでもないしね」

そうなの?とおずおず尋ねると、宇佐美はそうだよ、と笑ってローテーブルに頬杖をついた。今日はいつになく笑顔が柔らかいと思うのは、自分の勝手な思い込みだろうか。宇佐美の目がやわらかく三日月形に細められる。

「馬鹿なナマエと一緒に過ごすのも、悪くないしね」

馬鹿、と呼ばれるその声に、少しもつんけんしなくなったのはいつからだっただろうか。始めの頃はもちろんそんな悪口めいた言葉に腹を立てていたし、なんて失礼な人だと思ったものだ。しかし今はその言葉にまるで慈しみのようなものを感じるようになっていた。これは勘違いだろうか。それとも実際にそうなのだろうか。確かめたい。確かめたいけれど、怖い。

「…宇佐美くん…あのね、私」
「ナマエ、それ以上は──」

ナマエが切り出すと、その言葉を言わせまいと宇佐美が先回りをする。彼の手が口を塞ごうと伸びて来たけれど、するりと簡単にナマエをすり抜けて行ってしまう。幽霊の彼は生きている人間に触れることが出来ない。必然的に宇佐美との距離が近づき、目の前で彼の大きな瞳がまばたきをする。その向こうに自分の部屋が透けて見える。

「好き。宇佐美くんのことが、好き」

告白なんかして何になる。彼は死んだ人間で、幽霊で、この先なんてなにひとつない。そんなことは言われなくてもよくわかっていた。それでも言わずにいられなかった。彼が来てくれる日は嬉しい。朝起きたらいなくなってるのは寂しい。出てこない日が続けば会いたくて仕方がない。この気持ちが恋じゃないなら、他にどんな名前がつけられるだろう。

「…幽霊なんかを好きになってどうするんだよ」
「わかってるよ。だけど好きになっちゃったのを…私嘘になんかできない」

実体があれば吐息を感じてしまいそうな距離でナマエは宇佐美を見つめ続けた。宇佐美がそっと手をあげ、ナマエの頬の高さに合わせる。それはまるで頬を撫でるみたいで、しかし感触も温度も、何も伝わってくることはなかった。彼はそのままつんと尖った唇を一度合わせるようにして、それからゆっくり開く。

「……多分僕は、もうすぐ消える」
「う…そ……」
「本当だよ。自分のことだから、よくわかる。だから止めようとしたんだ」

宇佐美の心地のよい声でそう聞こえてきた。なんて残酷なんだろう。こんなにも好きなのに、好きだと言ったその日に終わりが近いことを知らされるなんて。







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