12 奈落


打ち上げでテンションが上がってしまったとはいえ、流石に飲み過ぎた。今日は千秋楽の翌日と言うこともあってアムールも休みを取っている。休みにしていて正解だったと思う。
朝起きると、化粧は落としてないわ部屋着にも着替えてないわで散々だった。風邪をひきかねないこの状況で風邪をひいていないのは、きっと床に転がりながらも掛け布団を被っていたからだろう思う。

「あー、頭ちょっと痛い…」

二日酔いと言うほどでもないかもしれないけれども、ずっしりと頭が重かった。ゆうべ家に帰ったあたりから気が抜けて記憶がなくなっている。朧げではあるが、宇佐美が出てきてくれた気がする。やっと会えたのにこんな状態だっただなんて情けない。

「はぁ、今晩来てくれるかな……」

ナマエはため息をつきながら台所に立って歯を磨いた。ぼうっとした顔の自分と目が合う。身支度を整えたら、今日は図書館に行く予定をしていた。祖母の根付の花が一体何の花なのか調べるためだ。
化粧を一回すべて落とし、それからプチプラの化粧水と乳液で整えていく。デパートコスメに憧れる気持ちはあるが、そんなものが買えるようになるのは夢のまた夢だろう。先輩のおさがりばかりの洋服をそれらしく組み合わせ、普段は持ち出さない根付も鞄の中に入れて家を出る。

「あ、メッセ―ジ来てる…」

スマホを確認すると、メッセージが一件入ってきていた。差出人はアムールのバイト仲間からだった。明日のシフトを代わって欲しいらしい。長時間の勤務にはなるが、大して問題はない。ナマエはそれに応じる旨の返信をして、図書館に向かった。


上京してからというもの、図書館を利用したのは数回ほどで、棚の位置もさっぱり覚えていない。案内図を見ながら館内を歩き回り、ようやく自然科学の棚に辿り着いた。なるべく初心者向けの図鑑から見ることにしよう、と数冊を手に取り、テーブルと椅子のある閲覧コーナーを目指す。
その途中で歴史の棚の前を通りがかり、そこで一冊の本が目に入った。

「日露戦争の軌跡……」

引っ張られるようにその本に歩み寄り、気が付くとそれを手に取っていた。日露戦争。今から百年以上前に起こった戦争であり、宇佐美も出征したという戦争。ナマエはその本も併せて抱え、閲覧コーナーの端の椅子に腰かけた。

「よい、しょ…」

日露戦争の軌跡と題された本は、四六判のハードカバーの本だった。この手の本はあまり読んだことがない。歴史にはそこそこ興味があるつもりだが、ナマエが好きなのは主に戦国時代だ。明治時代のことは授業でやった程度しか知識がなく、頭から読んでいかないと理解できそうにない。
目次から文字を辿っていく。日露戦争とは何かという解説から始まっているあたり、この本はまだ初心者でも読めるものだと思う。

「あっ、第七師団」

読み進めているうちに宇佐美が所属していたという師団の名前が出てきたものだから、ナマエは思わず声を上げてしまってパッと塞いだ。この閲覧コーナーは多少のお喋りは許されているけれど、声が大きすぎたかもしれない。ナマエはそそくさと目の前の本に戻っていく。

「え、と……」

日本は朝鮮半島の利権確保とロシアの南下阻止のために戦った。制海権の確保がこの戦争のカギを握ることになり、ロシア太平洋艦隊の基地はウラジオストクと旅順であったが、それらを繋ぐ路上には長崎の佐世保基地があった。そのせいでロシア太平洋艦隊は連携が困難な状況にあり、これが戦況を大きく左右した。
本文の三分の一程度に差し掛かったところで読み進めるのがしんどくなってしまい、そこからパラパラとページをめくっていく。当然のことだけれど、宇佐美の名前が載っているはずもなかった。彼は上等兵だったと言っていた。本の中に名前が出てくるのは大将とか中将とかそういう身分の人ばかりで、後は死傷者だとか動員人数だとかの数でしかなかった。宇佐美をその中から探すことはもちろんできない。

「はぁ……」

ため息交じりに本を閉じると、本来の目的であった根付の花を探す作業に移る。日露戦争の軌跡の続きはこの本を借りて家で読むことにしよう。
植物図鑑を開き、さてどこから探したものかとページをめくっていく。手がかりは根付のデザインだけだ。根付の素材の色は乳白色だけれど、これがそのまま花の色であるとは限らない。図鑑は四季の並びになっていて、春から順番に同じような花を探していく。
桜、菜の花、ガーベラ、ハイビスカス、コスモス、ポインセチア…。ナマエでも名前を知っているようなものから馴染みのないものまで、図鑑は平等にその姿を記録している。しかしぴったりこれだと思うものは見当たらない。
そうしてページをめくっているとき、視界の端でころんと何かが転がり落ちるのが見えた。反射的にそちらを向けば転がったのはボールペンで、恐らくその先を行く男性が落としたものだろうと思われた。

「あの、すみません、落としましたよ」

ナマエがボールペンを拾い上げて呼び止めると、男が足を止めて振り返る。上品に整えられた髭の印象的な中年の色男で、例えば紳士とか、そういう言葉がよく似合うように見える。

「すまないね、助かったよ」
「いえ、たまたま気が付いただけなので」

彼はナマエが差し出したボールペンが自分のものであることに気が付き「ありがとう」とそれを受け取る。ボールペンに傷がないことを確認すると、彼はそれを丁寧に内ポケットにしまった。
無事に渡すことも出来たし自分の作業に戻ろうとすると、彼が持っていた本に目が留まった。思わず見つめてしまったのがすぐに分かってしまって、男が本を自分の胸の前に持つ。ナマエがいまめくっているものとは違う植物図鑑だった。

「この本がどうかしたかな」
「す、すみません。今名前の分からない花を探していて。植物図鑑をお持ちだったのでつい目が行ってしまって」

ナマエが正直にそう言うと、男は「ふむ」と少し考える素振りをしたあとにナマエの使う隣の椅子に腰かける。

「お礼と行っては何だが、その花探しを私もお手伝いしよう」
「えっ、悪いですよ、そんな…」
「はは、なに。おじさんの暇つぶしに付き合うと思って」

おじさんという表現からはおよそ反対側にいるような気がしてならないが、騒ぎ立てるわけにもいかないし根付と同じ花は見つけられないし、これは渡りに船かもしれない。

「よろしくお願いします。えっと…」
「鶴見と呼んでくれ」
「はい。よろしくお願いします、鶴見さん。ミョウジといいます」

紳士の名前は鶴見というらしい。少し惚れ惚れするほどの美形だ。そう言えば、このところ杉元といい鶴見といい、美形に遭遇しすぎではないだろうか。宇佐美だってそうだ。色の白い肌、目元にさすピンク色。つんと尖った唇は特徴的で彼のチャームポイントだと思うし、大きな目だってそうだろう。頬に描かれた棒人間の落書きのセンスはよくわからないが、それさえ彼を魅力的に見せる仕掛けのように思える。

「お嬢さん、どうかしたかね」
「あっ、いえ…なんでも…」
「それで、探している花とはどんな花かな?」

鶴見の声で引き寄せられ、ナマエはハッと思考を取り戻す。そうだ、今はナマエの探している花を一緒に見つけようとしてくれているのだった。

「えっと、大きい花びらが六枚広がっていて、真ん中におしべとめしべのようなものがあって…とってもいい香りが、するんです」

口にしてしまってから、自分で何かおかしいということに時間差で気が付いた。あの香りは中の白茶けた塊のものであり、決して描かれた花から香るものではない。そう言えば、宇佐美に感じる花の香りにも似ている気がする。

「ほう、香りか」

訂正する前に鶴見が相槌を打ち、ナマエが持ち出した図鑑をめくる。一応この図鑑に載っているものには目を通したはずだが、それよりも香りのことを訂正しないととナマエが口を開く。それよりさきに鶴見は目ぼしいページをさらりと開いて見せた。

「これではないかな?」
「くちなし……?」
「ああ。日本三大香木と呼ばれている」

図鑑に載っているくちなしの花は花弁が八重咲きになっている。いい香りがするといってもナマエが探している花は六枚の花弁が一重に咲くものである。明らかにこれではないと言おうとすると、またも先回りされて鶴見が自分の持ち出した方の図鑑を開いた。

「君の持ってきた図鑑に載っているのは八重咲きのくちなしだね。一重咲きだと花弁が君のいうイメージに近い」

鶴見が差し出す図鑑のページを覗き込む。するとそこにはまさに根付と同じ花が描かれていた。ナマエは小さく「あっ」と声を上げ、鞄から根付を取り出す。図鑑のページと並べて見ればますますそっくりだ。

「それは?」
「あの、祖母の形見なんです。この根付に描かれてる花を探していて」
「なるほど」

鶴見はナマエの話を聞いて得心がいったようだった。それにしても、くちなしとはこんな花なのか。名前は聞いたことがあるが、こんな花だとは思わなかった。この花からあの馨しい匂いがするのか。

「くちなしの花、初めて見ました」
「おや、そうなのかい」

じっと図鑑を見つめる。まるで香り立ってくるように思える。ふと頭の中に過ったのは宇佐美の姿だった。通った鼻筋、じっとこちらを見つめる瞳、ゆっくりと上がる口角。図鑑に見入ったままのナマエを鶴見がじっと見つめる。

「お嬢さん、ご出身は?」
「北海道です」
「なるほど」

一体急に何の話だろう。そう思いながらも答えると、鶴見は一人で納得してしまった。首を傾げていると、鶴見がゆっくり口を開いた。

「この花は静岡以西に自生しているんだよ。北海道だとあまり見られないかも知れないね」
「えっ、そうなんですね…」

なるほど、道理で親しみがないはずだ。もしかするとどこかで植えている庭もあるのかもしれないが、少なくとも道端に自生はしていないということだ。そうなると出会う回数は相当減るに違いない。

「素晴らしい根付だ。私が言うようなことでもないが、是非大切にしてあげるといい」
「はい、もちろんです」

鶴見はそう言うと、役目は終わったとばかりに席を立つ。ナマエは改めて礼を言って、別のフロアへ移動していく鶴見の背中を見送った。


図書館をあとにして、ナマエは少し浮ついた気持ちのまま帰宅した。鶴見という紳士はなんだか不思議なひとだったように思う。結局貸出手続きをしたのは「日露戦争の軌跡」一冊で、それを定位置に座ってじっくり眺めた。

「第七師団、は…と」

この本は日露戦争の全体をとらえて書いているものだから、第七師団にフォーカスされているわけではない。旅順攻囲戦に関しては特に日清戦争から続くところもあるから、そのあたりにも触れられていてなおのこと細かなところには光が当たらない。
第七師団は第三軍に追加投入され、旅順攻囲戦に参加した。随分な強硬策で、困難な作戦を押し付けられたようなものだったらしい。最終的に攻め落とすことには成功したが、被害は甚大だった。単純な戦死者だけで言えば、勝ったはずの日本のほうがよっぽど多かった。

「日露戦争って…こんな戦争だったんだ…」

日本が戦争に勝ったことは知っていた。けれどその中でどんなふうな戦いがあって、どれほどの人が亡くなったのかということは深く考えたことがなかった。授業でやるのはいつも戦争が起こった発端と勝敗、それから講和条約ばかりだ。日本の戦力は約30万人。そのなかに宇佐美がいたのか。

「……宇佐美くん、ここにいたんだよね」

そっとその30万という数字を撫でる。宇佐美のことを知ろうと明治時代のことを調べれば調べるほど、彼は遠ざかっていくように感じる。
結局一冊読み終わったところで、第七師団の話はそれほど出てこなかった。そうだ、そういえば、宇佐美が命を賭して仕えた相手というのも「鶴見」という名前だった。

「宇佐美くん……会いたいな」

会えない時間を穴埋めするように彼に繋がる何かがないかと探し求めた。そうすることでかえってナマエのなかで宇佐美の存在感は膨れ上がり、どうしようもないほど頭の中を埋め尽くすほどになっていた。この感情を何と呼べばいいのか分からないほど幼くはなく、だからもう戻れないこともよく心得ていた。

「………好き」

100年以上も前に死んだ幽霊に恋をしてしまった。







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