11 緞帳


11月某日、ついに定期公演の幕が上がった。今回の劇場のキャパシティは150席。初日と千秋楽のチケットは完売している。杉元は千秋楽前日のチケットを2枚買ってくれていて、友人を誘うのだと言っていた。白石だろうか、それともナマエの知らない友人だろうか。とにかく何ともありがたいことである。
この期間は流石にアムールのシフトをいれることが出来ない。キロランケはシフトの調整を快諾してくれて、理解のあるアルバイト先に感謝した。

「ただいまぁ」

本番を終え、今日はいつにない時間の帰宅である。ソワレの公演を終えてもアムールのシフトが入っているときに比べれば幾分も早い。初日の感触は中々よかった。もちろん端役のナマエに特筆すべきシーンはごく少ないが、自分の中で思い描いているように芝居をコントロールできていたような気がする。

「…宇佐美くんは、いないよね」

誰もいない部屋の中を見つめながらぽつんとこぼす。宇佐美が現れるのは大抵時計の針がてっぺんを回るような時間以降だ。こんな時間にいる可能性のほうが低い。初日の手ごたえのことを話したかったのに、とナマエはため息をつく。

「会いたかったな…」

宇佐美が出てくる頻度は未だに回復していない。むしろ少なくなった気さえする。幽霊に規則性を求めること自体がおかしいのかもしれないが、こうして会えない日が続くのは単純に寂しかった。自分の中に湧き上がる感情がかたちを得はじめてからはなおさらだ。

「ダメダメ、明日からも公演は続くんだから、集中しないと」

ナマエはぶんぶんと頭を振ってリセットを試みる。布団とローテーブルの間の定位置に座り、自分の今日の芝居を一幕一場から再生した。座長に言われた距離感というものは上手に
掴めていただろうか。今日実際に客席に客が入ることによって感覚に変化があったところもある。舞台というものはなま物だ。その名の通り、まるで生きているかのように日々変化をしていく。同じ演目でも同じ公演は二つと存在しない。

「A美と言い争うところ…もう少し動きが大きくてもいいかもしれない…前に押し出すイメージで手を───」

舞台上をイメージしてふっと手を伸ばしたその時だった。ローテーブルの上の何かにこつんと手の甲があたり、それがころころ畳の上に転がっていく。何を落としてしまったのか、と確認すると、それは祖母の形見の根付だった。傷になってたりはしないかと慌てて拾い上げて確認をする。

「はぁ、良かったぁ…」

くるくると見回してみたが、とりあえず大きな傷や汚れは見当たらない。すべすべと乳白の花びらに指を這わせる。角はすっかり丸くなっていて、これが相当の年月大切にされているということが分かる。

「これ、何の花なんだろう」

空想の花ということはないだろう。きっと何かの花なのだとは思うが、図鑑でも見なければこれが何の花なのか分かるはずもなかった。肉厚で大ぶりな白い花弁はどうにも慣れ親しんだ花のようには見えない。花の正体が分かっていないのだから、中身のあの白茶けた塊が何かなんてもっと分からなかった。

「分かんないことだらけだなぁ」

祖母が大切にしていたものだから、という一点でこれを譲ってもらったに過ぎず、だからこれの所以も何も知らなかった。祖母はどうしてこれを大切にしていたんだろう。例えば誰か大切な人から貰ったものだったとか、譲り受けたものだとか、そういうものなのだろうか。

「生きてるうちに聞いておけばよかった…」

こんなことを言って何になるというわけでもない。死んだ人間は生き返らないし、もう話すことさえ出来ない。そう、普通なら、死んだ人間と話など出来るはずがないのだ。脳裏に過ぎったのは宇佐美のことだった。半年以上も当たり前のようにここに現れ、当たり前にナマエと意思の疎通をとる。
札幌で命を落としたという彼が、どうして東京のアパートに化けて出るんだろう。


順調に公演は進み、千秋楽の前日、いわゆる前楽と呼ばれる日のソワレ公演が終わった。今日は杉元がチケットを買ってくれている日である。客席をちらりと見れば、杉元が後方の席に座っていた。ガタイが良い方だから良く目立つ。
拍手の中でカーテンコールを終え、ナマエは舞台袖にはけて行った。杉元にロビー面会の話をしていたから恐らく待っているだろう。衣装を脱いでハンガーにかけると、Tシャツに着替えてパタパタとロビーへ急ぐ。
狭いロビーの中には見知った顔が大勢いた。懇意にしている他の劇団のメンバーや定期公演にずっと通ってくれている顔なじみのファンたちが、それぞれ劇団員たちと話をしている。

「あ、ナマエさん!」
「杉元さん!」

杉元がひらりと手をあげてくれたおかげてその中でも簡単に彼に辿り着くことが出来た。そばまで歩み寄ると、隣に猫のような目をした男が立っている。彼が杉元の友人だろうか。

「お疲れさま、めちゃくちゃ面白かった」
「今日はありがとうございます。楽しんでいただけて嬉しいです」
「セットのはずなのになんか景色まで見えてきちゃうっていうかさぁ、海辺を歩くシーンとかもう見えたもんな」

杉元は随分と気に入ってくれたようで、それからもああだこうだと公演のことを誉めそやした。ナマエは端役だから彼の誉めそやすシーンの殆どに出演はしていないが、自分の劇団のことを評価されるのは単純に嬉しかった。ひとしきり杉元が話し終えたところで隣の連れらしき男がフンッと杉元を鼻で笑う。

「お前に舞台芸術がわかるものか甚だ怪しいがな」
「尾形てめぇ人の感想にケチつけてんじゃねぇぞ」
「その乏しい語彙力で作品を評価しようなんて申し訳ないと思わんのか」

売り言葉に買い言葉という具合でぽんぽんと会話が進んでいく。知り合いであることは間違いないようだが、果たしてこれは友人の類なのだろうか。杉元が掴みかかりそうになり、流石にそれは不味いと割って入る。喧嘩をするならロビーを出てからにして欲しい。

「まぁ、まぁまぁその辺で…」
「あ、ごめんナマエさん」
「ハハッ、杉元佐一ィ、お前は人の迷惑もわからんのか」
「んだとクソ尾形」

鎮火したと思ったらまたふつふつ燃え始めた。これ以上は追い出されるに違いない。ナマエは多少強引に二人の背を押し、ロビーから一緒に外に出る。邪魔にならない廊下の端により、ほっと息をつきながら改めて杉元とその連れを見上げた。

「えっと、杉元さんのお友達さん?ですよね?」
「その表現には語弊があるが、概ねそんなところだ」

猫のような目をじろりとナマエに向けながら男が言った。隣で杉元がガルルルルと牙をむいている。

「今日は来てくださってありがとうございました。えっと…」
「尾形」
「あっ、はい、ありがとうございました、尾形さん」

言葉を引き継ぐように名乗る。彼は尾形というらしい。話によると、友人ではなく「腐れ縁だ」と訂正が必要か否かも分からない言葉が飛んできた。本来は白石を連れてくるつもりが、尾形が名乗りを上げて同行するという話になったらしい。

「今回の公演も中々好みだった」

尾形がオールバックに流した髪をナデナデと撫でつける。礼を言おうとしたが、その言い回しに少し引っかかった。「今回の公演も」ということは、今回のみならずインゴットの舞台を見に来ているということではないのか。

「ありがとうございます。あの、もしかして別の公演も見に来ていただいているんですか?」
「ああ、まぁ。黒い女の再々演はツレと一緒に見に来たぜ」
「そうなんですね!」

ナマエの声が跳ねる。杉元が「まさかお前に演劇の趣味があるなんてな」と言って、尾形が「普段は別のと来てんだよ」と顔を歪める。

「お前、新人なんだって?」
「あ、はい。今回の公演から正団員になったんです」
「ほぉ。なかなか悪くなかったぜ」

にやりと口角を上げた。かなり上から目線での言葉ではあるが、インゴットの公演を見たことのある人間からの言葉はそれ以上に嬉しさが勝つ。思わず顔が綻んだ。尾形は他に大きな商業演劇から小劇団の舞台まで様々見ているようで、あれこれと話すうちに時間が無くなってしまった。そろそろ戻らなければならない。

「あっ、ごめんなさい、そろそろ戻らないと……今日はありがとうございました!」

ナマエは駅へ向かって踵を返す二人を見送り、慌てて他の劇団員たちに合流したのだった。


千秋楽というものは何度迎えても達成感がある。スポットライトを浴びながら、ナマエは正団員として迎えた初めての舞台を無事終えた。
日曜日のマチネが千秋楽の回だったため、そこからは達成感もそこそこに撤収作業だ。これに関しては研究生として慣れたものだからさほど困ることはない。Tシャツとジーンズの動きやすい格好に着替え、小道具から大道具まであれこれと搬出していく。

「ミョウジさん、こっちの雑黒運んで!」
「はい!」
「ミョウジちゃーん、衣装のケース運んだー?」
「はい!バンに積みこんでます!」

正団員になれたことも勿論嬉しいけれど、こうして忙しなく雑用をこなしているのも悪くない。バタバタと動いていると吹く風の寒さも忘れてしまう。
撤収作業を終えると恒例の打ち上げだ。ナマエも当然それに加わり、帰宅する頃には時計の針がてっぺんを回っている。

「ただいまぁー」

ほろ酔い気分で戸を開ける。どうせ今日も宇佐美はいないだろう。最近ずっとだ。公演期間中はいつもと生活リズムが若干変わるということもあり、宇佐美が現れる時間に起きていることは出来なかったし、だからと言って宇佐美がいつもより早く現れることもなかった。

「うっわ、酔っぱらい」
「え?あれぇ?うさみくん?」

部屋の中から声がかかり、ナマエはトロンとした目で宇佐美を見上げる。そこにはいつも通りの軍装を身にまとった宇佐美が不機嫌そうな顔で立っていた。今日は出てきてくれる日だったのか。そう思うとどうしようもなく嬉しくて、緩んでいく顔を留めることはできなかった。

「うさみくんだ、わぁ、久しぶり、嬉しい、どうしよう」

酔ったせいでロクにまともな文章が組み立てられず、ぶつ切りの言葉がそのまま唇からこぼれていく。「さっさと部屋に入りなよ」と言われ、ナマエはいそいそ靴を脱ぐと、布団とローテーブルの間の定位置にぽすんと座り込んだ。今日はその向かい側に宇佐美も座っている。

「公演、今日までだっけ」
「うん、千秋楽でー、打ち上げも行ってきたよー」
「ああ、だからこんなに酔っぱらってるわけね」

ナマエは上機嫌で打ち上げでのことや公演のことを話した。打ち上げでは花形女優のマツオカにいたく褒められたこと、座長からも「よく頑張った」と言ってもらえたこと、公演期間中は緊張しながらも日々成長を感じ、ロビーで物販の対応をしている際に客からいい感想を貰えたこと。

「宇佐美くんにも見に来てほしかったなぁ」
「無茶言わないでよ、僕はここから離れられないんだからさ」
「だってー、杉元さんも見に来てくれたよー?面白かったって褒めてくれてー…」

締まらない滑舌のままナマエがそう話し、宇佐美は飛び出てきた言葉に「杉元?」と反応して名前を復唱した。キロランケのときと同じ反応だ。酔っぱらいのナマエにそこまでの気は回らず「杉元佐一さん。アムールの常連さんの友達みたいなひと」と杉元について簡単に説明をした。

「よくもまぁ、ナマエはよりにもよって変な奴とばっかり出会うよね」
「変って言わないでよぉ、いいひとだよ、杉元さん。この前はマフラー貸してくれてさぁ」
「あのオレンジのマフラー杉元のだったの?」
「そー。なんか柔軟剤っぽいさわやかーな匂いがしてさー、ぜーんぜん落ち着かなかったのー」

宇佐美の眉がぴくりと動く。もちろんナマエの視界にはそんなものは入っていなくて、引き続き杉元が美形で親切で親しみやすい人柄だということを話した。いくつも杉元を誉めそやし、そのたびに宇佐美の眉間に深いシワが刻まれていく。

「やっぱりさぁ、わたし、宇佐美くんの匂いのほうがすき」
「僕の匂い?」
「うん。お花みたいな、いー匂い」

へらりと笑ってナマエが向かい側に座る宇佐美を見つめる。不意を突かれた宇佐美はそのまま少し硬直して、真っ白な肌を赤く染めた。

「そういえばねぇ、杉元さんのお友達も来てくれたんだよ。演劇好きな人で、ああいう人に褒めてもらえるのはやっぱり嬉しいなぁ」
「それ、男?」

どうして性別をわざわざ聞いてくるのだろう。隠し立てすることでもあるまいし、ナマエは素直に「そうだよ」とそれを肯定する。訝し気な顔をしながら、宇佐美は何か少し考えるような素振りで顎に手を当てる。赤くなった顔はすっかり普段通りの真っ白である。

「一応聞いとくけど、名前は?」
「名前?は、えっとねぇ…尾形さん、ってひと」

ナマエが昼間の会話を思い出しながら答えれば、宇佐美はこれでもかというほど大きくため息をついた。なにかそうされる要素などあっただろうか。さっぱり分からない。

「ほんっと、ナマエは変な奴とばっかり出会うよね」

つい先ほども言われたばかりのことを改めて言い直され、ナマエはそんなにだろうかと首をかしげる。会ったこともない宇佐美がナマエの知り合いを「変な奴」と称するのもかなり横暴だろう。そもそもとして、幽霊に出会っていることが何より一番奇々怪々な出会いのように思えるが。







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