10 花道
11月に行われる公演の稽古が徐々に本格化し始めた。覚えることはいくらでもある。それに台本を読んでいるだけでは分からない距離感やテンポがあり、立ち稽古を初めてやっと気が付かされた。
「ミョウジさん、ちょっといいか」
「はいっ!」
稽古の半ば、休憩時間に座長に呼び止められた。ナマエは台本を確認する手を止め、座長の近くまで急いで走る。
「芝居で一番大切なものは何だと思う?」
「え?」
てっきり厳しいお叱りが飛んでくるかと思いきや、かけられたのはそんな言葉だった。大切なことはいくつもあると思う。その中で一番だなんて、何を選べばいいんだろう。
「その役を…理解すること、でしょうか」
「うーん、否定はしないけど、それじゃあ抽象的だな」
もっと具象的なものがあるのか。ナマエはじっと考える。うまく思い浮かばず黙ったままでいると、座長がさきに口を開いた。
「大切なのは距離だ」
「距離…」
「そう。例えばすぐそばにいる人に必要以上に大きな声で話したりしないだろうし、逆に遠くへ届けるためには大きな声を出す必要がある。簡単なことだけど、意外と躓きやすいところ。今のミョウジさんははっきり発声しようとしすぎて、ずっと道の向こう側にいる人に話しかけてるみたいに声が緊張してる」
座長の言葉を理解するためにゆっくり自分の中で噛み砕く。言われた通り、どんなときでもずっと大声で話すのは不自然極まりない。しかし呟くような言葉でも客席に届ける必要はあるし、演出として客席に語りかけるような場面もある。ようはそれらの塩梅をしっかり見極めなければならないということだ。
稽古のあとのアムールでの勤務を終え、最寄りの銭湯に寄って一日の汗を流す。帰路の途中、座長に言われた言葉を頭の中で思い浮かべた。距離感。確かに言われれば尤もなことだけれど、客席に伝わりやすく、かつ自然にというのは中々難しい。少しでも小さくなれば客席に聞こえないし、だからといって大きいままではわざとらしい。
「はぁ……」
ぷらぷらと鞄を振りながら歩く。もう秋も深まっていて、夜道は随分と冷えるようになっていた。マフラーを持ってこなかったのは失敗だったかもしれない。家に戻るまでにコンビニに寄って肉まんでも買おうか。
「あれ、ナマエさん?」
「杉元さん?」
「偶然だなぁ。もしかして家この辺?」
「あ、はい。杉元さんも?」
「いや、俺はツレの家に来てた帰りでさ」
コンビニに向かう方へ道を曲がろうとして声をかけられた。相手は杉元だった。彼はパーカーにマフラーをしてノースリーブのダウンを着ている。少なくとも家の近所を出歩くような格好ではなくて、そこで自分が風呂上がりだということに気が付いた。反射的にぱっと顔を顔を隠す。
「え?どうかした?」
「あ、いやその…今銭湯に行ってきた帰りで…お見せできる顔じゃないというか…」
ナマエの言葉を時間差で理解した杉元が「あ、ああ、あああ!」とまるで三段活用のテンポで声を上げた。相手が気にしていないことを自分から言ってしまうのはかえって自意識過剰で恥ずかしかったかもしれない。
「はは、確かに今日、ナマエさんいつもより幼い気がする」
杉元が少し覗きこむような動作をしてそう言った。初対面のときから分かっていたことだが、彼は随分な男前である。その彼にこんなことを言われると気恥ずかしいやらなにやらで心臓がぐっと詰まるような気がする。
「せっかく会ったし、家まで送るよ」
「そんな、悪いですよ」
「いいからいいから。どうせ俺も帰るだけだったし」
こんな時間に申し訳ない。あわあわと手を振って辞退をしようとすると、今度は杉元が「あ、ごめん、家についてこられちゃ怖かったよね」と言葉を撤回する。彼がそういう人間でないことは今までの付き合いで十分理解しているし、変に彼に対して警戒心を持っていると思われるのも本意ではない。
「あの、そういうのじゃないんですけど…本当にこんな時間に悪いなと思って。えっと、杉元さんのご迷惑でないなら……」
「まさか。迷惑なんかじゃないよ」
もだもだとしたやり取りののち、ナマエが厚意に甘えることにして、杉元も少しホッとしたような顔をした。家の方向を聞かれて西を指さす。杉元はナマエの歩調に合わせて歩き始めた。
「ナマエさんってこの辺出身なの?」
「いえ、北海道です。劇作家になりたくて上京してきて」
「北海道なんだ。いいよね、北海道」
上辺を滑るような世間話も、杉元の声音だと少しも不器用さのようなものを感じない。ナマエが「杉元さんはこの辺のご出身なんですか?」と尋ねれば「神奈川だよ」と返ってきた。
「神奈川ですか、都会ですね」
「そんなことないよ。ナマエさんは北海道のどのあたり?」
「私は札幌です」
杉元は北海道に行ったことがあるようで、あれこれと話を振ってくれた。小樽、夕張、旭川、根室、網走…。随分いろんなところに行っているようだ。こんなに広大な範囲となれば随分と日数もかかったに違いない。
「いろんなところに行かれてるんですね。私よりよっぽど北海道のこと知ってるかも」
「はは、そんなんじゃないよ」
ナマエは杉元と話しながら、実家のことを思い出した。家を出てから一度も連絡を取っていない。きっとナマエが音を上げて帰ってくると思っているのではないだろうかと思う。決定的に不仲だったというわけではないけれど、頭ごなしに夢を諦めるように言われるのは納得がいかなかったし、仮に札幌を出ないままでいたとしてもさほど良好な仲ではいられなかっただろう。距離を取ったからこそ俯瞰して見られるようになった部分があるのは事実だ。
不意に風がぴゅうっと吹き、頬のそばを冷気が駆け抜ける。ナマエは盛大にくしゃみと身震いをした。
「寒い?」
「え、あ、ちょっとだけ。今日マフラー忘れちゃって。持って来れば良かったなぁと…」
ナマエが「ははは」と笑いながらそう言えば、杉元は自分の巻いているマフラーをくるくる取り去ってナマエの首にかけた。
「良かったら使って。風呂上がりなら冷やすと余計良くないよ」
「えっ、でも杉元さんが寒いんじゃ…」
「ああ、俺なら平気。体温高い方でさ、ちょっと厚着だったかなって思ってたところだったから」
オレンジのマフラーはたった今まで杉元が巻いていたものだからほんのりと温かい。すんっと息を吸うとさっぱりとしたアクア系の香りが漂った。柔軟剤かなにかの香りだろうか。
ナマエは「ありがとうございます」と言ってから借りたマフラーをくるくる巻いていく。首元が温められるだけで随分と寒さは緩和された。
「ナマエさん、役者なんだよね?」
「一応…まだ何の実績もない卵ですけど」
「舞台とかやっぱり出るの?」
「はい。月末に所属してる劇団の公演があって、それに出させてもらいます」
杉元関心したように「すごいね」と言った。他意のない言葉だとは分かっているが、こうして褒められると気恥ずかしいものがある。同居人は一言多くて、こんなふうに手放しで褒めてくれることはない。
「その舞台ってまだチケット残ってる?」
「多分…昼間稽古場で確認したときはどの公演も空きがあったと思います」
「じゃあ買わせてよ。せっかくだし」
「えっ、いいんですか?」
それからチケットの残数や手配の連絡をするために連絡先を交換しようという話になり、ナマエのメッセージアプリに杉元の連絡先が追加されることになった。アカウント名は杉元でも佐一でもなく名前には関係のなさそうな「フジミ」になっている。
「フジミ?」
「あー、それあだ名みたいなもんっていうか…」
「はは、面白いですね。私もあだ名に変えようかなぁ」
そうは言ってみるも、メッセージアプリは劇団の関係者やアムールのスタッフなどとも連絡を取るものだから、あまりに妙なものにするのはまずいだろう。絵文字でもつけようかな、と思い付き、自分の名前の後ろにウサギの絵文字を追加した。
「ウサギ好きなのかい?」
きょとん、と杉元が尋ねる。目の前でこうして追加したのなら聞く流れになって当然だ。ウサギのことは特別好きというわけではない。どうしてウサギの絵文字にしたんだろう。少しだけ考えて、すぐに答えに行きついた。
「そうですね……好き、です…」
思い浮かんだのはもちろん同居人の顔だった。きゅるりと大きな目、つんと尖った唇、血色のよい目元、そして何より言葉の語感。ウサギと言われて思い浮かぶにあまりある。
そんな話をしているうちにアパートのそばまで辿り着き、ナマエは杉元に重々礼を言って金属製の外階段を上った。暗かったから見えてしまっていないとは思うけれど、顔は真っ赤になってしまっていた。
「た、ただいま…」
いつもより緊張しながら部屋の中にそう声をかけたが、今日も「おかえり」は返ってこなかった。この頃は出迎えてくれることが少なくなっている気がする。心臓をドキドキさせながら帰宅して、彼がいないことがホッとしたような残念なような、なんとも言い難い気持ちになった。
「あっ!マフラー!」
焦り過ぎて杉元にマフラーを返すのをすっかり忘れていた。急いで部屋の外を見に行ったけれど、彼の姿はもうどこにもない。とりあえずメッセージで謝っておこう、と部屋に戻り、マフラーを丁寧にハンガーへかける。
「あー、焦りすぎでしょ…」
一番最後のウサギの話であまりにも焦り過ぎた。自分の想像よりも彼は自分の中に根を張っていて、それにこんなタイミングで気付かされてしまった。部屋の中をぐるりと見渡す。杉元のマフラーはかけているだけでこんなにも違和感を与えているのに、宇佐美の痕跡はひとつもない。当たり前のことだった。彼は幽霊で、実体がなくて、この世のものではない。
「幽霊、か……」
知っているはずのことをもう一度言葉にした。この世のものではないから、ナマエしか存在を知る者はいない。むしろ、存在をしているかどうかだって、証明しろと言われれば不可能に近い。ナマエは布団とローテーブルの間の定位置にぽすんと腰を下ろす。
例えば、例えば宇佐美が人間だったころのことを何か知ることが出来れば、自分の幻覚なんかじゃないと少しくらい安心できるのだろうか。
「宇佐美くん、今日は来ないのかな」
未だに宇佐美が出てくるタイミングや時間は謎のままだった。気が付いていないだけで何か規則性があるのかもしれないし、そもそもそんなものはないのかもしれない。いつもの自分の部屋の洗剤やら柔軟剤やらの匂いのなかに、杉元のマフラーから香っているだろう爽やかな香りが混ざる。それがどうにも落ち着かない。
そう言えば、宇佐美が現れるときには甘く馨しい花の香りのようなものが漂っている気がする。あれは何の香りなんだろう。宇佐美に聞けば分かるだろうか。
宇佐美が来るかもしれないからもう少し待ってみよう、と試みるも、思いのほか疲労がたまってしまっていたのか、降りてくる瞼の重さに耐えきれなくなった。布団のそばにころんとうずくまるかたちで、結局ナマエは眠ってしまったのだった。
夜半。彼は影から徐々に姿を現した。今日も変わらずに軍衣を身にまとい、室内というのに軍靴を履いたままだ。
「あー、もう寝ちゃってるか…」
宇佐美はそう溢し、布団のそばでうずくまるようにして眠るナマエを見下ろした。今夜も変わらず気の抜けた寝顔を晒している。しかし夜は冷え込むというのにこのまま眠ってしまえば風邪をひくに違いない。彼女に触れることは出来ないから、宇佐美は掛け布団の方をずるずると動かしてナマエの上にそっとかけてやった。
「フフ、馬鹿づら」
深い眠りに落ちてるから、いくら至近距離で宇佐美がそんなことを言おうと瞼を動かす気配すらなかった。
宇佐美は鼻につく違和感を感じ、部屋の中を見回す。元凶はすぐに分かった。ハンガーにかけられた男物のマフラーだ。
ふよふよとそのそばまで移動し、それをじっと観察する。ナマエはこんなマフラーを持っていなかったはずだ。貧乏がゆえに彼女の衣服は基本的に貰い物で構成されているが、貰ったにしてもこんなにあからさまに男の匂いがするものだろうか。借り物だと考える方が自然だし、そうでないなら意図して渡したとしか思えない。
「はぁ、ホントに、人の気も知らないでさ」
盛大にため息をついてナマエの元に戻った。彼女はすやすやと寝息を立てている。つんっと額を突いてやったけれど、もちろんナマエに触れることは出来なかった。
「んんぅ……うさみ、くん……」
名前を呼ばれてどきりと彼女の顔を注視する。瞼は当たり前に閉じられていて、どうやら寝言のようである。まったく間抜けな顔をして、どうしてこんなことになってしまったのか自分でも説明が難しい。部屋の中には花の香りが溢れた。