09 外連


すっかり秋が深くなり、朝晩は特に冷えるようになった。
午前9時、ナマエはいつも通り起床し、ぐぐぐっと伸びをする。薄っぺらいカーテンの隙間から光が差し込んだ。今日は稽古がないので、カフェタイムにアムールのシフトが入っている。

「……宇佐美くん、朝はいないんだよね」

四畳半の部屋を注意深く見回してみても、宇佐美の姿はどこにもない。昨晩はいつものようになんだかんだと話をしていたけれど、朝になればまるですべて夢だったかのように痕跡はなくなってしまった。はじめの頃は不思議だなとくらいしか思わなかったけれど、それが今は寂しく思えた。
ふと、視界の端に先日見つけ出すことのできた祖母の遺品の根付が目に入る。祖母は家族の中で唯一劇作家になる夢を応援してくれたひとだった。もちろん、反対した両親の気持ちがわからないわけじゃない。なれるかどうかもわからず、しかもなれたとしても非常に不安定な仕事だ。心配すればこそ反対するのはひとつ当然のことだった。

「……お母さん、電話してみようかな」

意固地になってしまっていたのもあって、最終的に喧嘩別れのように家を出てきた。あのころはピンとこなかったけれど、離れて暮らせば暮らすほど両親の気持ちは理解できるような気がした。
ナマエは布団を畳んで隅に追いやり、根付を眺める。乳白のそれには大きな花びらを持つ花が描かれているが、これがどんな花なのかはわからない。

「あれ……」

さすさすとさすっていると、真ん中のあたりに切れ目があることに気が付いた。まるでそこから開くように見える。もしかして、ぐっと力を込めると、それはゆっくり上下にひらいていった。

「なんだろう、これ…」

中に納められていたのは指一本分ほどの白茶けた塊だった。ナマエはそれを摘まみ上げ、四方八方からぐるりと観察してみせる。ざらざらとした質感で、強く握るのは壊してしまいそうで少し怖い。ふんわりと花のような香りまでする。
祖母の大事なものだろうか。形見の根付に隠すように保管されていたのだから、きっとそうに決まっている。

「……しまっとこ」

ナマエは白い塊を根付の中に戻し、上下を合わせてぴったり蓋をした。白い塊は綺麗におさまっているのか、振っても少しも音はしなかった。道理で今日まで気付かなかったわけだ。


アムールに出勤し、申し送り事項に目を通してから店頭に立つ。バータイムの出勤が多いから、日中は何か新鮮な気分だった。ホールを見渡し、それぞれのテーブルの状況を確認する。窓際の席を思わず二度見したのは、そこに鏡合わせのような双子の客が座っていたからだった。
二人とも坊主頭でパーカーにジーンズと同じ格好をしていてもう見るからに一卵性双生児だとわかる。来店してすぐなのか、テーブルの上にはなみなみと水の注がれたグラスだけが乗っている。

「7番お願いしまーす」
「はい」

キッチンから声がかかる。7番というのはあの双子のテーブルだ。どうやらケーキセットを頼んでいたらしい。ナマエはトレイにドリンクとケーキの皿をのせ、早速7番テーブルに向かう。ケーキセットは両方ともオレンジジュースにミルクレープだった。

「だから宇佐美がさ…」
「お待たせいたしました。ケーキセットでございます」

テーブルにつくと、そう常套句をかける。右側の男が言葉を切り、ナマエは二人の前にそれぞれオレンジジュースをミルクレープをサーブした。
にっこりと営業スマイルを保ってはいるが、一瞬心臓がどきりとした。宇佐美。確かに今そう聞こえたからだ。

「ご注文は以上でお揃いでしょうか?」
「あ、ハイ」
「ごゆっくりお過ごしくださいませ」

ナマエは軽く会釈をしてテーブルを離れた。双子はまた会話を再開し、その中にもやはり「宇佐美」という人物が登場した。
明らかに考えすぎだ。この世に「宇佐美さん」なんて何人いると思っているんだ。しかもナマエの部屋にいるのは幽霊なのだ。彼の話をする人間がこんなところにいるはずがない。

「あー、やば。考えすぎにもほどがある……」

誰にも聞かれないようにそっとそう溢した。このところ、こうして宇佐美のことを考える時間が多くなっている。そりゃあ、幽霊なんて非科学的な存在を目の前にして何も考えない方がおかしいとは思うけれど。

「2番お願いします」
「はい」

駄目だ、仕事に集中しないと。キッチンから配膳の声がかけられたので、ナマエはまたトレイにドリンクを乗せ、該当のテーブルへと運ぶ。聞き耳を立てるのはよくないとは分かっているけれど、双子の近くを通るときにはどうしても会話に耳を澄ませてしまった。彼らの会話の中にはやはり「宇佐美」という人物がよく登場しているようだった。


双子の客は二時間弱店内に滞在し、何ごともなく会計を済ませて店を出て行った。立ったときの背格好までまるで同じで、これがもし知り合いなら自分は見分けられない自信があった。
午後三時を過ぎたころ、小さくドアベルが鳴って客の入店を知らせる。いらっしゃいませの常套句を口にしながら入口を見れば、浅黒い肌の美丈夫と控えめな身長の坊主頭の男が入店したようだった。

「いらっしゃいませ。カウンター席でもよろしいですか?」
「ああ、構わない」

あいにくテーブル席が満席で、ナマエは二人をカウンターに案内する。美丈夫の方は本当に美形で、モデルかなにかかも知れないなと勝手に頭の中で憶測を並べる。土地柄、いわゆる有名人の客はそこそこ来店した。美丈夫はダージリンを、坊主頭の男はアメリカンを注文する。

「月島、例の件だが……」
「予定通りに進んでます。人数もそこそこ集められましたし、問題ないかと」
「はぁ……はやり少し緊張するな…」

月島と呼ばれた明らかに年嵩の男の方が敬語を使って話していて、それが少し特徴的だった。美丈夫はなにか心配事でもあるのか、月島に向かってああだこうだしきりに何か心配しているようだ。流石にカウンター席だと会話が聞こえてきてしまう。

「二階堂たちはまだか?」
「もう待ち合わせ時間のはずですけど、見当たりませんね」

月島はきょろきょろと店内を見渡した。まだ待ち合わせをするつもりならカウンター席へ案内するのは不味かっただろうか。いや、構わないと言われてしまった以上どうしようもないことなのだけれど。

「あいつら…前の待ち合わせの時も勝手に違う店に行ってたからな…今回も食べ歩きがしたいとか言って勝手に場所を変えてるんじゃないか?」
「まぁその可能性は否めませんが…メッセージ既読になりませんね」

ナマエはてきぱきとドリンクの準備を進めた。二人分のドリンクを作り終え「お待たせしました」と言う言葉とともにカウンターの内側からサーブした。

「すみません、少しお伺いしたいんですが」
「はい?」

ごゆっくりどうぞ、と言って離れようとすると、月島がナマエを引き止めた。

「この店に今日双子が来ませんでしたか、坊主頭の、20代前半くらいの…」
「え、ああ、いらっしゃいましたよ。そっくりの……もう帰られましたけど…」
「やっぱりあいつらッ」

尋ねられたのはあのそっくりな双子のことだった。ナマエの返事を聞いて苦い顔をしたのは美丈夫のほうだ。待ち合わせはあの双子だったのか。

「仕方ありません、鯉登さん。居酒屋の予約時間までありますし、その間に二階堂たちを探しましょう」
「奴らだけで済むか?はぁ…やはりもう少し早く店に着いておくべきだった」
「仕方ありませんよ、鯉登さん飛行機ギリギリだったでしょう」

自分の役目がもう終わったのか否かが判断できず、曖昧に笑ったままナマエは2人の会話を聞いた。このカフェで待ち合わせてどうのという話ではなく、さらにこの後居酒屋に行くような口ぶりだった。

「そもそも宇佐美はどこだ?このカフェ指定したのはあいつだろう」
「まぁそうですけど……」

宇佐美。またしても出てきたその名前にどきりと心臓が鳴る。あの双子とこの2人が知り合いということは、会話に出てくる「宇佐美」という人物は同一人物なのだろう。

「すみません、助かりました。待ち合わせをしていたヤツらが勝手に先に行ってしまったみたいで」
「そうなんですね。えっと、飲み会か何かですか?」
「ええ、昔の知人と集まろうという話をしてまして」

宇佐美という人物について興味はあったけれど、それよりもほぼ社交辞令のように月島に尋ねる。宇佐美という男もその一員なのだろうか。いずれにせよそれ以上踏み込んだことを聞くわけにもいかないし、そこで「そうなんですね、ごゆっくりお過ごしください」と言って会話からフェードアウトする。かちゃかちゃと食器類の整理に取り掛かれば、数分で月島が口を開いた。

「あ、二階堂から返信ありました」
「どっちだ?」
「洋平です。近くのゲーセン行ってるみたいですね」

月島の返答を聞き、鯉登は大きくため息をつく。どうやらあの双子は2人を待たずにゲームセンターへ繰り出してしまったらしい。

「宇佐美はどうしますか」
「あいつは店の場所まで迷わんだろう。二階堂たちの確保が先だな」
「わかりました。連絡入れときます」

月島と美丈夫━━鯉登はカップの中身を飲み干し、身支度を整えて会計を済ますと、おそらくあの双子を確保するために忙しなく店を出て行った。もしかしてここで集合なのなら宇佐美という人物に会うことができるだろうかと思ったが、盗み聞きしたあの様子ではこの店には来ないかもしれない。

「…せっかくならどんな人か見たかったな」

せっかくが何のせっかくかは置いておいて、宇佐美なる人物がどんな人だったか見れなかったのは残念だ。月島と鯉登が使っていたカウンターを掃除しようと振り返ると、そこにパスケースが忘れられているのが目に入った。

「あ、これ忘れ物…!」

パスケースを手に店先まで出て2人の姿を探す。丁度大通りの交差点の手前に姿が見えて、ナマエは慌ててバックルームにいる先輩に忘れ物を届けてくる旨を報告すると店を飛び出した。幸い信号待ちで足止めされていたようで、2人の姿はまだそこにあった。

「すみませーん!えっと…月島さーん!」

追いつく前に信号が青に変わってしまうと思い、ナマエは思い切り声を出した。稽古仕込みの発声はよく通って、月島はすぐに呼ばれていることに気がつき振り返る。

「あ、あの!これ…!」

はぁはぁ息を切らせながらパスケースを差し出す。これは鯉登のものだったようで、彼はジャケットをパタパタと触って自身のパスケースの不在を確かめた。

「すまない。助かった。わざわざ届けてくれてありがとう」
「いえ、間に合ってよかったです」

信号を渡って雑踏に混ざってしまっていたら正直見つけられるか怪しかった。そうなれば警察には届けるけれど、ここで渡せた方が手間も少ないしかかる時間も短い。

「それじゃあ失礼します」

ナマエはぺこりと頭を下げ、店までの道のりを戻っていく。人波とすれ違い、どこからかふんわりと芳しい花の匂いを感じた。あまりにもいい匂いだったのでどこかに花が咲いているのだろうかとあたりを見回してみたけれど、いつも通りビルがあるばかりでどこにも花は咲いていなかった。


カフェタイムからシフトに入っていたから、いつもより少し早い時間に帰宅した。ただいま、と声をかけても宇佐美の「おかえり」は返ってこなかった。今日は出てこない日なんだろうか。
冷蔵庫の中身を適当に炒めたものをおかずに夕飯をとる。いつもならアムールで賄いをもらうか、家で食べるときは宇佐美が一緒にいた。1人で食べるのは少し味気がないような気がする。

「いただきまーす………しょっぱ…」

塩加減を間違えて、何だかしょっぱく出来上がってしまった。ぎゅっと眉間に皺を寄せても「馬鹿だね」と笑われないから部屋の中は静かだ。
もったいないことにするわけにはいかないので塩辛い炒め物をそのまま誤魔化しながら平らげ、狭っ苦しい流しで食器とフライパンを洗う。

「台本台本っと」

次回公演の台本を引っ張り出し、頭から読み進める。もちろん何度も読み込んでいて、角にくるりと癖がついてしまっていた。自分の役以外のセリフもぶつぶつと音読し、全体の流れを頭の中に叩き込む。
演劇は想像力だ。観客にはそこに存在しない景色を見せ、架空の人物の人生を生きる。没頭しているうちにどんどんと時間は過ぎていった。

「ここは…どんなふうになるんだろう…やっぱり相手がいないと難しいな……」

対話のシーンは難しい。今読んでいるのは主人公と恋人の会話のシーンで、ナマエの出演シーンではなかった。しかしもし自分がこの役を与えられたら、と想定して想像を膨らませていく。

「どのくらいの間がいいんだろう。ハコの大きさからして立ち位置はそんなに離れないだろうからボリュームは絞った方がいいのかな」
「ハコって何?」
「ハコっていうのは劇場のことだよ」

1人きりのはずの部屋の中に声が飛んできて、反射的に答えた後にバッと顔をあげる。いつの間にか宇佐美が出てきていた。

「宇佐美くん、いつの間に来たの?」
「ついさっき」

時計を見るともうてっぺんを回って一時間半経過している。今日は本当に遅いご登場のようだ。宇佐美が「読み合わせやる?」と提案して、ナマエは「お隣さんから壁ドンされそうだからやめとく」と丁重にお断りをする。

「あ、今日ね、アムールで面白いことがあったの」
「ふぅん。どんな?」
「お客さんがね、宇佐美さんって人と待ち合わせしてたんだ。まぁ、結局その宇佐美さんはアムールには来なかったんだけどさ」

ナマエは今日の出来事を早速報告する。宇佐美は大きな目をにゅっと笑わせた。

「その宇佐美さんは、僕よりいい男だった?」
「だから来てないんだってば。せっかくだったらちょっと見てみたかったなぁ」
「なんで?」
「宇佐美ってそこまで変わった名字じゃないでしょ?でも私、知り合いに宇佐美さんって人、宇佐美くんしか会ったことないから」

とは言っても、興味本位という言葉以上の意味はないけれど。件の「宇佐美さん」は結局男だったのか女だったのか。勝手に想像しようとしても、目の前の宇佐美のイメージが先に出てきてしまうから、どうにも想像出来ないままだった。







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