08 香盤


花形女優マツオカの復帰により少し伸びるかと思われた正団員の話は、思いの外とんとん拍子に進んでいった。早速次の公演から役をもらえることになり、ナマエは浮ついた気持ちで座長からの話に頷いた。

「今までとは勝手が違うこともあると思うから、何かあったら迷わず相談してほしい」
「はい!よろしくお願いします!」

インゴットの正団員の基準というのは、この辺りに居を構える規模の劇団としてはかなり厳しい。期間を経れば自動的に、ということはなく、正団員になるためには通常オーディションがある。ナマエに関してはオーディション自体も行われたが、それより先にマツオカの降板によって急遽舞台に立つことになり、むしろこちらが決め手だったと言える。

「次の公演、期待してるよ」
「はい!」

ナマエは「じゃあ」と立ち去る座長にもう一度深く頭を下げる。裏方の仕事も勉強させてもらったから、ここからはいち役者としての視点を吸収しなければ。座長の言う通り、役者としての経験は劇作家にとって必須だなと、話をされた当時より克明に感じるようになっていた。


正団員に上がるからと言って、アルバイトは辞められない。正団員になることによって公演のギャラが発生するだけであって、稽古期間などは今まで通り無給である。しかも、劇団内の選考から漏れれば役をもらえない可能性だってある。その場合ももちろんノーギャラだ。

「おはようございます」

そう言うわけでもちろんのこと、ナマエはアムールに出勤した。今日は日中にみっちり劇団の用事があったため、バータイムのみの出勤だ。

「おう、おはよう。防犯ベルちゃんと持ってるか?」
「はい。すみませんご心配おかけして…」

バックルームでキロランケがシフト表を作っていて、少し軽い口調でそう声をかける。心配は本心だが、あまりナマエに深刻に伝わりすぎないように配慮しているのだろう。

「ま、俺には防犯ベル買ってやるくらいしかできないからな。何かあったらすぐに電話しろよ」
「ありがとうございます」

ストーカー被害はあれから成りを潜めている。宇佐美の対応が効いたのか、家の周囲どころか劇団最寄りの駅でも見かけなくなった。まだ気は抜けないと思うが、当面の間悩まされることはないだろう。

「……結局どうやって撃退したんだろ」

更衣室でぽつりとひとりごちた。宇佐美にはあの日布団を被って引っ込んでろと言われてしまって、結局どんな対処をしてくれたのか聞いてはいなかった。何か悲鳴のようなものは聞こえたと思うけれど、ナマエも気が動転していてそれが事実であるかどうかさえ正直あやふやである。
制服に着替えてエプロンを纏うと、そのままタイムカードを押してホールに出る。まずは空いている席の確認や清掃だ。

「いらっしゃいませ」

ドアベルが鳴り、すぐにその常套句を口にする。出入り口に視線を向けると、白石と杉元が立っていた。顔を合わせるのは駅前で助けてもらったとき以来だ。

「お、ナマエちゃんじゃん」
「白石さん、杉元さん、いらっしゃいませ。テーブルにしますか?」
「いや、カウンターで」

それに「かしこまりました」と相槌をうち、2人をカウンターに案内する。ドリンクのオーダーを聞いて一度カウンターの中に引っ込むと、杉元と白石の声を聞きつけたキロランケがバックルームからヌッと顔を出す。

「白石、お前タダ酒は飲ませねぇぞ」
「キロちゃんひどぉい。俺がいつも一文なしみたいな言い方してぇ」
「実際そうだろ」

白石の反論をバッサリと杉元が切った。気心の知れたテンポのいい会話に思わずくすりと笑いが溢れてしまいそうだった。

「ふっふーん。でも今日の俺ちゃんは一味違うぜ?」

白石が得意げにそう言い、キロランケと杉元が顔を見合わせる。ナマエはちょうどハイボールとスクリュードライバーの準備を終えたところで、会話を邪魔してしまわないようにそっと2人の前に配する。白石がスクリュードライバー、杉元がハイボールだ。

「勝っちゃった」

たっぷりと溜めてから語尾にハートをつけるように白石が言った。キロランケと杉元は何のことかすぐに察したようで、2人揃って「えっ!」と短く声を上げた。ナマエは一体何に勝ったのか、と内心首を傾げつつも自分が突っ込むことでもないだろうとカウンターの奥に引っ込む。
そのうちにバータイムは中々の盛況になっていって、三人の賑やかに話をするカウンター席に寄り付くタイミングはほとんどなかった。

「ナマエちゃーん、オーダーいい?」
「あ、はい!」

ピークタイムをすぎた頃、まだ飽き足らず飲んでいるカウンターの白石がオーダーのためにナマエを呼びつける。白石の第一印象はキロランケから言われた万年ヒモのプー太郎であるが、今日は随分気前よく飲んでいた。

「えっとねぇ、レッドアイとぉ…杉元なんにする?」
「あー、じゃあハイボール」
「好きだねぇ。じゃあナマエちゃん、レッドアイとハイボールで」
「はい。かしこまりました」

オーダーを手元に控え、カウンターの中でドリンクの準備をした。白石は比較的なんでも飲むようだが、杉元はほとんどハイボールばかり飲んでいる。グラスにウイスキーを注いで炭酸水を用意して、としていると、カウンターの白石と杉元の会話が漏れ聞こえてくる。

「おい白石。飲むのはいいけど俺に返す分は残ってるんだろうな?」
「えっ、アッハハ…いやぁ、そのぉ……」
「お前…まさか競馬で勝った分今日の酒代で全部溶かすつもりか?」

じとっとした杉元の声が白石をねめつける。それから逃れるためにまた白石は「アハハハハ」とわざとらしく笑ってみせたが、もうその時点でそれこそが答えである。杉元はすかさず白石のグラスを取り上げると、今度はナマエに向かって声を投げた。

「ナマエさん、もうレッドアイ作っちゃった?」
「えっ、まだですけど…」
「じゃあ悪いんだけどキャンセルしていい?人に金返さないような奴に飲ませる酒はねぇからさ」
「おいおいおい杉元ぉ!」

情けなく白石が縋りつき、果たして杉元の言うことを聞いていればいいものなのかとわからずに逡巡していると隣からキロランケが顔を出して「水にしとけ水に」と問答無用で白石の前にグラスを置く。
くぅん…とまるで叱られた犬のような声を出しながらグラスを両手で持つ白石がおかしくって、思わずくすくすと少し笑った。

「ふふ、仲良いんですね」
「腐れ縁だよ」

ハイボールのグラスを配すれば、少し呆れたような口調で杉元が言った。白石が今度はキロランケに向かって「キロちゃぁん」と泣きついている。
気が付けばもう随分夜も更けてきており、客足はゆっくりと少なくなっていった。こんな具合になると普段なら話し声よりBGMの方が目だって聞こえるくらいなのだが、今日はカウンター席が賑やかなおかげでそうという感じもない。

「ナマエさんこんなに遅くまで働いてて帰り大丈夫?家この辺なの?」
「終電間に合う時間に上がらせてもらってますよ」

心配そうに尋ねてくる杉元にそう言うと、少し訝し気な顔をした。通勤は電車で最寄り駅からは徒歩であるが、特別これを不便と思ったことはない。黙ったままの杉元をちらりと見ると、今度は白石が口を開いた。

「あー、杉元心配してんだよ。ナマエちゃんほら、この前あんなことあったから」

あんなこと、と言われ、すぐにそれが駅前で助けて貰ったことなのだと気が付いた。確かにあのストーカー被害が続いていたら自転車の購入も視野に入れていたことだろうと思う。実際はあの日宇佐美が撃退してくれたことでストーカー被害はなりを潜めている。それに時給だとかシフトだとかを考えるとバイトを変えるのも難しいのだから、時間が遅くなる点というのはどうしようもない。

「そんなに心配なら杉元が送ってやればいいじゃん」

またも口を開いたのは白石で、思いもよらない提案にナマエは「えっ!」と短く声を上げた。キロランケが「そりゃいいな」と同調する。

「もう上がりの時間だし、こいつらに送っていって貰えよ」
「いや、そんな悪いですよ!」
「俺も心配なんだよ。車で近くまで送っていけりゃいいが、毎回そう言うわけにもいかないからな」

キロランケがそう言って、あれよあれよという間にナマエを送る方向で話がついていく。結局流石に電車に乗ってまでは申し訳ないと新宿駅までという意味があるんだかという距離を送ってもらうことになり、ナマエは白石と杉元に送られて新宿駅からの終電に乗り込んだ。途中、自分が役者の卵であることを伝えると白石なんかは「今のうちにサイン貰っとこうかな」なんて気が早すぎることを言うから、ナマエは苦笑しながらやんわりとそれを断ったのだった。


最寄駅からアパートまでの道のりを歩く。ルーティンワークのように深夜営業の銭湯に寄って、アパートの外階段を鳴らしてしまわないようにそっとそれを登った。

「ただいまぁ」
「おかえり」

いつものやり取りで宇佐美に迎え入れられる。もう随分と。彼が同じ部屋にいることが当たり前になっていた。荷物を置き、手洗いうがいをしてローテーブルの定位置に座ると、宇佐美もいつも通り向かい側の定位置に腰をおろす。

「なに、やけに機嫌いいね」
「うふ、ふふふ、わかる?」
「気持ち悪。そんなにあからさまならすぐにわかるよ」

宇佐美はげぇっと口を歪めてそう言った。容赦のない物言いだが、その実、彼がとても優しいことはよく心得ている。ナマエはだらしない頬を元に戻すこともなく、へらへらと緩み切った顔のまま報告した。

「私、正式に正団員になれたの!」
「へぇ、良かったね」
「今度の公演も役貰えるって!端役なんだけどね、今度は代打じゃなくって正真正銘私の役!」

宇佐美は嬉しそうにそう言うナマエを見つめる。ナマエはその視線に気付くこともないまま、次の公演の内容だとか自分の役どころがどうだとかという話を熱心に続ける。宇佐美はそれに「うん」だとか「へぇ」だとかと、一見すると興味のなさそうにも聞こえる語彙で相槌を打っていく。相槌が途切れることは一度もなかった。

「キロランケさんもシフト融通してやるから遠慮なく言えよって言って貰えたし、バイトのシフトはやっぱりちょっと減らさないと稽古難しいからさぁ」

今までは容赦なくシフトを入れてくれるよう頼んでいたが、正団員の稽古期間中はそうともいかない。遠慮なく言えと言ってもらえるのは非常にありがたいことだった。宇佐美はそこで初めてペースを乱されたように相槌を忘れ「キロランケ?」と復唱する。

「ねぇナマエ、キロランケって?」
「え?ああ、アムールのオーナーだよ。本名だって言ってたけど謎なんだよねぇ」

耳慣れない言葉に反応したのだろうとナマエはそう説明する。すると宇佐美はどこか得心のいったような顔をして「アムールのキロランケか」と独り言のように言い直した。何か引っかかるくらい生前の宇佐美に縁の深いものでもあったのか。

「どうかした?」
「いや、別に」

気になって尋ねても宇佐美が正直に教えてくれるはずもなく、そんな一言でいなされてしまった。拗ねたように唇を尖らせてみるけど、そんなものが宇佐美に効いた試しなどない。ナマエの顔を見て宇佐美が「馬鹿づら」と言って笑った。

「宇佐美くん意地悪だなぁ」
「そういうんじゃないってば。ナマエには説明できることがないだけ」

言葉は突き放すようだが声音は柔らかく、それが余計に宇佐美とナマエの距離を知らしめているようだった。宇佐美はもう110年以上も前に死んだ人間なのだ。彼から語られること以外に彼を知るすべはないし、語られたとしてそれらを裏付ける証拠なんてもちろんひとつもない。

「拗ねてるの?」
「べつに。宇佐美くんのこと何にも知らないなって思ったの」

明治時代の軍人であったこと、小隊では上等兵だったこと、日露戦争に出征して死線を生き抜いたこと、鶴見中尉という上官を厚く慕っていること、スパイのようなものをしていた経験があること。並べれば沢山知っているような気になるけれど、もっと本質的な、彼の奥底に触れるようなことは何も知らない。
ナマエがそれ以上黙ると、宇佐美はフフフとまた愉快そうに笑う。

「ナマエ、そんなに僕に興味があるんだね」

きゅるんとした目は三日月形になって、唇も緩やかに弧を描いた。同じようなことを数カ月前にも言われたと思う。そのときは少しも気にならなかったのに、今はその声音にどこか少し心臓が握りしめられるような気分になった。







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