08 Chocoholic


夏油先輩のことをを知りたい。知ってしまえばきっと好きになるのだろうと、なにか確信めいたものを感じている。
誰かを知るということは、同時に自分を曝け出すということだ。そう思うと、少しだけ怖いような気持ちにもなる。

「ミョウジ、出しっぱだけど」
「えっ、あ!すみません!」

硝子先輩に指摘され、慌てて共用洗面台の蛇口のハンドルを捻った。自分でもわかるほど最近浮ついていて、気をつけなきゃと思うのに一向に改善しない。


もうすぐバレンタイン、という空気は、どことなく町全体を浮足立たせて空気を甘く変える。空気が甘いというのは半ば比喩ではなく、実際にチョコレートをはじめとする季節限定のスイーツが各所に出回るからという側面もある。
ナマエは学生が出払っている日を見計らい、寮母の許可を得て食堂の大きなキッチンの前に立った。

「うーん、結局ガトーショコラが無難?」

レシピサイトを検索してチョコレート系のスイーツの作り方を調べたのが二週間ほど前。まさにピンキリというやつで、簡単なものか上級者向けのものまで様々だ。もちろん、上級者向けのレシピで作るのは無理がある。何せナマエはバレンタイン以外には年に数回気まぐれでパウンドケーキを焼けばいい方なのだ。

「よし。失敗したくないしやっぱりガトーショコラにしよう!」

材料も時間も有限だ。難しいものに挑戦して失敗するよりは無難なものにしておいた方が材料も無駄にならないというものである。
ガトーショコラの作り方は簡単だ。卵を卵白と卵黄に分け、ミルクチョコレートは刻んでおく。薄力粉とココアパウダーをあわせて振るい、刻んだチョコレートを湯せんで溶かしていく。そこにバターを加えて混ぜ合わせる。
別のボウルに卵黄と砂糖を入れてハンドミキサーで白っぽくなるまで混ぜたら、溶かしたチョコレートを少しずつ加え、そのあとに振るい合わせた粉類も混ぜる。
また別のボウルに卵白と塩を少々入れて、角が立つまで混ぜてメレンゲを作り、先ほどのチョコレート生地へ切るようにして混ぜる。それを170度に予熱したオーブンで30分程度焼けば完成である。

「えっと、今度は粉入れればいいんだよね…よ、っと…」

プリントアウトしたレシピを都度確認しながら工程を進めていく。言葉にすると長いが、ようは順番通りに混ぜればいいのだ。もちろん出来の良し悪しは使う材料と工程のテクニックに左右されるところはあるが、生焼けにでもならない限り食べられない出来にはならないのがガトーショコラの良いところである。

「はぁー、ハンドミキサーありがたいなぁ。これないとメレンゲなんか詰むでしょ」

ナマエはハンドミキサーを手に盛大に独り言をこぼした。中学生のころハンドミキサーを使わずにすべてを手作業で作ったことがあるが、あの時はロクにメレンゲが泡立たなかった。そのために膨らまずに見栄えの悪く出来上がったガトーショコラのことをよく覚えている。

「んしょ…で、ここから型に流し込んで……」

ボウルを傾け、クッキングシートを敷いた焼き型に生地を流し込んでいく。生地が均等にならされているのを確認したら、予熱で温められているオーブンの中にそっと運び入れる。
よしよし上手に出来てくれよ、と念じて扉を閉め、焼いている間に使った調理器具を洗っていく。
たった30分とわかっているけど焼き上がりが待ち遠しくて、何度もオーブンののぞき窓からガトーショコラの様子を確認した。

「あ、ミョウジ。ここにいたんだ!」
「灰原くんおかえり。早かったね?」
「うん。七海と行こうって言ってたお店が改装中でさぁ。早めに切り上げて帰ってきたんだ」

今日は灰原と七海の二人でスポーツ用品店を回ると言っていた。ナマエも誘われたが、バレンタインの試作をしたいこともあって寮に残っていた。
灰原がくんくんと鼻を動かし「なんか甘い匂いするね!」という。ずっとキッチンに立っているナマエにとってはそこまで濃く感じられなかったけれど、外から返ってきた灰原からしたら随分強く香るだろう。

「ガトーショコラ作ってるの」
「へぇ。ミョウジってお菓子も作れるんだね!」
「下手っぴだけどね」

キラキラとした目で灰原が言うものだから、畏れ多いとそれとなく伝える。「出来る」と「上手い」には雲泥の差があるから、おいそれと上手いと思われては敵わない。

「あ、わかった。バレンタインの準備?」
「あはは、バレちゃった?」
「妹がさ、この時期になるといつも頑張って作ってたんだよね」

灰原に見破られてしまい、これはどうにも言い訳は効かないらしい。もっとも、言い訳をしなければならないようなことでもないのだけれど。

「ガトーショコラって冷やして食べるから夜になっちゃうけど、灰原くん食べる?」
「え!いいの!?」
「うん。まぁ味の保証は出来ないけどね」

まるで犬がしっぽを振るかのような様子で喜ぶ灰原が本当に犬のようで愛らしい。今日の分は試作であるし、自分一人で食べるにも多すぎる。一緒に消費をしてくれるなら願ったりかなったりである。


五条と夏油は二人揃って出張の任務に出ている。近頃は単独での任務が多くなっているようなので、揃って同じ任務に就くのは久しぶりらしい。五条が「傑と泊りの任務でさぁ」と嬉しそうに言って回っていたのをよく覚えている。
夕飯を終えたナマエはよく冷えたガトーショコラを適量に切り分け、談話室に運んだ。ここは最近上級生も使っていないし、一年生が集まるには恰好の場所だった。

「お待たせ」
「やった!ケーキだ!」
「大したものじゃないから期待しないでよ?」

灰原を呼ぶのだから当然七海も呼ぶ流れになり、一年生三人でガトーショコラを食べることになった。七海には「ミョウジ、お菓子なんて作れたんですね」と多少失礼なことを言われたが、過剰に期待されるよりはよっぽどマシである。

「すごいね、お店で売ってるやつみたい」
「ガトーショコラって誰が作ってもこんなかんじだよ?」

小さい子供のようにはしゃぐ灰原を見ていると、なんだか少し恥ずかしくなってくる。さきほど切れ端をつまみ食いしたときは中々の味だったから、不味いと言われるほどのことはないだろう。
ケーキ用の小さいフォークを手に、三人で並んで「いただきます」と言ってからガトーショコラにそれを沈める。

「ん!美味しい!」
「本当ですね。重すぎなくてコーヒーにもよく合うと思います」
「良かったぁ」

ぱくりと口に入れた灰原と七海が口々にそう言った。ナマエも自分のぶんを口へ運ぶ。いつも作るものよりほろ苦い仕上がりで、少しココアパウダーを多めにしたのが功を奏したといえる。どうしてほろ苦くしたかと言うと、もちろん特定の人物を思い描いていたからだった。

「ミョウジお店開けるよ」
「ふふ、それは言いすぎ」

とはいえここまで好評だと自信がつく。あまり期間がないからもう練習は難しいかもしれないが、今日のレシピで作ればそれなりの出来になるだろう。

「バレンタインもこれ作るの?」
「えっと、うん。お世話になってるしその、皆に?みたいな?そういう感じで…!」

聞かれてもいないのにそこまでわざわざ言い訳をした。これは当初の予定でもあるが、同じ中身でもラッピングを彼にだけは凝るつもりだった。焦るナマエに灰原が「また食べられるの楽しみだなぁ!」とにこにこ笑う。

「あっ、そうだ、そういえば夏油さんって手作り食べれないんだって」
「えっ」

何気なく灰原から発せられた言葉にガンッと頭を殴られたような気分になった。そうか、そういう人もいるのか。考えたこともなかった。
何せ男性でも食べやすいようにとほろ苦く作るのはその夏油のためであり、ラッピングを凝ろうと思っているのも夏油だけにだ。勝手にひとりで盛り上がっていたけれど、あろうことか彼は手作りが食べられないらしい。

「灰原、誰から聞いたんです?」
「夏油さんと家入さんが話してるの聞いたんだ。なんか女子から貰った手作りカップケーキが食べられないって話してて」
「知らない人と知ってる人じゃ対応違うと思いますけど」

勝手に浮かれていたところを砕かれた衝撃で、灰原と七海のその会話はろくに頭に入ってこなかった。そうだ、別に手作りじゃなくてもいいじゃないか。自分じゃ買わないような高級なチョコレートを用意しよう。無理に苦手な手作りを押し付けることはないじゃないか。
浮かれていた気持ちを砕かれたショックは大きいけれど、そう思うことで何とか飲み下していく。


バレンタイン当日は平日の水曜日である。昨晩こっそりと作ったガトーショコラはよく冷えて食べごろのはずだ。ビニール製のラッピング袋に切り分けたそれらを小分けにして、一番最初に女子寮で遭遇した家入に渡した。

「硝子先輩、ハッピーバレンタインデーです!」
「お、あんがと。手作りじゃん」
「甘さ控えめなので良かったら!」

ひらひら家入に手を振って寮をあとにし、校舎までとことこと歩いていると五条の姿を見かけた。ナマエは五条に駆け寄り、ラッピングされたそれを差し出す。

「五条先輩、ハッピーバレンタインデーです!」
「おー。なんだよ、お前の手作り?」
「はい。えっと、食べられなかったら回収します!」
「いや、べつにミョウジのなら平気」

五条がわざわざサングラスをずらしてナマエのガトーショコラをまじまじと見た。五条も手作りがだめなら勿体ないので自分で食べようかと思っていたが、その必要はないようである。
それから教室で灰原と七海に渡し、夏油には休み時間に中庭にいるところを見かけて渡しに行った。

「夏油先輩、お疲れ様です」
「ああ、ミョウジ。お疲れ様」

呼び止めれば、夏油は緩やかな動作で振り返る。にこにこと笑う彼はナマエが何のためにここに来たのかわかっているのではないか。そういう余裕を感じさせた。

「あ、あの、バレンタインなので良かったら…」

そう言って、ナマエは高級ショコラトリーの小さな紙袋を差し出す。マットな黒に光沢の黒でロゴが書かれたいかにもなデザインで、テレビでも雑誌でもよく取り上げられるブランドだ。

「ありがとう。これ、有名なところのだよね?」
「はい。ビターなの選んでみたんですけど…」
「嬉しいよ」

夏油がひょいっとナマエから紙袋を受け取る。夏油の手の中にあると、自分が持っていた時よりも数ランクいいもののように見えた。とりあえずこれで今日一番のミッションは達成だ。


その日の夜、ナマエは寮の渡り廊下の途中にある自動販売機の隣で壁際まで夏油に詰め寄られていた。顔はにっこりと笑っているが、目が笑っていない。しかももう風呂上がりなのかいつもは頭の上でお団子に結われている髪がおろされていて。それがいつもと雰囲気を変えてなんだか凄味がある。

「ミョウジ、今日、悟には手作り渡したんだって?」
「えっと、はい…っていうか、硝子先輩とか灰原くんと七海くんとかにも…ですけど…」

見た目と状況に圧倒され、言葉がしどろもどろになっていく。どうして詰められているのだろうか、なにかまずいことをしてしまっただろうか。そろりそろりと見上げると、じっとナマエを見下ろす夏油と目が合った。

「私には、市販のだったのに?」
「え?だ、だって夏油先輩手作りダメだって……」

今度は夏油がきょとんと止まる番だった。それから「誰に?」と尋ねられ「灰原くんが夏油先輩と硝子先輩が話してるところ聞いたって言ってました」と答えると、なにか合点がいったのか盛大にため息をついた。

「確かに、ちょっと昔いろいろあって、あまり親しくない人の手作りのものって食べるのに抵抗あるんだ。けど、ミョウジは別だよ」

なんだ、だったら渡せばよかった。買ったものの方が美味しいのは言わずもがなだが、せっかく作ったのに夏油ひとりを除け者にしてしまったみたいで少し気まずい。
ナマエが勝手にあれこれと考えていると、夏油の手がとんっとナマエの顔の両側につき、視界をぐっと制限される。それから彼は少しだけ身をかがめてナマエと視線を合わせた。

「好きな子の手作りチョコが欲しくない男なんて、いるわけないだろ?」

夏油の声が低くナマエの鼓膜を揺らす。あちこちに飛んでいた思考は全部が一瞬にして飛んで行ってしまって、目の前の夏油のことでいっぱいになった。あぐ、あぐ、何度か唇をはくはく動かすのはきっと金魚のようで滑稽だろう。

「今度、私にも食べさせて」

今日は髪も頬も触れられていないのに、今まで以上に緊張してどうしようもない。ナマエはもう首を縦に振るしか出来なくて、どうにかこくこくと頷いたのだった。






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