07 Gain ground


告白なんて、今まで一度もされたことがなかった。いや、正確に言うと幼稚園の時に同じクラスの男の子に「およめさんにしてあげる」と言われたことがあった気がするけれど、中学の時はずっと地味なグループだったし、そんなものとはまったく無縁だった。

「ミョウジのことが好きなんだ」

確かに夏油先輩はあの日、私に向かってそう言った。あまりに予想だにしていない…というか現実離れした言葉だと思って、私は思わず聞き返して、そうしたらもっと明確に振り向いてもらえるように努力するから、なんて言葉で追撃された。しかも、私が五条先輩のことを「好き」だと前提にしているおまけつきだった。

「夏油先輩が私のこと好きとか…まさかそんなことさ」

思うわけないじゃん。だって夏油先輩はきっと普通の学校だったら話もしないような相手だ。完全にスクールカーストの格差がえげつない。そりゃあ、かっこいいと思うけど、まさか告白なんてされると思っていなかった。夏油先輩がメインキャラなら私は完全にモブでしかない。
自分の寮室でうなだれると、視界の端に数学のテキストが見えた。


寮の談話室でスナック菓子を摘まんでいると、灰原が口火を切った。

「ミョウジ、最近夏油さんと勉強会してないね?」
「え?えっと、うん…」

夏油を避けている。もうそれは同級生にもわかってしまうレベルで。あの日寮ですれ違ったがためにことの顛末をなんとなく把握してしまっている七海は、首をかしげる灰原の隣でじとっとナマエを見た。

「じゃあ僕らと一緒に勉強する?」
「いいの?じゃあお願いしようかな…」

こんな状態で夏油と一緒に勉強なんて出来るわけもないが、だからと言ってひとりで自主学習に励むのも少し限界を感じる。他の教科は相変わらず可もなく不可もなくだし、数学だけでも混ざってやれると理解度が上がる…ような気がする。

「おや、私のところにはもう来てくれないのかい?」

ぬっと背後から声がして、ナマエはびくりと肩を震わせた。夏油の声だ。聞き間違えるはずもない。目の前で灰原がきらきら目を輝かせながら「夏油さん!」と名前を呼んだ。ナマエはブリキの人形のようなぎこちなさで振り返り、にっこりと笑みを崩す様子もない夏油に「お、お疲れ様です…」とどうにか挨拶をする。

「今日は少し巻きで任務終わったからさ、ミョウジのこと誘いにきたんだけど」

事情を知らない灰原が「行ってきなよ!」と親指を立て、知っている七海が絶妙な顔のままナマエを見た。どう答えようかと悩んでいるうちに夏油が「じゃあミョウジ借りていくね」と先手を打ってしまって、ナマエはなすすべもなく連行されていく。
これでまた夏油の部屋だったら何としてでもお断りをしてやる、と意気込んでいたが、連れてこられたのは図書室だった。

「と、図書室…」

出鼻を挫かれ、思わず口に出てしまった。すると頭上からくすくすと夏油の笑う声が落ちてくる。

「私の部屋が良かった?」
「ち、違います!」

まるで自分が期待しているようなふうになってしまって、慌ててそれを否定する。告白した側の人間とは思えないような平然とした態度に、本当にあれは真剣に吐き出された言葉であったのかと疑いたくなった。夏油がそういうことをする人間だと疑っているわけではないが、それにしたってもっと夏油も緊張したりするのではないのか。なんだか釈然としない気持ちのまま、備え付けの椅子に腰かけてテキストを広げる。

「数列だっけ」
「はい。ちょうどこの前からやり始めたところで…」
「数列は公式多いからね。でも、逆に言えば公式さえ覚えちゃえば解けるようになるから」

夏油の指がテキストの上を滑っていく。大きくて綺麗だけど、女性のものとは全く違う。節くれ立っていて、爪も短く整えられ、見ただけでナマエとは違って分厚いことがわかる。

「じゃあ、今日はここからやってみよう。どの公式使えばいいかわからなくなったら言って」

ナマエは頷き、深呼吸をしてテキストに向き合った。いくら緊張しているとはいえ、貴重な先輩の時間を無駄にするわけにはいかない。
数学が苦手だという前提があるせいか、数式にシグマ記号が含まれているだけで混乱しそうになる。どうしてわざわざ難しくするのか、と言いたいところだが、理系から言わせればこれは簡単にしているのだというのだから、まったく分かり合えないのではないかと思う。

「えっと…一応解けました」
「うん。見せて。……問1と2は合ってるね…3は使う公式間違えてるかな。4は…公式はあってるけど計算ミスがある」

夏油は答えの書かれたノートを受け取ると、すらすらと答え合わせをしてみせた。きっと彼にとってはシグマ記号も数列を効率化する記号なのだろう。
ナマエは改めて間違っている2問を解きなおしていく。躓いているのが分かれば「どこで悩んでる?」と夏油が声をかけた。

「で、出来ました…」
「うん。今度こそ全問正解だね」

それから間違えること数回。ようやく正答に辿り着くことが出来た。それにしても、一年からこの調子では来年再来年と先が思いやられる。夏油は一年しか違わないのにどんな問題でもすらすらと解いて見せた。彼は数学が得意なのだろうが、それにしたってそもそも頭がいいのだと思う。

「数1と数Aでこんなんじゃ来年もっとマズいですよね、私」
「来年も私が教えてあげるから平気さ」
「頼りっぱなしってわけにもいきませんよ。夏油先輩だってもっと忙しくなるのに…」
「いいんだ。ミョウジと二人っきりで話せるし」

ナマエは夏油の言葉にきゅっと唇を噛んだ。恥ずかしげもなくそんなことを言われて、その完璧な仕草にドッキリか罰ゲームだとしか思えないようになっていた。卑屈だと言われようが、どう頑張っても夏油が自分のことを好きだなんて素直に信じられるわけがない。

「ミョウジ、まだ信じてないだろ」
「えっ、と…だって……」

見透かされてしまって思わずたじろいだ。夏油の切れ長の目がナマエを捕まえる。逃げようにも逃げおおせられるだけの可能性さえどこにも転がっていないように思える。夏油が「私、本気なんだけどな」と困ったような声でこぼし、それからナマエの手をそっと握る。

「どうしたら信じてくれる?」
「だ、だって夏油先輩が私のことその…そう思ってるなんて、あの…現実味がないっていうか…」
「そう?ミョウジ可愛いし、告白とかよくされたでしょ?」
「ぜ、全然そんなことないです!中学までずっと地味な方だったし、そういうの全然縁もなくって…!夏油先輩みたいにかっこいい人と話したこともないし!」

焦れば焦るほどいらないことばかり言ってしまっている気がする。別に中学時代までのことを暴露する必要はなかっただろう。けれど何か言っていないと襲い掛かる羞恥心でどうにかなってしまいそうだった。
夏油が握った手をすりすりと親指で撫でる。それから一度開いて、手首のあたりを柔らかく掴んだ。

「じゃあ私が初めてってことだ」

ひゅっと息をのむ。いつの間にか俯いていた顔を上げると、きれいに両方の口角を上げる夏油と目が合った。声音が甘やかで、じんと鼓膜が痺れていく。何か言うべきだ。いや、何を言えばいいんだろう。
動揺と緊張で頭の中がぐるぐるとかき混ぜられる。夏油の手は熱くて火傷してしまいそうだと、ありもしないことを考えた。


2月3日早朝。ナマエはマドレーヌを持って男子寮の入口の前をうろついていた。結局、夏油の誕生日にはほうじ茶を使っているというマドレーヌをプレゼントしようと用意した。甘いものが好きかどうかも分からなかったが、他の好みなんてもっと分かるはずがなかった。それほど夏油傑という男のことを表層しか知らないということだ。

「はぁ、なんか…誕生日って何あげたらいいんだろ」

今日は土曜日で、珍しく七海と灰原と出かけようという話になっている。だから朝の時間を逃してしまうと夏油がひとりきりになる瞬間が一度もないのではないかと考えていた。
そわそわと時計を見る。まだ7時だ。平日ならいざ知らず、休日の今日は夏油も眠っているかもしれない。起きてくるまでここで待っていようか。いや、それまでに誰か別のひとに会ったらどうしようか。

「ミョウジ」
「ひゃいっ!!」

突然声をかけられ、驚いて飛び跳ねそうになった。いつの間にか目の前に立っていたのは七海だった。寝間着姿で洗面具を持っていて、恐らく起き抜けにナマエの姿を発見して声をかけに来てくれたのだろう。

「どうかしましたか?」
「えっと、あの、そのぉ…」

手に持っているパステルイエローの紙袋を咄嗟に後ろ手で隠す。朝早くにやはり迷惑だった。やめておけばよかった。別に夏油と二人きりでなくとも渡そうと思えば渡せるのだし、こうして待ち伏せする必要はなかった。そう後悔してみても後の祭りである。

「や、やっぱり私出直すから!その、またあとで…」

いたたまれなくなってその場で後ずさりをして、すると背中にトンっと何かがぶつかる感触があった。それから両肩をぐっと掴まれ、恐る恐る振り向く。

「やぁミョウジ、おはよう」
「お、はよう…ございます…」

にっこりと笑みをたたえて立っていたのは夏油だった。ジャージ姿でうっすらと額に汗をかいていて、恐らくロードワークに出ていたのだろうことが伺える。まさかもう起きて活動しているなんて思わなかった。ぎゅるっと視線を正面の七海に戻すと、七海が「諦めろ」とばかりに小さく首を振る。

「こんな朝早くから七海に会いに来たのかい?」
「えと、その…」
「夏油さん、ひとを巻き込むのはやめてください。私もう戻りますから」

七海はこれ以上の被害を回避するためにさっさと見切りをつけて踵を返した。助けてくれ、と言いたいところだが、こんなところでこれ以上七海にどう助けて貰おうというのか。「行っちゃったね」と夏油が他人事のように言う。

「それ、七海に渡さなくて良かったの?」

どうせ誰宛かも見当がついているくせに夏油がさらりとそう尋ねる。ナマエは紙袋を握る手にぎゅっと力を込めた。

「こ、これ七海くん宛じゃないので…」
「じゃあ男子寮の誰かに用事だったかな。灰原?それとも悟?」

はぐらかされるとムカムカとしてきた。ここに来る理由が灰原や、まして五条であるわけがない。あんなに印象付けるように自分の誕生日を覚えさせておいて、まさか本人が忘れるだなんてことはないだろう。

「夏油先輩に渡そうと思って」
「私に?…あ、もしかして…」
「お誕生日、おめでとうございます」

夏油は話している途中で思い出したとでもいったふうで、どうやら本当にナマエが自分宛てのプレゼントを持ってきたとは思っていなかったようだ。ナマエは体をくるっと反転させると、パステルイエローの紙袋を差し出した。

「ありがとう、嬉しいよ」

そう声がかけられ、ひょいっとナマエの手の中にあった重さがさらわれていった。そっと見上げると、夏油が口元を押さえて微笑んでいた。今まで何度も彼の笑顔は見たことがあるのに、これは見たことのない笑い方だと思った。そしてそれを引き出しているのが自分だと思うと、たまらない気持ちになった。

「ぜんぜんその…大したものじゃないんです。ほうじ茶のマドレーヌで、えっと、その…有名なお店らしいんですけど…」

話せば話すほど言葉が絡まっていく。からかうとか、あり得ないとか、ドッキリだとか罰ゲームだとか、そういう言葉で逃げていたのが恥ずかしくなった。そんな人をあざけるような気持ちでこんなふうに笑えるわけがない。
話すほど言葉が絡まるのはナマエの悪い癖だった。夏油は「そんなにいっぺんに喋らなくてもいいよ」と一度息をつくタイミングを与える。

「あの、私全然夏油先輩のこと知らなくて、プレゼントだってどんなのなら喜んでもらえるのか見当もつかなくって…」

考えれば考えるほど、表層だけを見て彼の言葉に応えるのは嫌になった。与えられた言葉に応じるだけでなく、自分の頭と心で考えて応えたい。「応えたい」と思っている時点で、もうどういう言葉を返したいと思っているのかなんて言うことは、わかりきっていたけれど。

「その…夏油先輩のこと、もっと教えてください」

ナマエがそう言うと、夏油が空いた手でナマエの髪にそっと触れる。それから髪束をそうっと壊れ物のように持ち上げると、ゆっくりとそれを手放し、そのまま指の背でナマエの頬に触れる。

「…もちろん」

何もかもスローモーションだ。夏油の目が三日月状の弧を描く。吸い込まれてしまいそうだと思った。






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