02 learn the ropes


呪術高専、といっても、普通科の科目がないわけじゃない。数学、現代文、化学、物理、その他諸々。特に日本史と古文は呪術師としても大活躍だから、たぶん普通の高校よりも難しい内容までやっていると思う。
あくまで呪術師の育成機関ということもあってテストの点数で留年なんてことはないのだけれど、悪い点数を取れば補習だってちゃんとある。五条先輩のようにものすごく優秀で任務が立て込んでるなんてことがあれば話は別なのかもしれないが、私はもちろんそんなことはないから普通に補習がある。
ちなみに、五条先輩は勉強も出来るので、赤点を取るようなこともない。かっこいい上に強くて勉強も出来るなんて本当にずるい。

「ナマエ、言っておくがこのままいくと今度のテストも数学補習だぞ」
「えっ、うそ、灰原くんは!?」
「灰原は最近頑張ってるからな、恐らく補習は回避するだろう」

夜蛾先生にそう言われた。他の教科はそれほど悪いわけじゃないのに、数学だけはどうしても苦手で、私はいつも補習ギリギリにいる。
今回も灰原くんが一緒に仲間になってくれると思ったら、どうやらそうは問屋が卸さないらしい。一人で補習なんて寂しいにも程がある。


ナマエは教室で自分の机に噛り付く。補習を予告されている日、遊びの約束を灰原や七海としているのだ。テストをクリアすればもちろん補習は回避できるが、そのためにはかなり追い込んで勉強をしなくてはいけない。そうでもしなければ結果は火を見るより明らかである。

「ミョウジ、頑張って!」
「うぅぅ…灰原くーん…」

灰原と七海はふたりで組手をするらしい。私だって組手が良かった、と思うものの、そう嘆いても数学の成績が良くなるわけではない。数学が得意な七海に教えてもらおうと試みたけれど、前回のテストの時にも頼りきりだった。今回もと言うと流石に愛想をつかされてしまうかもしれない。

「…なに、三角比ってぇ…」

サインだとかコサインだとかタンジェントだとかと書かれた公式を前にナマエは頭を抱えた。中学の頃から数学は得意ではなかったけれど、高専に入ってからもっと目に見えて苦手になった。理解しようとしても教科書の本文を読むだけで拒否反応だ。シャープペンシルを置き、はぁぁぁ、と大きくため息をつく。

「あれ、七海も灰原もいねーじゃん」

不意にガラッと教室の戸が開けられる音がして、続いて聞こえてきた声にはっと顔を上げる。そこにいたのは五条で、後ろから夏油も「ほんとだね」と言いながら顔をのぞかせた。五条、夏油の順番でナマエに視線を向ける。

「やぁ、ミョウジ。勉強?熱心で偉いね」
「や、えっと、その…」

ぐっと夏油が机の上を覗きこむ。補習を逃れるためにやっているなんて恥ずかしくて言えなくて、咄嗟に手元を隠そうとした。すると五条が「補習やべぇからやってんじゃねぇの?」と図星をついて、カッと首から赤くなる。

「ミョウジ、数学苦手なんだ?」
「えっと、その…はい…」
「難しいよね、このへんって」

夏油はからかうことなく焦るナマエにむかってゆったりと言ってみせた。こんなに小規模な学校なのだからいずれはこうして得手不得手も明らかになってしまうかとも思うけれど、面と向かってこんなふうにバレてしまうのは非常に不本意だ。

「そうだ、悟教えてあげなよ。数学得意だろ?」

夏油が思いついたようにそう言って、ナマエに緊張が走る。もし五条に数学を教えてもらえるなんてことになったら恥ずかしいやら緊張するやらで耳に入ってこないかもしれない。ナマエはおずおずと五条を見上げた。

「パス。教えるとかダルくて無理」

五条はあっさりそう言って、ひらりと手を振ると「七海探してくるわ」と教室を出て行ってしまった。夏油は少しだけ「しまった」とでもいったような顔をした後、ナマエの前に椅子を持ってきて、机を挟んで向かい合うように腰を下ろす。

「じゃあ私が教えてあげる」
「えっ、そんな。悪いですよ」
「いいからいいから」

夏油はナマエには構わず、広げられた教科書に目を通し始める。文字を辿るように指がゆっくり左右に動いた。あまり意識はしたことがなかったけれど、夏油の手はとても大きい。所在なさげに固まっている自分の手と思わず見比べる。

「ミョウジはいま、どのあたりで躓いてる?」
「えっと、この三角比のところで…」

正直にかなり序盤で躓いていることを告白すると、やはり夏油は笑ったりすることはなく、じゃあここからやってみようか、と例題を指さした。
シャープペンシルが止まると、夏油が細かに「どこがわからない?」と尋ね、不鮮明になっていた部分がゆっくりと紐解かれていく。それもすべて威圧的な感じは少しもなくて、不思議とすんなり頭に入ってきた。

「あっ!解けました!」
「フフ、おめでとう」

気が付くと、テキストのなかで一番難解だと思っていた問題の答えを導き出すことが出来ていた。数学が楽しいと思ったのは久しぶりだ。自分にこの問題を解くことが出来たのだと思うとほわほわと気持ちが良くなって、回答欄の答えをじっと見つめる。

「…ごめんね、悟じゃなくて」
「え?」

突然降ってきた言葉に首を傾げた。ごめんね、の意味を測りきれずに首をかしげると、夏油はナマエを見つめてから「なんでもない」と言って、結局その真相は有耶無耶にされてわからないままになってしまった。


夏油はそれからもテストまでの間に三回ほどナマエの勉強を見に来た。そのおかげで、テスト範囲の単元はこれまでにないくらいの理解度で臨むことが出来た。テストの担当をする補助監督の号令により、ナマエはシャープペンシルを置く。手ごたえはというとこの上ない出来であると自負があった。

「ミョウジ、どうだった?」
「灰原くん!やばい!絶対補習回避した!」
「えっ!そんなに手応えあったんだ!?」

ナマエがこくこく頷くと、灰原は大げさなほどのボリュームで「よかったね!!」と祝福する。隣で七海が「テスト返ってきてないんですから喜ぶのは早いでしょう」ともっともなつっこみを入れた。

「絶対今までで一番いい点だよ!勘で埋めたところふたつしかないもん!」
「ふたつはあるんですね」
「でもふたつだけだよ?」

本当はすべてを自信満々で埋めたいところだったが、そもそも苦手教科なのだから二問くらいは許されたい。もちろん解けた問題もすべてが正当ではないだろうが、それにしたって今までとは比べ物にならない手ごたえだった。

「ミョウジ、夏油さんとめちゃくちゃ勉強頑張ってたもんね」
「夏油先輩すごく教えるの上手いよ。なんか授業聞くよりスーッて分かっちゃった!」
「それは授業を担当してくれる補助監督に失礼でしょう」

またしても尤もな七海の言葉に論破される。
やっとテストから解放された三人は気晴らしに体を動かそうと組み手をする話になった。テストの返却は二日後である。一学年に三人しかしないのだから、普通の学校よりも早い。返ってくるテストの点数にワクワクと胸を躍らせながら、組み手のためにジャージに着替えようとひとり寮に戻る。七海と灰原は制服のままでいいらしい。

「あれ、ミョウジ」
「あっ、夏油先輩!」

丁度寮の入口に夏油が一人で立っていた。学生服姿で、五条も家入も近くにはいない。任務の帰りか何かだろうか。
テストの結果はまだ出ていないが、取り急ぎ手ごたえが過去最高であったことを伝えなければ。

「あの、今日一年生テストだったんですけど、数学めちゃくちゃ出来ました!」
「本当?それはよかった」
「夏油先輩が教えてくれたおかげです!ありがとうございます!」
「フフ、お礼は結果が返ってきた後に聞こうかな」

夏油はそう言って、ナマエの頭をくしゃりと撫でる。無意識だったのか、撫でた直後にハッとして「ごめん」と手を引っ込めた。やっぱり夏油の手は大きくて、自分のものとは違うことをまざまざと思い知らされる。

「傑ー?」

そのとき寮の中から五条の声がして勢いよく顔を上げた。まさか今のを見られてしまっただろうか。何が悪いというわけではないけれど、憧れの彼に見られてしまったかと思うと恥ずかしくて気まずい。
対して五条は少しも気にしていないようで、視線は一瞥しただけで夏油へと向けられた。

「何してんだよ。ゲームする約束だろ?」
「ああ、今行くよ。じゃあねミョウジ」

夏油は何事もなかったかのようにすっと離れ、五条と一緒に男子寮のほうへと歩き去って行ってしまった。手のひらの感触と気まずさだけがナマエと一緒に取り残され、一分ほど立ち尽くてからやっと我に返り、着替えるために自室へと飛び込んだ。
ジャージに着替えて中庭に行ったあともどうにも顔の熱は収まらず「どうかした?」と心配そうに尋ねる灰原に「走ってきたから!」と苦しい言い訳をしたのだった。


来たるテストの返却日、ナマエは返ってきた答案用紙の赤で書かれた数字にわっと飛び上がった。史上最高得点である。当然のように三人の中で一番悪い点数だが、これは彼女にとっては充分な快挙だ。ナマエは授業が終わるや否や夏油を探して高専中を走った。校舎、道場、食堂、中庭。結局あれこれと探して辿り着いたのは寮の渡り廊下の途中にある自販機置き場の建物の中だった。

「あっ!夏油先輩!」
「ミョウジ、そんなに慌ててどうしたの?」
「えっとテストの返却があって、今日数学が返ってきたんですけど、これ…あの、全然満点とかじゃないんですけど、その、自分では最高得点で、えっと…」

勢いよく探しに来たはいいが、満点でもないのにこの調子では呆れられてしまうかも知れない。それどころか、あれだけ教えたのにも関わらずこんな点数なんてと機嫌を損ねてしまうかもしれない。そう思うと、言葉がどんどん尻すぼみになっていった。
そのナマエの様子を見ながら、夏油が「そんなにいっぺんに喋らなくてもいいよ」とゆっくり笑った。

「す、すみません…あのこれ…」
「へぇ、すごいね。自己最高得点なんて、教えた甲斐があるよ」

夏油はナマエに差し出された答案用紙を眺めながら感心したように相槌を打つ。予想していた悪い反応ではなかったことにホッと胸をなでおろした。

「ミョウジさえよければ、また数学教えるよ」
「本当ですか?夏油先輩の教え方すごく分かりやすいです」
「そう言ってもらえるのは光栄だな」

またこの前のように大きな手が伸びてきて、ナマエの頭を優しく撫でた。けれどあの日と違って手は引っ込められることはなくて、何度もゆっくり往復した。かぁ、と顔に熱が集まってくるのを感じる。

「そうだミョウジ、ご褒美あげる」
「えっ?」

夏油の手が離れて行って、今度はそう言ってじっとナマエをみつめる。切れ長の目は涼し気でひんやりと感じると思っていたはずなのに、不思議と今日はそれを熱っぽく感じた。何か言わなければいけない気分になってくちをはくはく動かしても、喉が渇いてしまって一向に声は出てこない。
ご褒美。いったいなんだろう。いろいろ熱に浮かされた頭で自動的にいろんな可能性を考えてしまう。あれこれと浮かぶそれらを掻き消すように頭をふって、すると夏油が自動販売機を指さした。

「ジュース、どれがいい?」
「へ?」
「奢るよ。ご褒美に」

そうだ、ご褒美だなんてそんなのはジュースだとか食堂のプリンだとか、そういうものに決まっている。何を勝手に深読みしてしまっているんだ。全部彼のせいだ。何だか底知れない妖艶さというか、色気と言うか、そんなものを垂れ流しているからいけないんだ。ナマエが心の中で責任転嫁をしながら自動販売機に向き直ると、夏油は何もかも見透かしたようにくすくす笑った。






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