20 Walking on air


一瞬、一秒、一度。たったそれだけが世界を180度変えることがある。
私はスーパーヒーローじゃない。出来ることなんてごくわずかで、目の前で失われる命さえ救えないこともある。そしてそのために何度も傷ついて、何度も身を引き裂かれるような思いをした。それでも私は呪術師であることを後悔なんかしていない。
私は大切な人の人生を、ここに繋ぎ止めることが出来た。それだけで充分だった。


村落の呪いはもともと、長きにわたり捧げられた生贄の子供たちの残滓が形を成しているものであったらしい。それ自体はそこまで強力な呪いではなかったし、それを呪術師の夫婦が牽制していた。しかし約一年前、その夫婦が村人によって殺害されたことにより事態は急変する。夫婦は死後呪いに転じ、残滓であったそれらと融合することによって一級呪霊になったのだ。補助監督の事後調査が加えられた報告書にはそう書かれていた。

「はぁ…やりきれないなぁ」

呪術師を守って仲間の屍を積み上げて、その先に一体何があるっていうんだ。夏油の言葉は胸の奥に深く刺さったままだった。今回の一件だって、結局は見えないものを恐れた非術師の暴走により呪術師が殺され、それによって悲劇を生んだ。
変死した村人というのはすべて、座敷牢に囚われていた二人の少女に害を成している人間ばかりだったと推測されている。あれはある種、子供を守る親の意思のようなものが影響していたかもしれないということだ。

「どうしたんだい、大きなため息をついて」
「あっ、夏油先輩!お話終わったんですか?」
「ああ。今さっきね」

夏油傑は、任務先で非術師に危害を加えたという罪状で謹慎を言い渡された。あの村には警察の捜査の手が伸びたらしい。二人の少女に対する虐待ではなく、いままでの生贄と称した殺人と死体遺棄が立件される。あえて少女二人をその捜査の表舞台から隠したのは、ひとえに呪術の秘匿という観点にある。だから彼女たちの虐待に関しては法で裁くことが出来ない。

「来月からもう寮は出るけど、一応所属は手続き上年度末まで待ってくれだってさ」
「来月って、もうすぐじゃないですか!」
「早いに越したことはないよ」

そういう話をしてくるとは聞いていたが、それにしても来月と言ったってもう10日間もない。何とも言えずにきゅっと唇を引き結んだナマエの頭を夏油がぽんぽんと撫でた。彼はまもなく呪術高専を辞める。


───ナマエと夏油は座敷牢を壊して中から二人の少女を救出した。初めは怯えていたが、ナマエが「もう大丈夫だよ」と声をかけると、堰を切ったように大きな声で泣いた。彼女たちの両親の死後、ほとんどの時間を懲罰と称してこの座敷牢に監禁されていたらしい。

「もう怖い思いさせないからね、大丈夫。痛いところも全部治してもらおうね」

ナマエが泣きじゃくる二人の背中に手を伸ばすと、二人は彼女の腹にひしと抱きついて身を寄せた。ざんばらに切られた二人の髪を柔らかく撫でる。
夏油が補助監督と高専に連絡し、連れ帰った少女二人は家入による反転術式を施された。それによりいくつか傷跡は残ってしまったが、概ね本来の健康な身体に戻してやることが出来た。

「どうすんの、この子たち」
「今夜蛾先生に掛け合ってる。多分このまま高専で預かりになるんじゃないかな…元の村は論外だし…だけど普通の児童養護施設に預けるのも危険だ」

高専の談話室。家入と夏油が部屋の隅でひっそりと言葉を交わす。どうやらである双子らしい少女たちはナマエに買い与えられたチョコレートをソファに座ってかじっている。夜蛾と上層部の協議の結果が出るまで学生寮の談話室で預かることになっていた。

「で、オマエ、村の人間ブン殴ったんだって?」
「……耳が早いな」
「さっきナマエがテンパって口走ってた」

なるほど。確かに努めて冷静でいようとしていたが、ナマエも夏油を庇おうと必死だった。その流れで口走ったのか。事実であるし、その処分については甘んじて受け入れるつもりだ。双子の頭を撫でながらにこにこと笑うナマエを見つめる。

「非術師の醜悪さに嫌気がさしたんだ……本当は、殺すつもりだった」
「ハハッ、良かったじゃん。殺さなくて」

家入が当然とばかりにそう言って笑った。それは確かにそうだが、珍しい言い回しをするな、と言外に「どうして?」と視線だけで尋ねると、顎をくいっと出して出入り口をさした。

「まだ親友でいられるでしょ、五条と」
「え……」

次の瞬間、ダンッと猪でもぶつかったかのような音がして扉が開いた。そこにはひどく焦った様子の五条が立っていて、ぜぇぜぇと肩で息をしている。五条は夏油の姿を見とめると大股でずかずかと歩み寄り、一直線で夏油の胸倉を掴み上げた。

「傑オマエッ!非術師殺したって…!」

どこから聞いてきたのか、しかも嫌な方向に情報が捻じれている。家入が訂正しようと呼びかけ、それを遮るように五条がまた噛みつく。ナマエは双子が怯えないようにぎゅっと抱きしめた。

「馬鹿野郎!なんでそんなことッ!」

引き裂かれるように悲痛な声だった。五条がこんなふうになっているところを見るのは初めてのことだった。夏油が胸倉を掴む五条の手に触れる。一触即発だ。ここでこの二人がやり合うようなことになれば更地になりかねない。

「殺してないよ。殺そうと思って、殺しかけただけ。まぁ、思いっきりぶん殴ったから処罰はされるだろうけど」
「は………」
「悟、間抜けな顔になってるよ。はは。男前が台無しだ」

夏油がそうへにゃりと笑うと、五条が言葉を止め、手を放して気が抜けたようにそのままその場に座り込んだ。長い手足を小さく折りたたみ、頭を抱えて大きくため息をつく。そして「よかった…」と絞り出すような声で呟いた。

「俺、もう、傑がやっちまったんだと思って…」
「うん」
「そんなにヤバいのになんで俺に言ってくれなかったんだって思って…」
「うん」
「俺、それになんにも気付いてやれなかったんだって…」

夏油は五条のそばへ同じようにして屈む。ぐずりと鼻をすする音が聞こえた。どうやら五条は泣いているらしかった。五条のことだから本当は情けない姿なんて誰にも見せたくないはずだ。なりふり構っていられないほど必死ですべてをぶちまけているのだろう。

「俺一人じゃダメなんだよ……傑は…俺の親友だろ…」
「……ああ、たったひとりの親友だよ」

どうなることかと黙って見守っていた家入とナマエが目を合わせ、どちらともなくふっと笑う。ナマエの腕の中で突然始まった言い争いに怯えていた少女たちは、何事かは理解していないようだったが、ナマエの空気が和らいだことによって顔を見合わせて首を傾げていた。


その後、上層部の協議の結果、双子は夜蛾のもとで監督され保護されることが決まった。自分たちに危害を加える人間を返り討ちにする程度には呪術を扱うことができるのだ。一般の施設では手に余る。将来的に呪術師になるかどうかはさておき、これからは夜蛾のもとで一般教養と呪術を学ぶことになる。

「菜々子ちゃんも美々子ちゃんも、夏油先輩いなくなったら寂しがりますよ」
「ナマエがいるだろ。それに、私も顔出しに来るし」

あの座敷牢から救い出した人間だということもあって、双子、菜々子と美々子はよく夏油とナマエに懐いた。夜蛾だけでは勿論負担が大きいから、双子の世話に関してはナマエも積極的に参加するつもりだ。

「灰原くん、もう少しで戻ってこれるって言ってました」
「そうか。近接見て欲しいって言われたてたし、様子見に来るよ」

灰原はリハビリに励み、もうほとんど通常生活を送れる状態まで回復しているらしい。あんな目に遭ったのだから術師を辞めるか、もしくは補助監督の道に移るかと思われたが、灰原の「自分にできることがしたい」という強い希望からこれからも呪術師として第一線に立つことになった。
ナマエは夏油が高専に来る理由をいくつも並べてみせる。そのいずれにもすべて穏やかな調子で返答がなされた。

「…本当に高専辞めちゃうんですか」
「ああ。でも一応書類上は高校卒業ってことにしてくれるらしいよ」
「それはいいですけど…そうじゃなくって」
「大事なことさ。転職するとき困るだろ?」

夏油がそうやって冗談めかすから、ナマエはむっと唇を尖らせる。そんな問題じゃないと分かっているくせに煙に巻く。いや、本当は分かっている。どんな言葉を使っても、彼をここに留めておくことは出来ない。
夏油は拗ねた振りをするナマエにくすりと笑って柔らかく髪を撫でた。

「何が正しいのかは私が私の責任で選択していく。私の本心を決めるのは私自身だ」
「夏油先輩…」

正しさというものは、人の数だけある。一概に非術師が被害者だとは言えないし、術師もまた然りだ。多くの要因が絡まり合っていて、しかも立場が変われば見えるものも変わる。当然のことで、とても難しいことだった。

「高専のやり方は納得できないところもあるし…私は非術師よりも術師や補助監督を守りたい。高専に所属したままだと、それよりも非術師を優先せざるを得ない任務だって回ってくるからね」

そこに夏油はひとつの結論を出した。それが高専を辞めるという選択だった。これからはいわゆるフリーの呪術師として任務を請け負う。その中には高専からの依頼も多くなるだろうが、決定的な違いは夏油にその拒否権が生まれるということだった。

「冥さんにも色々聞けたし、最初は結構難しいだろうけど、まぁなんとかやるさ」
「夏油先輩の実力ならすぐ引っ張りだこです」
「そうだといいけどね」

独立にあたり、フリーの呪術師の先輩である冥冥からフリーの呪術師のイロハを教えてもらった。これがタダだというのだからあとが恐ろしいが、彼女ほど上手くフリーの呪術師という立場を使いこなしている人間もいない。背に腹は変えられないというわけだ。

「でも…やっぱり夏油先輩の寮室に遊びに行けなくなっちゃうのは少し寂しいです」

夏油が高専を辞めるということは当然、寮も引き払うということであり、今までのように会いに行くことも出来なくなる。そうやって彼に会えないのはやはり寂しい。ナマエが小さな声でつぶやくと、夏油がまた髪をなでて笑った。

「フフ…じゃあこれ」

これ、と言われ握った拳を差し出されたので、ナマエは両手をその下に構える。すると夏油がパッとそれを開き、手の中に何か小さくて固いものが落とされた。銀色のそれは、どこかの鍵だ。

「鍵…?」
「そう。私のマンションの部屋の鍵」
「えっ」

夏油がナマエの手を包むようにして鍵を握らせる。冷たい金属の感覚が体温によってすぐに温められていった。私のマンションの部屋の鍵、ということはつまり合い鍵だ。

「高専からは近くはないんだけどさ、いつでも遊びに来ていいから」

まさかそんなものを預けてもらえるとは思わずに黙ったままでいるナマエを置き去りに、夏油が言葉を続ける。そんなことを言われてしまっては毎日行きたくなってしまう。毎日だって会いたい。もちろん、それが非現実的であることは十分承知していることだけれど。とにかく、そう思ってしまうほどナマエはもたらされた合い鍵という存在に舞い上がっていた。しかもまたも続けられる夏油の言葉にそれが加速する。

「マンションの場所は、悟には内緒だよ」
「五条先輩も知らないんですか?」
「もちろん。だって悟に言ったら入り浸るに決まってる。ナマエと二人っきりになれる場所取られたんじゃかなわないよ」

そんなもの調べようと思えば五条はすぐに調べてしまいそうだけれど、少なくとも今ここで夏油の住処を唯一知らされている人間であるということがたまらなく嬉しくなった。ナマエがふふふと少し笑う。

「五条先輩にバレないようにしないと」
「ナマエは分かりやすいから心配だよ」
「あっ、そんな言い方ひどい!」

大袈裟に怒ったふりをしてみせると、夏油は思ってもいないくせに「ごめんごめん」と口先だけで謝った。手のひらを開き、鍵の輪郭を視線でなぞる。太陽の光に反射して鍵山がきらりと反射した。

「夏油先輩、高専辞めても付き合っててくれるんですね」
「当たり前だよ、むしろこれからが本番」
「本番?」
「そう。会う時間が少なくなるから、もっとナマエを夢中にさせなきゃね」

聞いているこちらが恥ずかしくなってしまうような台詞をさらりと言ってのけて、夏油は合鍵を握るナマエの手をまた包み込んだ。夏油の手は大きくて、自分のものとはまったく違う。これは痛みを知り、優しさを分け与える慈悲の手だ。

「今夜私の部屋においで。一緒に見たい映画があるんだ」

夏油がゆっくりと笑う。さてこんなに愛おしいというのに、ただ映画を見るだけで済むだろうか。構わない。すべて差し出したい。そして差し出したことで空いた隙間を、あなたの愛で埋めてほしい。予定調和のごとく夏油の切れ長の目に捕えられる。

「ほら、傑って呼んで」

ナマエはうろうろと視線を動かし、それから小さな声で彼の名前を呼ぶ。ただ三文字の文字の羅列がこの世で一番愛おしい意味を持つ。夏油がナマエを捕えるように抱きしめた。
例えば、例えばあなたが傷ついて立ち止まってしまったとき、それを抱きしめて、それからまた背を押せるような、そういう存在になれたらいい。この世界がまだ美しいことを、あなたと一緒に確かめに行きたい。






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