17 Better late than never.


目を閉じると、恐ろしくて眠れやしなかった。襲い掛かる呪霊の手、吐き出される悲鳴のような鳴き声。ぎょろりと何もかもを見透かすような目玉。そして何より、それに捕まった灰原くんの、横顔。

「あとは任せた!」

あの状況で、灰原くんは間違いなく死を悟っていただろう。それでも自分を贄に時間を稼いで、私と七海くんを逃がそうとした。
後から分かったことだけれど、あの社は福井県にある古代信仰のものらしい。初めに土地を開拓した24の祖を祀っているもので、年に一度だけ社に近づきお供え物をする。それ以外の時は立ち入りが許されず、禁足地になっているそうだ。
不可抗力とはいえ、私があの時、社の禁足地に足を踏み入れた。それがあの土地神を起こしてしまったのだろう。

「……きもちわる…」

私はベッドから起き上がり、備え付けられている簡易キッチンに立って口をゆすいだ。頭の奥がガンガンと鳴る。吐き気がして口をおえっと開けたけど、ロクに何も食べていないから唾液がだらしなく流れるだけだった。
今までだって呪霊を前に恐ろしい思いをしたことはある。怪我だってあるし、この前だって非術師に刺されたばかりだ。
だけど目の前で仲間が殺されるかもしれないと、そんな思いをするのは初めてだった。それは自分が死ぬような思いをするより、よっぽど恐ろしいことだった。


一命を取り留めた灰原は福井県内の提携する病院に救急搬送されたあと、高専お抱えの都内の病院に移ることになった。福井県の病院まで呼びだされた家入が反転術式を施したが、すでに時間が経ち過ぎていた。意識はまだ戻っていない。
無数のチューブが機械から伸び、それらがひとつの大きな管に集約されて首から点滴を打たれていた。集中治療室の白い部屋では、彼の枕元の機械がピッピッと命の音を無機質に知らせている。血中の酸素濃度が回復しない。予断を許さない状況が続いていた。

「……灰原くん」

もっと自分に能力があれば、もっと自分が早く呪霊の動きに気付いていたら。時間は巻き戻せるわけではない。後悔をいくらしてもなかったことにはならない。そう頭では分かっているけれど、少しも飲み込めるような気がしなかった。

「あの…そろそろ…」
「あっ、すみません」

ベッドの傍に立つナマエにそっと看護師が声をかけた。面会時間は患者の治療を最優先にするために15分と決まっている。時計を見ると、もう一時間ほど経とうとしていた。
そもそも本来家族以外は面会することだって叶わないのだ。高専の学生が任務中に負った怪我だという特殊な事情があるため同期のナマエは特別に許可を得ているに過ぎない。これ以上迷惑はかけられないとナマエは集中治療室をあとにした。


高専の空気はいつもと変わらなかった。たったひとり、準二級の術師が意識不明の重体に陥っている「だけ」の話である。そもそもここでは毎日のように呪術師や被呪者の死を聞かされる場所なのだ。繁忙期であればなおさら。もっとも、流石に学生の死者になるとすれば珍しいけれど。

「……誰に何があっても…変わんないんだろうな…」

なにもそれは、呪術界に限った話ではない。非術師の社会だって人間は歯車に過ぎず、一時は失った悲しみに打ちのめされたとしても、故人の社会的な立場というものは誰かしらが穴埋めをして同じように回っていく。近しいひとはもちろん特別悲しむけれど、ただそれだけだ。
呪術師というものは、それがより顕著であると思う。身近にある死に慣れすぎていて、消費されるのがまるで当たり前になっている。

「……はぁ…どうすれば…いいんだろう…」

ナマエは夜中に寮を抜け出し、あてもなく高専の敷地内をさまよい歩いた。
自分に出来ることは少ない。スーパーヒーローにはなれない。目の前の誰かを救うことだってままならない。
ざりざりと半ば足を引きずるようにして歩く。こつんと小石にぶつかって、それを蹴ると、数メートル先でそれよりも大きな石にぶつかって止まった。

「ナマエ」

不意に声がかかった。夏油の声だった。どうしてこんな夜中に出歩いているんだろう。いや、そんなこと自分に言えたことではない。

「こんな遅くに、どうしたんだい」
「夏油先輩…」
「君も腕はまだ本調子じゃないんだろ。少しでも休んだほうがいい」
「はい…でもその…上手に眠れなくて…」

夏油はナマエの隣に立つ。見上げた夏油の顔はいつにもましてやつれているように感じた。
ナマエは先日の任務で腕を痛めていた。呪霊に斬りかかった際、想像以上に負荷がかかっていたためだ。無意識のうちに右腕をぎゅっと握る。夏油がそれを上から包むように触れた。

「私の部屋においで」

いつもナマエを誘う声とはどこか違った。手放したらどこかに行ってしまうような、そういう得体のしれない恐怖を感じる。ナマエは言葉に詰まってなんとも答えることが出来ず、夏油は黙ったままのナマエの肩を抱いて寮のほうへと歩き出す。
寝静まった男子寮の中を歩き、もう随分と慣れた夏油の寮室に入った。逃げるつもりはもともとないけれど、今の夏油は何をしても逃がしてくれないように感じる。どこかに行ってしまうような気がして、それでも逃がしてくれないような気がするなんて矛盾だ。

「ナマエ」

夏油が名前を呼び、ベッドに腰かけて両手を広げる。寮室の安い光の下で見る彼はやはり、今までよりもやつれていた。ナマエはその腕の中にそっと身を寄せる。夏油の腕が柔らかくナマエを抱きしめた。

「灰原のこと…聞いたよ」
「……私のせいなんです…私を庇ったせいで灰原くんが…」

産土神の手が伸びてきたとき、灰原がナマエをつき飛ばした。そのせいで灰原は産土神に捕まった。もっと言えばナマエが禁足地に足を踏み入れなければ産土神を起こすこともなかったかもしれない。すべて今更だ、すべてどうしようもない思考だ。

「弱者生存…それがあるべき社会の姿だ」

夏油がぽつりと言葉を落とす。すぐそばで話をしているはずなのに、まるですれ違っている。言葉がどうにも自分に向けられているもののように感じられない。夏油は更に続ける。

「呪術は、非術師を守るためにある。与えられた力は弱いものを守るために使われるべきだ」

これはいつも夏油の言っていることだった。呪霊操術という強力な術式とそれを使いこなす才能があるからこそ、彼は弱いものを助けるために自分の能力を使うべきだと言っていた。いつも優しくて正しくて、誰かを守れる強さがある。それが夏油傑という男のはずだ。

「けれど弱いものってなんだろうね。弱いものって本当に非術師のことだと思うかい?」
「げ…夏油先輩…?」

ナマエはハッと身体を離し、夏油の顔を見つめる。やつれた相貌も焦点の合わない瞳も別人のようで、何かとても恐ろしいものを見ているような気分になった。ナマエに少しも視線をくれることはない。抱きしめられているのに少しもそう感じられない。

「君を、灰原を、仲間の呪術師を、こんなに簡単に消費してまで…守らなきゃいけないのか?」
「夏油先輩」
「弱者を、非呪術師を守って仲間の屍を積み上げて…その先に一体何があるっていうんだ」

こんなことを夏油が言っているのは初めて聞いた。もう止められなかった。言葉は洪水のように凄まじい勢いで流れてくる。きっと思い付きや衝動なんかじゃない。夏油の心の中にずっと積もり続けてきた澱のようなものだ。だからこそこの言葉はすべて本心で、易々と止められるものではなかった。
夏油がしばらく非術師を守ることの愚かさを吐き出すと、一瞬だけ言葉を止めて、今度は途轍もなく穏やかな声音で「知っているかい」と語りかけた。

「非術師が全員死んだら…呪霊そのものが発生しなくなるんだよ」
「え……?」

何を言いたいのかが理解できなかった。その口調はナマエに数学を教えていたときの教師然としたものと同じだった。ナマエが息をのむ。夏油の声が微塵もブレることなく続く。

「例えば、皆殺しにでもしたら」

ドッと心臓が強く脈打った。なんて大それたことを口にするのか。こんなの夏油じゃない。いや、ナマエが知らないだけで彼はずっとこんな思いを抱えてきたのかもしれない。
半開きになった口が乾き、背中にひんやりと汗が伝う。身体が意味もなく強張って、何か言わなければと思うのに何も言うことが出来ない。
夏油は焦点をやっとナマエに合わせ、先ほど見せた顔が嘘だったかのように笑ってみせた。

「フフ…冗談だよ」

冗談なんかじゃない。冗談で済ませる表情じゃない。そうは思うのに何をどう言っていいかがわからない。夏油は自分より何倍も何十倍も有能な呪術師だ。だから自分よりももっと陰惨な現場を何度も見ている。だから非術師の醜悪さや消費される不条理なんて数えきれないほど知っている。

「寝よう。抱き合って寝ていれば、恐怖心も多少は紛れるさ」

もう追及できないほど善良な先輩の顔に戻ってしまって結局言葉を失った。夏油の中で何かのバランスが崩れ始めている。そう予感するには余りある話ばかりだった。
ナマエを抱きこんだままベッドに横になると、リモコンで室内灯を消灯して部屋が真っ暗になった。頭上で夏油の「おやすみ」という声が聞こえた。


残暑の厳しい9月。灰原はまだ目を覚まさなかった。今日も集中治療室を訪れたナマエは眠ったままの灰原の傍に立ち、その寝顔を見つめる。管の数はこの前より増えたかもしれない。

「灰原くん…どうしたらいいんだろう…」

人工呼吸器が取り付けられ、器官から肺に機械を差し入れることによって灰原の呼吸を守っていた。ベッドの左右にぶら下がる点滴は何種類あるのか数えるもの億劫になるほどだった。右の手首には動脈注射が施され、左の手首には麻酔が施されているらしい。灰原は両手も口もまるでベッドに縛り付けられているかのようだった。

「夏油先輩のあれ…絶対冗談なんかじゃない……だってあんな恐ろしいこと…思い付きなんかじゃ言えないよ…」

ナマエは言葉の返ってこない灰原に語りかけた。あの日、朝起きると夏油はもう別の任務に出かけてしまっていた。だから言葉の真相を確かめることももちろんできなかった。

「私…夏油先輩に何ができるかな…」

一度だけで構わない。彼の心を救う方法はないのだろうか。簡単な言葉じゃ届かないと思った。だって簡単な言葉で踏みとどまれるなら、きっともう自分で飲み込むことが出来ているだろう。

「私なんにも出来ないよ…夏油先輩にも灰原くんにも、何もしてあげられない」

ナマエはベッドのフレームを握った。衝撃でかすかにベッドが揺れる。無機質な機械音が灰原の心音を届ける。部屋の外では看護師がせわしなく別の集中治療室の看護にあたっている。

「灰原くん…起きて…」

こうして呼びかけて、目を覚ましてくれればいいのに。


夏油をひとりにするのが一番危険なことだと考えた。何かのきっかけがあればそれこそ彼を形作っていたものが崩壊してしまうかもしれない。自分に出来るのはせめて、夏油をひとりにしないことだけだ。幸か不幸か、灰原が入院したあたりで繁忙期が徐々に終わってきている。それにバディで動ける灰原がいないのだから、ナマエのスケジュールはどこか宙ぶらりんになっていた。

「あの…夜蛾先生…!私を夏油先輩の任務に同行させてもらえませんか…!」

ナマエは夜蛾に直談判に向かった。学生の任務に関しては一応夜蛾も口を挟める立場にある。校舎の近くを歩いているところを見計らってナマエは夜蛾に頭を下げていた。

「しかし…傑の任務はどれも一級か特級の案件だぞ。準二級のナマエが現場に行って出来ることは残念だが…」
「研修とか!勉強とか!理由はなんでもいいんです!私に出来ることがあればもちろんやります!等級の高い任務の危険性ももちろん分かってます!」

一級や特級の任務は現場そのものが危険だ。呪いといくら距離をとったりなんてしても、何が起こるか分かったものじゃない。そして準二級のナマエがそれらの前で風前の灯火であることは明白なことだった。
渋る夜蛾にナマエは食い下がった。ここで何も出来なければ、きっとこの先も夏油には何もしてあげられないと思ったからだ。

「夏油先輩が…心配で……」

準二級術師が特級術師の心配だなんて馬鹿げている。きっとここ最近の夏油を良く知らない人間ならそう言うだろう。しかし夜蛾は彼らの担任であったし、今は学長の身分で学生を見守っている。ナマエの言葉を無下に扱うことはなかった。

「確かに最近の傑は少しのめり込んでいるような気もするからな……わかった、同行できるよう私が手配しよう」
「ありがとうございます!」
「傑の次の任務は■■県■■市の山村だ。細かなスケジュールは後で渡すから、いつでも出られる準備をしておけ」

この任務が大きなターニングポイントになることは、まだ誰も知らないことだった。






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