13 Nothing seek, nothing find


病院での任務中だった。灰原くんと二人、私たちは該当区画を閉鎖されている病棟での任務にあたった。
本当だったら病院をまるごと無人にしてから任務にあたりたいところなんだけれど、入院患者さんも多いここではそう簡単には出来ない。
仕方なく該当の病棟のみを無人にして、帳を張ることで対応をすることになった。呪いの程度はさほど強くはないけれど、非術師がすぐ近くにいる状態というのは物凄く緊張した。
任務は特に問題なかったのに、最後の最後で三級の呪いが帳の外に飛び出した。三級とはいえ、ここは病院だ。万が一患者さんに憑りつこうものなら命が危うい。私は帳を飛び出しその呪いを追った。秘匿の観点から帳の外で祓うことは規約に反するかとも思ったけれど、人命には変えられない。

「ミョウジ!?」
「ごめん灰原くん!私行ってくる!」

三級を祓うのは容易かった。さほど大ごとにもならなかったし上手くいった。良かった。そう思ったその矢先だった。
突然背後から「邪悪な魔女め!」と女の人の金切り声が聞こえ、おなかに衝撃が走った。経験から、私は痛みを感じるより早く「刺された」ことを理解した。

「ミョウジ!!」

灰原くんの声が聞こえる身体を反転させてすぐに私を刺した人物を捕まえる。母親ほどの歳の女の人だった。すぐに灰原くんと補助監督の助けが入り、その女の人は拘束、私は救急搬送されることになった。


ぼんやりと視界が開けていく。霞みがかっていたような意識が晴れ、頭が次第に軽くなっていった。
目が覚めると、高専の医務室で横になっていた。どくどく流れていく血液の感覚は夢だったのか、いや、そんなはずがない。

「…っう……」

短い呻き声だけを上げる。すると、すぐ隣からガタガタガタ、と勢いよく物音がした。首だけをそちらに動かすと、ひどく険しい顔をした夏油がナマエを覗き込んでいた。

「げ、とう…先輩…」
「ミョウジ……!」

夏油はそのままぐっと眉間にしわを寄せごく小さな声で「よかった…」とこぼした。随分と心配させてしまったらしい。刺された腹部をさすってみたが、少しも痛みはない。念のためとばかりに包帯が巻かれているけれど、この感覚と高専の医務室という場所から考えて、家入の反転術式による治療を受けていると見える。

「君が怪我をして運び込まれたと聞いて…心臓が止まるかと思った」
「…すみません、ご心配おかけしました。でも反転術式で治してもらってるみたいですし、大丈夫です」

ナマエがへらりと笑いながらそう言ってみせ、のろのろと身体を起き上がらせた。怪我はさっぱり治っているが、まだどうやら麻酔が残っているらしい。少しだけ視界がふらつく。
心配させてしまった夏油を安心させようともう一度顔を向けると、ほとんど同じタイミングでドンっとすぐそばの壁に夏油が手をついた。

「大丈夫じゃないだろ…!」

投げられた声の大きさに思わずびくりと肩を震わせる。夏油はその反応も目に入っていないようで、荒々しい呼吸を整えることもなくそのまま言葉を続ける。

「こんな怪我をして、傷つけられて、大丈夫なわけないだろ!どうして君が傷つかなきゃならない!非術師を、弱いものを守る君が…!!」

夏油はぜえぜえと息を切らし、そこで初めてナマエが呆然と自分を見つめていることに気が付いたようだった。気まずそうに視線を逸らし、それから小さく「すまない…」と口にする。
彼はいつも温厚で、理性的な男だ。これほど感情を露にしている夏油を見るのは初めてだった。

「本当に、ご心配おかけしてすみませんでした。でも、私は平気ですから」

どんな言葉が夏油の慰めになるのかわからなかった。ナマエだって非術師から受ける不当な扱いや理不尽な暴力に憤りを感じないわけではない。けれどそれよりも、ここで自分の代わりに声を荒げる夏油にかけられる言葉が分からないことの方が、今は悔しくて仕方がなかった。


反転術式というものの凄さを感じたのは初めてではなかったが、今回ばかりは本当に死ぬかと思ったのに、それもほんの少し傷が残っただけですっかり元気になってしまった。
ナマエは騒動の2日後には通常通りの授業に戻り、組手などの稽古に勤しんだ。あの後すぐに夏油は任務に行ってしまって、ロクに話をすることが出来ていない。彼は大丈夫だろうか。怪我をした自分よりもよっぽど苦しそうに見えた。

「ミョウジ、本当に大丈夫?」
「あまり無理しないほうがいいですよ」
「大丈夫だってば!反転使ってもらったんだもん。逆に元気じゃないと硝子先輩に申し訳ないよ」

ナマエはぶんぶんと腕を振ってみせる。言葉のとおり、反転術式を施された身体は、麻酔さえ抜ければ至って健康体だった。刺されたときの痛みがなくなるわけではないけれど、怪我そのものだって任務に出ていれば何度も負っている。

「それに今回は私がもっとちゃんとしてれば怪我は避けられたんだし、鬱々してる時間あったら稽古しなきゃ」
「それはそうかもだけど……」

灰原と七海が顔を見合わせる。二人が特別気に掛ける理由は、ナマエを刺したのが「非術師」であるという一点である。
見えない人間の恐怖は当然だ。恐れられたり、時には別の禍々しいものを疑われて容赦のない言葉を掛けられたりすることもある。だが実際非術師から身体的な危害を加えられることは稀だ。大概の場合取次のようなことは補助監督がやってくれるし、戦闘訓練を受けているのだから、そう易々と攻撃を受けるわけにもいかない。
つまり今回の件は不運とナマエの不注意が引き起こしたことだと彼女は認識していた。

「ねぇ、灰原くんも七海くんも、夏油先輩のこと見かけた?」
「いえ、私は見ていませんが…」
「僕も見てないよ」

共有される呪術師の任務状況によると、朝の時点で夏油は今日午前中の一件しか請け負っていなかったはずだ。もう15時を回ろうというのに何処にも姿がないのは、そのまま至急で別の任務にでもかり出されているのだろうか。

「夏油先輩…大丈夫かなぁ」
「……どっちかというと、夏油さんがアナタに言いたい言葉なのでは?」
「まぁ…それは、そうなんだけど……」

七海の指摘はもっともだ。彼自身も今はあちこちに引っ張りだこで少しの時間でも休みたいはずである。ナマエが怪我を負ったとはいえ反転術式で治療されていることは家入から聞いているはずだし、それをわかっていて医務室で目覚めを待ってくれていた。そしてあれほど苛烈な言葉を吐き出すほど、自分のことを思ってくれていた。
夏油にどんな言葉をかければ良かったのか、未だに正解は見つけられていない。


夕方を過ぎてすっかり日が落ちても夏油は帰って来なかった。それだけ任務が長引いているということだろうか。夏油に連絡をしてみようかと思ったけれど、任務の邪魔になることを考えると気が進まない。ひょっとして五条なら夏油から何かを聞いているかもしれないと、ナマエは男子寮に向かった。

「五条先輩」

五条の寮室の前に立ち、扉をノックする。中から物音がして、すぐにがちゃりと扉が開き、スウェット姿の五条が顔を出した。

「ミョウジじゃん」
「あ、こ、こんばんは…。すみません、えっと、夏油先輩探してて…」
「傑?傑なら追加の任務淹入れられたって昼間メールあったけど…」

お前が一体傑に何の用だ、と言わんばかりの反応だ。しかも、実際聞かれても理由を持たないのだから、聞かれると少し対応に困る。
ナマエの心配とは裏腹に五条はそこまでの興味もなかったのか、追及してくることはなかった。
繁忙期に入り、五条と話す機会も明らかに減っていた。もともとそんなに交流があるわけではないが、彼もまたあちらこちらの任務に引っ張りだこである。

「そういやお前、非術師に刺されたんだって?」
「あ、はい。でも反転術式で治療してもらえたので今は平気です」
「無茶すんなよ。弱っちいんだから、お前」

五条がごく当然のようにそう言った。彼からしてみれば皆弱っちいと表現されてしまいそうだけれど、ナマエも漏れなくその一員である。くちは悪いがどことなく心配してくれているのだろうか、と受け止めナマエは「気を付けます」と相槌を打った。
五条の様子は繁忙期に入ってからもほとんど変わらない。激務で疲れた様子はあるにせよ、先日の夏油が夜のベンチで見せたようなひどい様子は見受けられない。なんだかそれも二人の差を目の当たりにするようで、ナマエは勝手に寂しい気持ちになった。

「五条先輩は…ひとりで寂しくないですか?」
「は?」
「あ、いや、ごめんなさい。何でもないです」

五条にこんなことを聞いて、それこそどうするつもりなのだろう。口をついた言葉を撤回すると、ナマエは「お邪魔しました」と五条の寮室をあとにしたのだった。


夏油はいつ戻ってくるだろうか。時刻はもう21時を回っている。二人で並んで座ったベンチに今度はひとりで座り、足をぷらぷらさせながら夏油の帰りを待った。繁忙期の疲れというものはナマエにももちろんあり、何か糸が途切れたようにぼうっと空を眺める。
肉体的な疲労もあったし、陰惨な現場を見なければならない精神的なものもあった。夜蛾のように誰かを助けられる呪術師になろうともがいてみても、救えるものは実際ごくわずかだ。

「はぁ…こんなこと考えても…仕方ないんだけどな…」

自分は自分にしかなれないとわかっていても、それをもどかしく思うことはある。もっと強い呪術師が現場を任されていたら結果が変わっていたのかと思ってしまうような任務は何度もあった。
そうひとりで思考をぐるぐる巡らせていると、ざりざりと砂を踏む音が聞えて来た。ぱっと顔を向ければ、暗がりの中を夏油が歩いてきているのが見えた。

「夏油先輩、おかえりなさい」
「ミョウジ……ああ、ただいま。こんなところで待っていてくれたのかい?」
「はい。追加の任務もお疲れさまでした」

ナマエがそう言えば、夏油は目元を緩ませてナマエの頭を静かに撫でた。その手のひらが大きくて、撫でられればそれだけで安心できる。そこから夏油を見上げると柔らかな表情の彼と目が合った。当たり前のことだけれど、医務室で見た険しい顔より、こちらのほうが何倍も好きだ。

「夏油先輩の手、おっきいですね」
「まぁ、男だからね」
「おっきくてあったかくて…すごく安心します」

じんわりと初夏のぬるい風が吹いていく。昼間は瑞々しく茂っている木々が今はひっそりと息をひそめていた。
ナマエの言葉に夏油が少し視線を逸らし、頭の上から手を取り去って、その手を握ると反対側の手を自分の額に宛てて頭を抱えた。

「…あんまりそういう、気を持たせることを言ってはいけないよ」
「夏油先輩だって散々私に意識させるようなことを言ったじゃないですか」

ナマエの反撃に夏油がぼそぼそと言い淀む。自分が良くてナマエがだめだなんてそんなのは理不尽だ。夏油は指の間からちらりとナマエを見下ろし、どうにか言い訳を並べていく。

「それは……君に私の方を見てほしかったからね」
「私だって同じです」

ナマエは夏油の制服の裾をぎゅっと掴んだ。ナマエの思わぬ行動に夏油が切れ長の目を見開く。その中に自分の姿が写っている気がした。
彼が酷く疲れていた夜の日、どうにかしてそれを癒すことが出来たらと思った、自分に何が出来るのかは分からない。けれど、自分に出来ることならなんでもしてあげたい。

「私も、夏油先輩のことが好きです」

この感情は愛だ。愛がどんなものか正しく知っているわけではないけれども、ナマエはこれを愛と名付けたいと思った。

「…参ったな…」

夏油が聞こえるか否かのぎりぎりの大きさでそう言って、ナマエの手首を引いた。ナマエはそれにあわせて一歩を歩み寄り、夏油の両腕の中にすっぽりと収まる。彼の逞しい胸板に耳をぴったりとくっつけて目を閉じると、その向こうにとうとうと流れる体温を感じた。

「ミョウジ、顔上げて」
「…はい」

声に呼ばれ顔を上げれば、夏油の顔が思ったよりもすぐそばにあった。頬を両手で掬い上げられ、その予感にまた目を閉じる。夏油の唇がゆっくりとナマエの唇に触れ、一度離れてまた触れてを何度か繰り返す。

「これ以上触れていたら、もっと触れたくなりそうだ」

ナマエはそう言う夏油の背中に恐る恐る腕を回し、それからゆったりと抱きしめた。かけられる言葉の正解は今日も分からない。けれども彼を抱きしめることが、今は少なくとも自分に出来ることのように思えた。






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