12 The tip of the iceberg


不安定なところに立っている。風に揺られれば、すぐにでも踏み外してしまいそうだと思う。
ときおり自分の決めたかたちが分からなくなる。常識と正しさで作った器から、何かが溢れてしまいそうになる。

「…ぐる!傑!」
「え、あ、ごめん。聞いてなかった」

いつの間にか悟が目の前でひらひらと手を振っていた。私は相当ぼうっとしていたらしい。
力んだ眉間をぐっと人差し指と親指で揉みほぐす。
悟は嬉々として昨日のバラエティの話をしていたけれど、正直上手く頭に入ってこない。大して悟は平常運転という感じで、何かどこか、少し遠くに感じた。


ナマエを遊びに誘った。今まで全員で連れ立ってどこかに行ったことはあったが、二人きりというのは初めてだった。女の子と歩くときってどうすれば良かったんだっけ、と考えてしまう程度には夏油も緊張していたし、ナマエはその何倍も緊張しているようだった。

「ここ。古い店だけど、すごく美味しいから期待してて」

ナマエを連れてきたのは、町の老舗洋食店だった。いかにも女性が好みそうなキラキラしたカフェだって知っていたけれど、ナマエとはそういうところよりも本当に自分が好きだと思っているものを共有したかった。
今日もオムライスは美味しかったが、心なしかいつもより美味い気がする。それはきっとナマエが目の前にいるからであって、本当はいつもと同じ味に違いない。
食事を終えて少し足を伸ばした代々木公園でナマエが「すごく美味しかったですけど、ちょっと意外でした」とこぼした。

「何がだい?」
「えっと、変な意味じゃないんですけど、夏油先輩ってなんだかもっとキラキラしてるカフェとか好きなのかなって思ってたので…」

彼女の考察は概ね正しい。きっと今までだったら女性の喜びそうな店を選んでいたと思う。そっちの方が間違いないだろうし、自分を曝け出して危険を冒す必要はないからだ。

「うーん、まぁ女の子の好きそうな可愛いカフェも知ってるけど…ミョウジにはそれよりも、私のお気に入りを知ってほしかったんだよね」

相手を知ろうとすることは、同時に自分が知られるかもしれないと覚悟することだと思う。今までそんなことを本気で考えたことはなかったけれど、ナマエのことは、自分のことを曝け出してでも知りたいと思った。

「いつかミョウジのお気に入りの店にも連れて行ってほしいな」
「…わ、私のお気に入りは地元にしかなくて…それでも良ければ…」
「いいね、ミョウジの地元、興味ある」

特に深い意味はないのだろうけれど、まるで自分ともっと深く長く付き合おうと思ってくれているみたいに聞こえる。考えすぎなだけかもしれないが、思わず口角が緩んだ。
だらしなく緩んでしまうのを悟られないように「ちょっと休憩しようか」などと言ってコーヒースタンドで飲み物を買ってくると申し出た。背を向けてから両手で口を覆い、だらしない顔をなんとかその下で矯正する。
無事にアイスティーをふたつ購入して戻ると、ナマエが見知らぬ男に話しかけられていた。足早にナマエの元に戻る。

「お待たせ」

ナンパの類なら容赦しないが、もしもナマエの友人だった場合のことを考えて目一杯顔に笑みを貼り付ける。しかしナマエの顔はどうにも引き攣っていて、少なくとも彼女にとって良い知人というわけではなさそうだ。

「お友達かい?」
「あ、あの…中学の同級生で…」
「え、なにまさかミョウジのカレシ?まさかンなことないか!」

ナマエの言葉を意図的に遮り、同級生だという男はナマエをあげつらうようにして「コイツ高校デビューなんすよ」だとか「クラスでも地味で存在感とかなくて」だとかと矢継ぎ早に言った。しかも極めつけに「中2んとき告ってきたんすけどマジ爆笑みたいな」とナマエのことをせせら笑う。
大変残念なことだが、中学の頃のナマエというのは人を見る目がなかったらしい。こんな男に告白をするなんて。

「で、なにが笑えるんですか?」

穏便に言おうと努めたつもりだったけれど、思いのほか声は低く、そしてひどく冷えていた。弱者に対し、非術師に対して威圧するような真似はいけない、と頭で考えているはずなのに、身体は全く逆の反応をしてしまう。
これ以上ここにいると本当に手が出てしまいそうな気がして、夏油はナマエの腰を抱くと「ナマエ、行こうか」とその場を立ち去った。


今年の繁忙期はいつにもまして凄まじいらしい。比較対象が去年と一昨年しかないが、それにしても確かに高専内は火の車だった。
夏油は正式に特級術師というラベルを貼られることになった。一級超級の能力を有しているからという建前だが、身の内に取り込んだ呪霊が200体を超えたという点で危険視されるようになったというのが本当のところだろう。
これは誰にも申告していないことだが、取り込んだ呪霊は300体をゆうに超えていた。それどころか、もう少しで400体に達しようというところである。

「言ってたらとんでもない監視ついてたかもな…」

どうやらこれは相当異常なスピードらしい。呪霊操術を使う術師にとって取り込んだ呪霊の数というものはそのものが戦闘力だ。いくらそこまで強力な呪霊ばかりでないとはいえ、数の力というものは凄まじい。万が一夏油が他の呪術師と戦うなんてことがあったら、彼自身の戦闘能力も含めて厳しい戦いになるだろう。五条悟という特例はいるけれども。

「はぁ……さすがに、キツい…」

その日の任務は、少し夏油の気を重くした。三件の任務があり、初めに向かった任務は前任の二級術師が命を落としたことにより一級案件に繰り上げられたものだった。資料によれば、その呪術師はほとんど遺体が残らなかったらしい。
そのあとに向かった任務では、非術師に酷い罵声を浴びせられた。事前の連絡が上手く行き届いていなかったのか、夏油のことを呪いの加害者であると勘違いしたようだ。補助監督がすかさず仲裁してくれたおかげでどうにか大ごとにはならなかった。
もう自分の寮室にも戻る気になれず、夏油が中庭のベンチで項垂れていると、トトトと近寄る足音があった。

「あ、あの…夏油先輩…」
「ん……あぁ、ミョウジか…お疲れ」

ゆらりと顔を上げる。「どうしたんだい、こんな夜更けに出歩いて」と言いながら、疲労で構いもしていなかった髪を解いて結いなおした。格好悪いところは見せられないと立ち上がろうするも、思いのほか疲れが足に来ていて踏ん張り損ね、そのまま同じところに尻もちをつく。あまりの醜態に「カッコ悪いな」と自嘲が漏れた。

「あの、隣座ってもいいですか?」
「もちろん」

右側を空けると、そこへナマエが腰を下ろした。隣り合って座り、同じように暗闇を眺める。ナマエは繁忙期について話題を振ってきたけれど、頭はぼんやりとしていた。

「私もそれなりにあちこち使われてるけど…悟よりはマシかな」

だから思わず、頭の中がそのまま出てしまった。ナマエが「五条先輩?」と聞き返し、夏油はそれを肯定する。
いままで二人で最強だと自称していたけれど、このところはそう思えない。

「夏油先輩だって強いじゃないですか」
「…え?でも私は……」
「だって、夏油先輩はいつも優しくて正しくて…誰かを守れる強さがあるじゃないですか」

ナマエの言葉がぐっと強くなる。それから膝の上で拳を握ると「私になにか…できることはありませんか……」と途切れそうな声で吐き出した。
まさかそんなことを言ってくれるとは思わず、思わずふっと力が抜けた。

「……じゃあ、肩を貸してくれるかい?」
「肩ですか?」
「うん…すごく疲れたから…少しだけ眠りたい」

ナマエが頷くのを見てから、そっと彼女の肩口に頬を寄せた。ナマエの体温が移ってくる。心地いいな、と目を閉じると「あの」と隣でナマエが口を開いた。

「夏油先輩、肩よりこっちの方が休めるんじゃないですか?」
「え?」
「肩だと不安定そうだけど…その点こっちだったら体重かけてもバランス悪くありませんし」

さも妙案だ、というような調子で勧める彼女は、それがいわゆる膝枕になることに気が付いているのか。真相のほどは分からないが、甘えない手はないだろう。お言葉に甘えて、という常套句のあと、夏油はナマエの太ももに頭を乗せる。
ナマエの足はかちこちに足が硬直して、今更になって「げ、夏油先輩…この体勢……」と怖気づいたものだから「ミョウジが言ったんだよ、こっちの方が休めるって」と言ってやれば、もにょもにょと弱気に反論した。

「フフ…でも君が言い出したことなんだから、しっかり私の枕になってもらわないとね」

少し意地悪く言ってみせる。緊張していてもナマエの太ももは柔らかく、どこか安らぎを与えてくれるものがある。
言うつもりはなかったのに、気が付けば夏油の口は「今日さ、任務、ひとりで…」と話し始めてしまっていた。
最近は五条とバディではなく、単独任務ばかりになったこと、今日の任務で非術師と揉めそうになったり、仲間の死に接したりしたこと。言葉は出てくるのに、それらに対してどんな感情が乗っているのか自分でもよくわからなかった。

「悟だったらもっと上手くできたのかとか…悟ならこんなことに悩まずに済むのかとか…そんなことばかり考えるよ」
「それは…」
「わかってるんだ、こんなことを言っても私は私でしかない。六眼はないし、無下限呪術は使えない」

夏油の手がギュッと固く握られる。言ったところで詮無いことだ。奥歯をぎりっと噛むと、ナマエの指が静かにのび、夏油の拳を上から包んだ。

「私、小学校6年生のとき、神隠しに遭ったんです。神隠しって言っても本当は呪霊の仕業だったんですけど」

ナマエはゆっくり口を開く。祖母の家に遊びに行った際、呪霊の被害に遭ったこと、それを夜蛾が助けてくれたこと、その事件をきっかけに呪術師を志し、誰かを助けたいと思うようになったことを話した。そして、思い描いた夜蛾のような呪術師には少しも近づけないことも。

「だけど、最近はそれでもいいのかなって思います」
「どうして?」
「……だって私は私にしかなれないから」

ナマエはいつの間にか解かれた夏油の拳を、まるで小さい子供を寝かしつけるかのように規則正しくとんとんと叩いた。

「誰かにはなれないけど、理想の自分にはなれるかもしれないなって、そう思うようにしてるんです」

こんな話を今まで彼女としたこともなかったのだから、こうしてナマエの強さを肌で感じるのは初めてのことだった。
これは呪術師としての能力よりもよっぽど得難い、自分の力で上を向くことのできる強さだ。

「…ミョウジは…強いな」
「そんなことないです。強くなれたらいいなって、思ってるだけです」

ナマエの体温を感じていると、どこか全身の力が抜けていくようだった。胸の器に何かが満たされていく。だんだんと音が遠くなり、夏油はいつの間にか眠りに落ちてしまっていた。
微睡む意識の中で、ナマエが柔らかな声で語りかけていた。


ナマエが大怪我をして運び込まれた、という話を聞いたのは、夏油が任務を終えて帰ってきたときのことだった。門のところで灰原が待ち構えていて、何ごとかと聞けばそんなことが返ってきた。
頭にカッと血が上った。灰原との話もそこそこに、ナマエが休んでいるという医務室に走る。どたどたと普段ならあり得ない粗雑さで、大きな音が立つのもお構いなしだった。辿り着いた医務室の戸を開けると、ベッドのそばに備えてある丸椅子に座った家入が音に驚いて肩を震わせる。

「おい夏油、怪我人が───」
「ミョウジは!?」
「…無事だよ。腹部刺されてかなりヤバかったけど、反転で治ってるし容体も安定してる」

夏油は無事という言葉にホッと胸をなでおろしながら、ナマエの横たわるベッドのそばまで歩み寄った。確かに寝顔は苦しそうなものではなく、点滴は打たれているけれど他の医療器具はくっついていない。

「非術師だって」
「何?」
「だから、ミョウジを刺したの。今日の任務先に面倒なカルトが居合わせたの。で、しかもその中にちょっとだけ見えるやつがいたらしくて、ミョウジのこと魔女だって言って刺したんだと」

家入がナマエが刺されるに至った顛末を簡単に説明していく。曰く、今日の任務地である病院にカルト団体の女が入院していたらしい。任務にあたった病棟は一時的に閉鎖していたが、取り溢した呪霊がその外に出た。
被害が出る前にとナマエが慌ててそれを追って祓除したものの、それをその女が目撃していたようで、隠し持っていた刃物でナマエを「邪悪な魔女め!」と糾弾して襲い掛かったのだという。

「クソ…なんでミョウジが…」
「とりあえずその場で拘束されて警察も呼んだみたいだけど、任務のことが絡んでるから立件するとかは難しそうらしいよ」

呪術の存在は、一般的に秘匿されている。それは見えない人間の安寧のためであり、呪術界の安定のためである。つまり任務中に起きたことはすべて一般に知られることはない、知られてはいけないということだ。
ナマエを刺したという犯人もいくらナマエが妙な術を使ったと言ったところで精神異常者扱いされるだけだし、逆に言うと司法ではその女を裁くことは出来ない。

「…ありがとう、硝子」
「なんでアンタが礼言うのよ」
「そりゃ言うよ。ミョウジにもしものことがあったら…私はどうにかなっていた」

夏油はそっと手の甲でナマエの頬を撫でた。大丈夫だ、温かい。生きている。
呪術は、非術師を守るためにある。与えられた力は弱いものを守るために使われるべきだ。弱いもの。弱いものとはなんだろうか。弱いものというのは、本当に非術師のことをいうのだろうか。
どうして自分たちが、彼女が損なわれなければいけないんだ。弱いものを守ろうとする、彼女が。






- ナノ -