11 I have a crush on you.



学年が上がっても、基本的に変わることはあんまりない。教室は有り余っているのだから進級で移動することもないし、寮室だって変わらない。授業の内容や実習の内容は変化するけれど、それは常に変化しているのだから決定的に「ここから」という区切りはない。
そんな高専での生活の中、珍しく明確な変化がある。後輩が増えること、だ。

「伊地知くんおはよう」
「あっ、お、おはようございます…」

彼の名前は伊地知潔高。今年唯一の新入生である。少人数の高専でも、ひとりというのは多少珍しいことらしい。こうなると組手も出来ないし同学年で任務というわけにもいかない。夜蛾先生からの事前の説明で、伊地知くんも時々私たちの学年の実習に同行することになるだろうと聞かされていた。

「わからないことがあったら何でも言ってね…って、言っても私も全然知らないことばっかりなんだけど」
「ありがとうございます…ミョウジ先輩」

ミョウジ先輩、という響きは少しくすぐったかった。中学の時も実質帰宅部のような生活を送っていたから、後輩らしい後輩の存在というのはいままでいたことがなかった。
今まで硝子先輩や夏油先輩、五条先輩のことを何度となく先輩と呼んできたけれども、それを呼ばれる立場になるというのは不思議なものだ。


繁忙期が始まった。噂によると、今年はかなり厳しいらしい。昨年に起きた災害や今年に入って加速する世界情勢の不安定化というのも、呪霊を増やしている一因のようだ。呪いというものは人間の負の感情の澱のようなものである。こうして大きな災害や事件があると、それをきっかけとして例年以上に呪いが観測されるものなのだ。

「はぁ…つっかれたぁ…」
「はは、今日のヤバかったね」
「ほんとだよ。こんなのばっかりだったら絶対そのうち死ぬ…」

ナマエはその日、灰原と二人で任務に出ていた。七海は例の新入生、伊地知と二人で現場入りだ。入学早々そこそこの現場に回されることになっている伊地知は非常に不運だけれども、現在七海は準一級術師の身分なので、準二級のナマエや灰原と共に任務に出るよりは安全性は保障される。

「僕らもヤバいけど、先輩たちもっとヤバいって」
「あー、確かに…。夏油先輩もう特級になっちゃったもんね」

一級超級として持て余されていた夏油傑は、ついにこの春から正式に特級術師の名を冠することになった。これは単に夏油の能力の高さを評価されたというだけではない。その能力を危険視されているという側面も大いにあった。飲み込んだ呪霊の数はもう200体を超えるらしい。

「夏油先輩、最近会えてないな」

ぽつんとナマエがこぼした。一緒に渋谷に行ったあの日以来、夏油に会うといっても本当にすれ違う程度で、まともに向かい合って話をする余裕は少しもなかった。それは五条にも言えることであるが、このところ長い時間を一緒に過ごした夏油のことはより気にかかってしまった。


数日後の晩、まだ肌寒い中をナマエは薄手のパーカーを羽織ってトボトボと歩いていた。今日の現場は陰惨だった。都内のはずれのとある廃ビル。
コンクリート造りで、築40年程度に見える。執念、怨念、情念。あらゆる負の感情が渦巻き、呪霊は蜘蛛のような見た目をしていた。
その廃ビルでは、裏社会の人買いに攫われてきた子供が家畜同然の生活を送っていたという。もうその組織自体が解体されて十年以上は経つらしいけれど、部屋の中に渦巻くものは未だ生々しくその陰惨さを語っていた。子供の骨や皮でできた首輪、焼きごて、金槌。それから調教に使った鞭なんかも残っていた。

「…はぁ、きつ…」

呪い自体は、灰原と連係プレーで何とか祓除することが出来た。それでもその痛ましい現場は見るたび吐き気がしそうだった。
呪いというものは負の感情の澱。つまりそこには人間の醜悪さや醜さ、狡猾さなんかを目にすることがほとんどだ。慣れなければいけない、と思ってはいるけれど、一年経ってもまだ、生々しい現場を見ると眠れないことがあった。

「…あれ、夏油先輩?」

ふと、視線の先に人影が見えた。制服姿のままで、中庭のベンチに座って項垂れている。確か今日も夏油は任務だった。どこか具合でもおかしいのだろうかとそっと近づく。

「あ、あの…夏油先輩…」
「ん……あぁ、ミョウジか…お疲れ」

ゆらりと上げられた視線は随分と疲労が見えて、しかも声も少し掠れている。どうにかナマエに対していつも通りを装おうとしているが、無理をしているというのは明白だった。

「どうしたんだい、こんな夜更けに出歩いて」
「えっと、ちょっと眠れなくって…夏油先輩こそ、こんなところで…」

夏油はにっこりと口角を上げてみせると、上体を起こして髪をほどき、それからまた綺麗にまとめ上げた。それによって多少はきりりと見えるけれど、やはり疲労は少しも隠せていない。

「私はさっき帰って来たところ。なんていうか…まぁ少し、休憩してから寮に戻ろうかと思って」

夏油が立ち上がろうとして、足元がふらついたのか体勢を崩し、そのまま同じ場所にドッと尻もちをつくように腰を下ろすことになった。
夏油は自分たちなんかよりよっぽど激務だ。彼の任務には一年の初めの事に数回ついていっただけだけれども、そのころよりも比較にならないほど危険な任務についていることは聞かなくたって分かる。夏油は「カッコ悪いな」と自嘲した。

「あの、隣座ってもいいですか?」
「もちろん」

ナマエがそう言えば、夏油が少しだけ左にずれる。開けられたスペースに腰を下ろし、夏油と同じように前を向いた。建物が近ければその明かりがあるところだけども、ここには生憎近くに建物もない。街灯のあまり完備されていない高専の中は住宅街よりも暗かった。

「繁忙期、毎年こんな感じなんですか?」
「いや……今年は去年より忙しいよ」
「そうなんですね…準二級の私でもてんてこまいだから、夏油先輩なんてもっと忙しいですよね」

ナマエは話題を探した。普段から沈黙が怖いというわけではなかったけれど、今日はなんだか、話しかけていなくては夏油がどこかに行ってしまうのではないかと思った。

「私もそれなりにあちこち使われてるけど…悟よりはマシかな」
「五条先輩?」
「そう。悟はもうこのところワンマンっていうか、向かうところ敵なしっていうか、まぁ私なんかよりよっぽど強いから」

ナマエはぎゅっと眉間にシワを寄せた。夏油が五条のことをこんなふうに言うのを見るのは初めてだった。彼らはずっと「二人で最強」だったのだ。今まで何度もそう思い知った。なのにこれじゃまるで、五条が「一人でも最強」みたいだ。

「夏油先輩も強いじゃないですか」
「…え?でも私は……」
「だって、夏油先輩はいつも優しくて正しくて…誰かを守れる強さがあるじゃないですか」

気が付くと、そんなことを口走っていた。夏油傑という男は、弱いものを思いやれる男である。親切を当たり前に分け与え、自分の信じる正しさを真っ直ぐに示せる男である。
ナマエは膝の上でぐっと握った拳に力を籠める。自分がもっと強ければ、彼の助けになれたのだろうか。自分が夏油のために出来ることは何かないのだろうか。

「私になにか…できることはありませんか……」

なんとか吐き出した声は、途切れそうなほど脆かった。自分が無力だなんてことは充分知っている。夏油より優れているところなんてひとつもないと思う。だけどなにか、なにか彼のために出来ることがあれば、何だってしてやりたいと思う。
ナマエのことをぽかんと見つめたあと、夏油はふっと頬を緩める。それは先ほどまでの自嘲的なものではなくて、いつもの彼の笑い方だった。

「……じゃあ、肩を貸してくれるかい?」
「肩ですか?」
「うん…すごく疲れたから…少しだけ眠りたい」

ナマエがこくこくと頷くと、夏油はやんわりとナマエの肩口に頬を寄せる。前髪が首元に触れて少しくすぐったい。夏油は肩を貸してくれと言ったけれども、少しも体重をかけていなかった。こんな体勢ではきっとかえって疲れてしまう。

「あの…夏油先輩、肩よりこっちの方が休めるんじゃないですか?」
「え?」
「肩だと不安定そうだけど…その点こっちだったら体重かけてもバランス悪くありませんし」

ナマエはぽんぽんと自分の太ももを叩く。彼は背が高いから真横にはなれないだろうが、不安定な肩に寄りかかるより何倍もいいはずだ。夏油はぱちぱちとまばたきをした後に「じゃあお言葉に甘えて」と言ってナマエの太ももに頭を乗せる。夏油の右耳がぴったりと触れた。
膝枕というものを生まれて初めて人にしたけれど、これはこんなにも恥ずかしいものなのか。かちこちに足が硬直して、きっと寝心地は最悪だろう。

「げ、夏油先輩…この体勢……」
「ミョウジが言ったんだよ、こっちの方が休めるって」
「そ、そうですけど…思ってたより恥ずかしくて…」

彼の言う通りだが、想像するのとやってみるのでは天と地ほどの差がある。夏油の吐息が太ももに触れそうでそわそわ落ち着かない。身じろぎされたらくすぐったくて変な声が出てしまいそうだ。

「フフ…でも君が言い出したことなんだから、しっかり私の枕になってもらわないとね」

夏油は少し意地悪くそう言って、少しも譲らなかった。確かに自分が言い出したことなのだからここは甘んじて耐えるべきである。

「今日さ、任務、ひとりで…」
「はい」
「最近…多いんだ。前は悟とバディだったのに、今はお互い単独任務ばっかりで」

夏油が小さな声でぽつぽつと語りだした。聞き逃してしまわないように注意深く耳を傾ける。今日の現場が三件あって、そのうちのひとつで非術師と揉めそうになったこと、補助監督が仲裁してくれたおかげで大ごとにはならなかったこと、それから別の案件では前任の呪術師が命を落としたこと。
夏油の声は淡々としているばかりで少しも感情が聞こえてこない。一体何を思って語りかけているのだろう。それをわかりたい。

「悟だったらもっと上手くできたのかとか…悟ならこんなことに悩まずに済むのかとか…そんなことばかり考えるよ」
「それは…」
「わかってるんだ、こんなことを言っても私は私でしかない。六眼はないし、無下限呪術は使えない」

ナマエの膝に添えられた夏油の手がギュッと固く握られる。握る力が強すぎるせいで血が止まってうっすらと白くなる。
ナマエは思わずその拳に手を伸ばし、遠慮がちにそっと上から包んだ。その行動に驚いたのか、夏油の力が緩められる。

「私、小学校6年生のとき、神隠しに遭ったんです。神隠しって言っても本当は呪霊の仕業だったんですけど」

ナマエが祖母の家で過ごした夏のことを思い出しながら口を開いた。夏の暑い日。じりじりと太陽は焼け付くようだけども、木陰に入ると少し涼しく感じられた。蝉の鳴き声が洪水のようで、少しの音なら掻き消してしまうような日だった。

「別の任務で近くに来ていた夜蛾先生がたまたま来てくれて、それで領域に入り込んだ私を助けてくれたんです。それから夜蛾先生は私のスーパーヒーローです。私もこんなふうに誰かを助けたいって、そう思って高専に入りました」

夜蛾が来ていなければ、間違いなくあのまま死んでいた。命を救われたのはもちろんだけど、それと同時に人生を変える強烈な経験になった。
けれど現実は甘くない。自分には夜蛾のような才能はないし、スーパーヒーローにはなれない。ここに来てすぐに思い知った。

「でも全然ダメで、私弱いから夜蛾先生のようになんてとてもじゃないけどなれないし。だけど、最近はそれでもいいのかなって思います」

淡々と話をしていたナマエに夏油が「どうして?」と相槌を打つ。答えは簡単だった。とんとんと規則正しくナマエが夏油のゆるく解かれていく拳を叩いた。

「だって私は私にしかなれないから」

人間は生まれた時から自分でしかない。どれだけ変わっても他人になり替わることはできない。当たり前のことで、どうしようもなくもどかしいことだ。もしも自分があの子だったら、もしも自分が彼だったら。そう誰かを羨んでしまうのは止められない。

「誰かにはなれないけど、理想の自分にはなれるかもしれないなって、そう思うようにしてるんです」
「…ミョウジは…強いな」
「そんなことないです。強くなれたらいいなって、思ってるだけです」

夏油の率直な言葉にそう返す。人から見れば諦めのひとつのように見えるのかもしれない。けれどナマエは自分が中学のころとはまるで変わることが出来たのだから、そうして変わっていくことは出来るのだと信じている。

「夏油先輩は高専を選んだきっかけとかあるんですか?」

ナマエは視線を夏油に向けて尋ねてみたけれど、返事がない。もう一度小さく「夏油先輩?」と呼びかける。
返事の代わりに返ってきたのは、すうすうと小さな寝息だった。こんなところで寝落ちるなんて、本当に相当疲れていたのだろう。明日からも過酷な任務がある。
ナマエはそっと夏油の頭に手を伸ばし、起こしてしまわないように慎重に撫でた。寝顔は普段の顔よりも随分いとけなくみえる。

「……私も、夏油先輩が好きです」

声が夜の中に溶けていく。気が付いたら彼は隣に立っていて、それがどうにも心地よかった。
彼が疲れているときには癒したいと思うし、何か力になれるならしてやりたいと思う。笑顔でいてくれるのが嬉しい。辛そうな顔をしていると心配になる。
この感情を愛と呼ばずに、一体何と呼べばいいんだろう。






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