08 伏魔殿の面影


夏油にもらったマスコットは、ナマエの部屋のベッドサイドにちょこんと飾られている。あれからも夏油が登校してきた日には当然のように一緒に下校したし、彼が登校しない日には学校で孤立するようになった。夏油は前と違ってほとんど毎日学校に来てくれたし、彼と過ごす時間が増えるのは嬉しかった。

「ナマエちゃん、学校で私とばかり話しているのはつまらなくないかい?」
「全然。夏油くんと話すの楽しいよ」

夏油が時おりこうして試すかのように言ってくるのが疑問ではあったけれど、そのたびにナマエは迷わずに否定した。9月から始まった新学期から、もう2カ月と半分が経過していた。
その日も夏油と一緒に図書館で過ごし、一緒にナマエのマンションの方へと並んで歩いた。下校時間ぎりぎりまで図書室で過ごしていたせいで、外は真っ暗だ。

「この辺ってイルミネーションすごいんだね」
「ああ、そうみたいだね。ちょっと大きな戸建てが集まってるからかな」
「そうなんだ。わ、あのサンタ動いてる」
「気合入ってるなぁ」

マンションまでの道のりでクリスマスのイルミネーションが盛り上がっている通りがあって、暗い中だとキラキラとLEDの明りが昼間のように輝いていた。稼働するサンタの人形をベランダに置いている家まであった。

「ナマエちゃん、イルミネーション好き?」
「うーん、考えたことなかったけど…キラキラしてるのを見るのは好きかも」
「そっか。じゃあさ、次の週末祥楽寺までツリー見に行かない?」
「行きたいっ」

夏油の提案を前のめりで受け入れれば、夏油がその勢いに思わずといった調子で笑った。恥ずかしい。暗いからまだいいけれど、と思ったが、そもそも真っ赤になっている顔なんて彼に何度も見られているから今更のことかもしれない。
これってデート?と聞きたい気持ちと、聞いてしまってなにかが崩れてしまったらどうしようという気持ちがせめぎ合って結局なにも言えなくなる。夏油は見透かしたようなタイミングでナマエの手をそっと奪っていった。


待ちに待った週末は、なるべくお洒落をして何度も姿見で自分の姿にへんなところがないかを確認した。彼の私服はしっかり見たことがないけれど、一度書店で見かけたときにはすごく大人っぽく見えたし、自分もその隣に立っておかしくないようにいつもより大人っぽいコーディネートをした。

「へんなとこ…ないよね?」

父には友人と遊ぶから帰りが遅くなる旨を連絡している。べつに後ろめたいことをしているわけではないのに、相手が異性だというのは何となく言いづらかった。
少し早いかもしれないけれど、遅れるよりはいいだろう。そう思って家を出て、最寄りの駅から待ち合わせの祥楽寺駅まで電車で移動をした。電車の窓に映る自分を見て、何度も前髪を直した。
東口の待ち合わせスポットになっている銅像の前に行くと、まだ夏油は着いていないようだった。時々手鏡を出してまた前髪を直して、彼の到着を待つ。

「ねぇねぇ、おねーさんひとり?」

不意にそんな声が聞こえてきて、こんなところでナンパか。と声をかけられているだろう女性に同情した。ここは待ち合わせスポットなのだから、突っ立っている人間の多くが待ち人を待っている状態である。ナンパについていく程暇な人間はこんなところにいないだろう。

「ねぇ、おねーさん?」

声をかけられている女性は無視を決め込んでいるのか、男がしつこく同じ台詞を繰り返した。そこからまた「ねぇ」と男が言って、それと同時にナマエの手首が掴まれる。

「えっ…!」
「おねーさん、無視はダメっしょ」

隣で別の女性に声をかけていたと思っていたナンパ男は、自分に向かって声をかけていたらしい。ナンパなんてされると思っていなかったから驚いて、対応が後手後手に回ってしまう。男は単独ではなく二人組のようで、あからさまにチンピラと言わんばかりの品のない恰好でごついベルトを締めていた。

「あ、あの、待ち合わせしてるので…」
「えー、いいじゃん。一緒に遊ぼうよ。待ってるの友達?女の子?」
「ち、ちが…っ」

ナンパなんてされても毅然として返すことが出来ると思っていたのに、実際こうして目の前に立たれると上手く口が回らなかった。男の力は想像以上に強く、振り払おうとしても出来るかどうかわからない。白昼堂々なのだから声を上げれば助けてくれる人もいるかもしれないが、喉がカラカラに乾いて上手く声が出なかった。

「行こ。ほら、奢るし」
「や、やめて…」

男に両側をがっちり固められ、肩を無理やりに抱かれてついに逃げ道がなくなった。助けて、夏油くん。胸の中で必死に彼を呼んで、するとその声に呼ばれるがの如きタイミングで夏油の声が降りかかる。

「私のツレになにか用かな?」
「ア?」
「ごめんねナマエちゃん、遅くなっちゃって」

夏油は少し強引にナマエの身体を引くと、自分の腕の中にすっぽりと収める。いつの間にか潤んでいた視界で彼を見上げれば、いつも通り口角を上げた穏やかな表情で男たちを見ていた。

「なんだよ、クソ、男連れかよ」
「ははっ、そんなガキより俺たちの方が楽しませてやれるぜ?」

夏油を前にして男たちは強気なままで、夏油の空気がひんやり冷えていくのを感じた。ナマエを後ろに庇うように立ち、夏油がこきりと首を鳴らす。

「ハァ……お前ら、さっさと消えてくれないか」
「アァ?」
「わからないか?さっさと消えれば彼女に汚い手で触ったことを見逃してやろうって言ってるんだ」

聞いたことのない冷たい声が彼から発せられる。自分に向けられているわけではないのに思わずヒュッと息をのんで、恐れを誤魔化すように彼のコートを握った。二人の男は食ってかかろうとしたが、なにかに気が付いたように突然「お、おい…こいつってもしかして…」「は、うそだろ?」とコソコソ揉めだした。

「言い訳なら聞くけど…どうする?」
「え、あ、いや、なんでもないですッ!」
「すんませんでしたッ…!」

男たちの態度がころりと変わって、大慌てでその場から逃げ出した。それを見届けてから夏油が息を着く気配がして、びくりと思わず身を縮める。

「ナマエちゃんごめんね、怖かっただろう」
「え、あ……」

振り返った夏油はいつもナマエに見せる顔のままで、一瞬なんと言えばいいのか躊躇ってしまった。ナマエは辛うじてこくこく頷くと、夏油は切れ長の目を更に細めて「行こっか」と言ってナマエの指先を絡め取る。

「少し歩いたファッションビルのとこに今年から大きいツリーが飾ってあるんだって」
「そうなんだ」
「駅のツリーも夜になったらライトアップされるし、ナマエちゃんの好みのツリー探そうか」

彼の穏やかな声を聞いていると、次第にいつもの調子を取り戻すことが出来た。彼の怖い声に驚いたんじゃない。強引なナンパに驚いただけだ。ナマエが無意識のうちにぎゅっと握る手の力を強くすると、夏油もそれに応じるように握る手の力を強くした。隙間なくぴったり繋がっている気がする。そうだ、彼が怖いだなんて、そんなことあるはずがない。


ファッションビル、駅のコンコース、大通りの公園。それから店先に飾られている小さなツリーまで。カフェでの休憩を挟みながら街中をあれこれと散策した。クリスマスにまつわる豆知識を夏油が披露して、彼が言えば蘊蓄も嫌な感じがしないのだから不思議だった。

「ナマエちゃん、クリスマス当日、予定ある?」

不意に夏油がナマエに尋ねた。これはひょっとしなくてもクリスマスデートの誘いじゃないだろうか。ナマエは期待してしまう気持ちを押さえこみながらなんとか「な、ないよ!」と返事をしたが、声が裏返ってしまった。

「ふふっ、じゃあ、私とデートしない?」
「デ、デート…?」
「そう、デート」

思わず復唱して、すると夏油が当たり前のように肯定する。以前彼の友人だという五条に遭遇した際、言い訳のように「私デート中なんだけど」なんて言っていたが、あの時は踏み込むことが出来なかった。それがいまこうして、面と向かってデートに誘われている。

「だめ?」
「だめくない…!え、あと…お願い、します…」
「よかった」

変な日本語で勢いよく返して、そこから言葉は尻すぼみになる。視線がうろうろ泳いで最終的に地面に落ちていった。頭上では夏油が笑っているような気配がするから恥ずかしい。それからまた彼は何食わぬ顔で歩き出して、ナマエもそれに続いた。


クリスマスまではもうすぐだ。デートに行けるような洋服のバリエーションがクローゼットにないことに気付き、ナマエは新しく洋服を買いに行くことにした。
日曜日、祥楽寺駅よりも少し大きな繁華街に向かう。祥楽寺よりは女性向けのファッションショップがたくさんあって、こちらの方が好みのお店がありそうだったし、それに祥楽寺駅ではひょっとしたら学校の人間に会うかもしれないと思ったのがこちらを選んだ理由だった。

「うーん、あれ、公園口…だよね?」

スマホのマップを見ながら事前に調べた店舗情報と照らし合わせる。地図を読むのはあまり得意じゃない。マップアプリよりもかなり簡略化された店舗情報ページにあるマップはどっちが上だか下だかわからなくなる。
スマホをぐるぐる回しながら確認していると、目の前にぬっと影がかかる。先日のナンパのことを思い出して怖くなって、恐る恐ると顔をあげた。

「あ」
「お前、傑と一緒にいた女じゃん」

そこに立っていたのはナンパなどではなく、白髪の美貌の男、夏油の友人だという五条悟だった。夏油も一緒だから声をかけてきたのかと思ったのに、周囲に夏油の姿はないようだ。恐らく夏油よりも彼は少し背が高く、壁のような圧力を感じる。

「なに、傑と待ち合わせ?」
「え、いや、違います…けど…」

五条は聞いたわりに「ふぅん」と興味なさそうに相槌を打ってきた。興味をなくして立ち去るかと思ったのに、彼は動こうとしない。「あ、あの…?」と疑問符をつけながら声をかける。

「お前、傑と付き合ってんの?」
「え!?つ、付き合ってないっ!…です…」
「声デッカ…」

思わず大声で返してしまって、五条がきーんと耳鳴りでもしたかのように耳を塞ぐ。咄嗟に口を塞いだけれど、時すでに遅しだ。「すみません…」と申し訳なさの滲む声で謝った。

「ま、でも、少なくともそっちはそういうつもりなんだな」

五条という男はデリカシーが完全に欠如しているのか、それとも単に性格が悪いのか、ナマエの真っ赤になった顔の意味を読み取って意地の悪いことを言ってきた。肯定するのは憚られるが、否定したところでそんなものは嘘だとすぐにばれてしまうだろう。五条は依然としてじろじろとナマエのことを見下ろしている。

「えっとあの…なにか…?」
「べつに。あいつ女のシュミ変わったのかと思って」
「え…?」

しれっととんでもない爆弾を落とされナマエは絶句した。彼のデリカシーの無さではない。その内容にだ。つまるところ、自分は夏油の好みではないということを突きつけられていた。
デート、なんて思わせぶりな言葉に浮かれていたけれど、彼にとっては何でもない日常のひとコマということだろうか。自分がひとりで盛り上がってしまっていただけだったのか。

「あ、あの……夏油くんの好みって…どんな女のひと…なんですか…?」
「あ?」

思わず口がすべった。五条がサングラスをずらして珍獣を見るかのようにじろじろと観察してくる。

「気になる?」

にやぁ、と口角が上がり、不味いことを言ってしまったか、とたじろぐ。五条はぐんと一歩距離を詰め、ナマエは一歩後ずさる。五条は無防備に晒されているナマエのスマホの画面を見てなにかに気付いたように「なるほど」と勝手に納得した。

「お前、服買いに来たんだ?」
「う、うん……」
「よし、じゃあ俺がとびっきりの服選んでやるよ!」
「え…!?」

五条がナマエの手首をこれまた勝手に掴み、ずんずんと繁華街の中に足を踏み入れた。ナマエの都合も歩幅も丸無視で彼のスピードのまま連れてこられたのは普段選ばないような少し露出度の高い洋服の揃った店だった。これが夏油の趣味か、と思いつつ、何故かウキウキとコーディネートを始める五条に流されるまま、買ったことのない系統の服装一式を購入することになるのだった。



- ナノ -