07 秋日和の心地


翌日からあからさまなほどの変化が起きた。ナマエに毎朝話しかけてきていた女子生徒が「おはよう」の挨拶をしたっきり、誰一人として声をかけてこなくなった。何とも言えないぎくしゃくとした空気が流れていたけれど、それもこれも自分が選んだものなのだから仕方がない。

「おはよう、夏油くん」
「おはよ。課題やってきた?」
「うん」

窓際の空席は埋まっている。今日は朝から夏油が登校してきていて、昨日出された現代文の課題についての話をした。いわく付きの男子生徒と転入生の組み合わせはさぞ奇怪に映っただろうが、周りに何と思われようと構わなかった。
根本的に考えの合わない彼女たちに無理をして付き合うよりは、自分のことをわかってくれている彼と過ごす方がいい。どちらかを選択しなければいけないのなら絶対に彼を取りたい。

「そうだ、今日、書店に行こうと思うんだけど、一緒に行かない?」
「いいの?」

図書室の自習コーナーの延長のようなもので、話す内容は特に変わらない。遠巻きな視線が痛くないと言えば嘘だけれど、天秤にかければ些末なことだった。
休み時間の間も昼食も彼と一緒だった。それまで一緒に過ごしていたクラスのマジョリティのグループとは少しも話さなかったけれど、彼女たちに気を遣わなくて済むのはむしろ心地よかった。

「行こっか」
「うん、本屋さんってどこの本屋さん?」
「祥楽寺の駅前の大きいところ。行ったことある?」
「ううん、ない」

咄嗟に嘘をついてしまった。他にも書店はあるのかもしれないが、祥楽寺駅前の大型書店といえば、つい先日夏油を尾行したあの本屋の可能性が高い。なんで嘘をついてしまったんだろう、と思いつつももう撤回することは出来ずに、夏油と一緒に学校を出た。

「買いたい本あるの?」
「うん。好きな作家の本が一冊文庫落ちしてるの忘れててさ」
「夏油くんも文庫で集める派?」
「そうだね。ハードカバーの本って重いしかさばるだろ?」
「持ち運びも大変だもんね」

今まであまり読書をするタイプの人間が近くにいなかったから、こうして本のことを話せるのは楽しい。駅までの道を一緒に歩きながら最近どんな本を読んだのだとか、どういう本がお気に入りなのだとかを話した。電車に乗って祥楽寺駅に着くまでのあいだも、会話が途切れることはなかった。

「文芸書は二階、歴史とかの人文は三階にあるよ」

先日見たばかりのフロアガイドを前に夏油にそう説明され、あたかも「初見です」という顔をしてフロアガイドをしげしげ見た。それからエスカレーターで二階に上ったけれど、当たり前のようにレディーファーストだと前を自然に譲られた。右手に広がるフェアも変わっていない。当たり前だ。本当にこの前来たばかりなのだから。

「先月発売だから、もう出版社別の方に並んでると思うんだよね」
「どこの出版社?」
「英集社」

書棚の端に掲げられているプレートの中からお目当ての出版社の名前を探す。夏油の探している英集社の文庫本はカラフルな背表紙が特徴的だ。すぐにそれは見つかって、二人で棚の前に向かう。探している文庫本は一番上の棚にあって、随分取りづらそうだと思ったけれど夏油は難なくそれを棚から引き抜いた。

「じゃあ、ちょっとお会計してくるね」
「うん、行ってらっしゃい」

夏油がレジに向かって、その間レジの近くの新刊コーナーを冷やかした。ナマエの好きな作家の新刊は他の新刊に押されて少しだけ陳列台の端に寄っている。どれくらいで文庫になるだろう。というか、待てなさそうだから図書館に借りに行こうか。

「お待たせ。何見てたの?」
「あ、えっとね、好きな作家の新刊が出てて。ハードカバーなんだよなー、やっぱり図書館に借りに行こうかなーって思ってたところ」
「ああ、これか。このひとって直本賞とったんだっけ?」
「ううん。ノミネートだけ。書店大賞は三年くらい前にとってたけど」

そうこう話しながら、二人で階段を降りて書店を出る。一緒に書店に行こうという目標は達成してしまった。もうここで解散かな、と思っていると、夏油が「どこか行きたいところある?」と尋ねてきた。どこか提案しないとこのまま解散になってしまう。勝手に急かされるような気持ちになりながらグルグル頭を回すけれど、そもそも夏油と一緒であること以上のことを何も考えてなかったから、ろくな提案が浮かんでこない。この駅って他に何があるんだっけ。彼女たち御用達のカフェと、ファミレスと。

「ゲ、ゲームセンター行きたい!」
「え、ゲーセン?」

口をついた行き先に夏油が驚いた顔をしている。ナマエがそんなところを提案すると思っていなかったんだろうが、ナマエだって寄りによってゲームセンターが口をついてしまうなんてと後悔の念が一気に押し寄せた。

「いいよ、行こうか」

夏油は少し笑って「こっち」とゲームセンターのある方向に向かってエスコートを始める。途中人ごみで向かいから歩いてくる人とぶつかりそうになったけれど、夏油がさりげなく肩を抱くようにして引いてくれたからぶつからずに済んだ。

「なにやりたい?」
「え、っとぉ……」

ガヤガヤと様々なゲームの電子音が騒々しく鳴り響く。ゲームセンターなんて普段来ないから付き合いで来る程度で、殆どの筐体に触ったことがない。やりたいもなにもないのにどうしようと困っていると、夏油が「クレーンゲームとか?」と提案して、それにぶんぶん首を縦に振る。

「どれがいい?獲ってあげようか」
「いいの?じゃあ…あのきつねのキーホルダーがいいな」
「了解」

目の前のいくつかの筐体のなかで一番魅力的に見えたきつねのキャラクターのマスコットがついたキーホルダーを指さす。夏油は早速硬貨を投入し、筐体のボタンを押してアームを左右と前後に動かすが、流石に一回では落ちてこない。二回、三回、と挑戦してようやくもう少しというところだけども、それほど熱望しているわけでもないのだから申し訳なくなってきた。

「夏油くん、あの、そんなに頑張ってもらわなくても──」
「もうちょっとだから待ってて」
「え、あ、うん」

筐体に向かって熱中する彼は何だか子供っぽくて、今日まで見ていた高校生らしからぬ色香とは違った、等身大の姿を見ているような気分になった。もっとも、等身大だなんていうのはナマエの基準とイメージに過ぎないのだけど。
ついに四回目の挑戦でお目当てのきつねをアームが掴み、するすると景品取り出し口の方へと落ちていく。ころんと出てきたそれを手に、夏油がナマエに差し出した。

「はい、お待たせ」
「ありがとう。夏油くんすごいね。私なら一生取れないと思う」
「もっと上手いやつ知ってるから、四回もかかったの悔しいな。あいつに知られたら笑われそうだ」

夏油に手渡されたきつねのマスコットのキーホルダーを両手で受け取り、手のひらの上で転がす。彼から他の誰かの話を聞くのは初めてかもしれない。脳裏に先日一緒にいたあの美貌の男のことが思い浮かんだ。

「次なにしようか」
「夏油くんはどういうのやってるの?」
「うーん。格ゲーが多いかなぁ」

格闘ゲームか、とプレイしているところを想像する。格闘ゲームに向かうときも先ほどのような無邪気な顔を見せてくるんだろうか。

「夏油くんが格ゲーやってるところ見たい」
「え?見てるだけなのつまらなくないかい?」

ふるふる首を横に振ると夏油はふいっと視線を上げて、奥のコーナーを指さして「じゃあ行こうか」と言った。格闘ゲームやレースゲーム、それからシューティングゲームが並んでいるコーナーがあって、夏油は慣れた様子でそのひとつの椅子に座った。ナマエは斜め後ろに立って、邪魔にならないように画面を見る。格闘ゲームってこんな感じなんだ、とキャラクター選択画面を眺める。

「これ、知ってる?」
「ううん。あ、でもこのキャラ見たことあるよ」
「じゃあ、今日はこのキャラ使おうかな」

夏油はそう言ってナマエの指さしたキャラクターをセレクトしてゲームを進めた。左手でスティックを操り、六つある右側のボタンをカチカチと押してキャラクターの必殺技を発動させる。随分セクシーな衣装を着た女性キャラクターが派手な必殺技で大男をKOした。見ているだけだったけれど、技が次々と決まっていく様子を見ているのは気持ちがよかったし、寸でのところでNPCの大技を華麗に避けるのは手に汗を握るような興奮を覚えた。

「すごい!夏油くんすごいね!」
「フフ、嬉しいな、これはちょっとだけ自信あるんだよね」

もうプレイしていた夏油よりもナマエのほうが興奮する始末で、ナマエがべた褒めをすると少しだけ得意そうにそう言った。夏油が椅子から立ち上がり、さて次は何をしようかとばかりにゲームセンターの中を見まわした。何か夏油が言ったけれど周りの音で聞こえなくて「え?」と聞き返せば夏油が腰を折ってナマエの耳元まで顔を近づける。

「ナマエちゃんは普段どういうのやるんだい?」
「えっと…」

彼の距離にどぎまぎしたし、尋ねられて回答に困った。ゲームセンターどころか家庭用ゲーム機もろくに触ったことがないのだ。一緒にやろうなんて言われたらすぐにバレてしまう。これ以上の誤魔化しは完全な悪手であると判断して、ナマエは正直に思い付きであったことを白状した。

「…ごめんなさい。あの、本当はゲームセンターって全然来たことなくて、でもその、あのまま帰るの嫌だなって思ってたから、思い付きで言ってみただけなの…」

呆れられてしまうだろうか。ナマエが恐る恐る彼の反応を見ようと顔を上げると夏油は上体を起こして「フフ」と少し笑い、それからまた上体を折って耳元まで顔を近づける。

「わかってたよ。意地悪してごめんね?」

えっ、と思って顔を離して、だけど想像よりも近い距離に彼がいて反射的に身体が強張る。夏油はナマエの手を攫い、そのままエスコートするかのように優しく引いた。怒っているようには見えないけれど、どこに行くつもりだろう。彼はそのまま出口に向かって、あっという間にゲームセンターの外に出る。自動ドアを抜けると、声が聞こえないほどの騒がしさはあっという間に遠くなった。

「すぐ解散するつもりなんかなかったよ。ナマエちゃんが何も希望言わなかったらどこに誘おうかなって、いくつも考えてたんだ」
「そ、なの?」

夏油が悪戯っぽく口角を上げる。それから「ゲーセン、楽しいけど騒がしいし、どこかお店入ろうか」と言って、ナマエはそれに頷いた。夏油はこの駅に随分慣れているようで、迷いなく道を進む。夏油おすすめというケーキの美味しいカフェに向かって二分ほど歩いたところだった。目の前に見覚えのあるシルエットを見つけ、それと同時にそのシルエットもナマエと夏油のほうに視線を合わせる。

「傑じゃん。なに、今帰り?」
「……悟、君は空気を読むってことができないのかい?」

夏油が大袈裟に額に手を当てて、すると、悟と呼ばれた美貌の男は「はぁ?」と不満を隠さない声音で漏らし、ナマエのほうをじろっと見た。今日は学ランを着ていて、彼も自分たちと同じような学生なんだということが分かった。ナマエを上から下まで品定めするように見て、それからコテンと首をかしげる。

「なに、迷子?ポリんとこ行く途中?」
「馬鹿。私デート中なんだけど」
「ハァ!?」

悟とやらが大いに驚いた声を上げたけれど、驚いたのはナマエも同じだった。デート、という彼の言葉を頭の中で反芻する。デートみたいだなって思ったけれど、まさか彼からそんな言葉が飛び出すとは思わなかった。

「ウッソだろお前!聞いてねぇし!」
「なんでいちいち悟に報告しなきゃいけないんだよ。じゃあ、私行くからね?」
「ちょ、待てって!」
「あとで構ってあげるから」

ナマエの肩を抱いて引き留めようとしてくる美貌の男をさっと避けて先に進む。背後から「すぐるー!」と恨めしい声が聞こえてきたが、夏油は取り合ってやるつもりはないようだった。

「ごめんね、邪魔が入っちゃって」
「え、ううん。平気だけど…良かったの?」
「いいんだよ。あいつは五条悟っていって私の幼馴染というか…まぁ、口は悪いんだけど根はいい奴なんだ」

夏油は困ったような口ぶりだったものの声音は柔らかくて、あの五条悟という男とは仲がいいのだろうということがうかがい知れる。
そのあとは予定の通りにカフェまで行って、二人でケーキセットを食べた。デート、という言葉は都合のいい何かの言い訳だったのかもしれないけれど、ナマエにとっては紛れもなく、異性と経験する初めてのデートになったのだった。



- ナノ -