06 今業平の真実


いくらどうすべきかと思い悩んだところで、時間は容赦なく進んでいく。だから今週から夏油はクラスに来てしまうし、それが待ち遠しいような少し怖いような気持ちになった。後者の気持ちが追加されたのは、先日クラスの女の子から聞かされた、彼にまつわる悪い噂のせいだ。
緊張しながら登校した月曜日。夏油の姿を学校で見ることはなかった。いつも通りクラスメイトのお喋りの輪の中に混ざった。火曜日も姿を見せず、ひょっとして今週は来ないのだろうかと思った水曜日、彼が姿を現した。
ガラリと教室の引き戸が開けられ、彼の姿を見とめてクラスメイトが水を打つように黙る。夏油はそれを気にした様子もなく、平然とした足取りで教室内を進むと、隣席のナマエに向かってにっこりと笑いかけた。

「おはよう」
「お、はよう……」

夏油はそのまま窓際の自席についてリュックを机に置くと、取り出した教科書を机の中にしまっていく。異様な空気を醸す教室内は、ひそひそと噂話をするような小さな声だけが散乱していた。

「今週は来ないのかと思った」
「フフ、ナマエちゃんと約束したから来るに決まってるだろ?」

何の変哲もない机に頬杖をついているだけで、彼は不思議と絵になる男だった。ちらりとバレてしまわないようなささやかさで彼を見る。すると彼もこちらを見ていて、視線は簡単に捕まってしまった。

「どうかした?」
「えっ」
「私のほうずっと見てるから」
「……夏油くんが教室にいるの、なんだか新鮮だなって思ってたの」

本当のことだけれど、もっと言いたいことは包み隠したままだった。夏油は少し笑って「そう?」と楽しそうに言った。彼と話している間クラスメイトは誰一人として近寄ってこなくて、教室にいるはずなのに、図書室の自習コーナーで二人きりの時間を過ごしているような、そういう感覚に陥った。


昼休み、夏油が職員室に行かなければいけないといって教室を出て行った。ホームルームのあたりからそれなりにクラスに騒めきは戻っていて、昼休みにはいつも通りの様相を呈していた。

「ねぇ、ナマエちゃん夏油君と仲いいの?」

聞かれると思っていたけれど、案の定そう突っ込まれた。はぐらかせそうにない問いをナマエはなんと返答するべきか少し逡巡して、仲良いっていうほどじゃないかもだけど、と曖昧な答えを返す。彼女たちの反応は総じて微妙だった。彼にまつわる悪い噂のせいだということは考えなくても分かる。

「あのさ…なんかされたりとか大丈夫?」
「何かって…?」
「ほら、夏油君っていろいろあるって話したじゃん?だからさぁ…」

数人で目配せをする。「何かって?」とわからないふりでとぼけてみたけれど、言いたいことはわかる。例えば暴力を振るわれたり脅しをかけられたり、そういうことをされていないかということだろう。そういうことなら決してない。彼はずっと優しくて、むしろナマエはその噂の方を疑っているくらいなのだ。

「大丈夫だよ。少し勉強教えてもらってただけだから」
「そうなんだ…」

ちらりと彼女たちが目配せで意思の疎通を図る。ナマエは角を立てないようになるべくにっこりと笑って言ってみせた。彼女たちに悪意らしい悪意はないのだろうが、自分たちの主観でしかないそれを押し付けられているような気分になって、内心少し腹立たしくなってしまった。夏油は自分をときほぐしてくれた。それを見てもいないのに、知りもしないのに、彼のことを悪く言うなんて。自分たちの知っていることがすべてみたいな、考えを押し付けられるような、迎合を強制されるような。

「でもさ、やっぱやばいよ。隣のクラスの子もヤバそうなスーツの男と歩いてたって言ってたし」
「あー、私もそれ聞いた」
「ね。学校来てないのもなんかウラあるって」

噂話ばかりで曖昧なこと言って、彼を悪く言わないで。普段なら及ばないようなところに思考が至ってしまって、いつもの自分なら言わないようなことを口走りそうになる。いっそ言い返してしまおうと口を開いたその時だった。

「ナマエちゃん」

背後から声がかかる。夏油の声だ。職員室での用事とやらが終わったのだ。ナマエはパッと表情を明るくして「夏油くんっ」と少し弾んだ声で彼の名前を呼ぶ。夏油の噂をしていたクラスメイトは一瞬にして黙り、顔を強張らせる。

「夏油くん、どうかした?」
「この前の本の話がしたくてさ。あれ、ごめんね、ひょっとして話の途中だったかい?」

夏油がクラスメイトににっこりと笑みを向けると、彼女たちは一斉に視線を泳がせる。この前の本、とは何のことだかさっぱりわからなかったが、恐らく彼が用意した口実だろうことを察することが出来た。ナマエがどうしようと思って彼女たちを見れば「こっち全然大丈夫だから」と言われナマエは「またあとでね」と言ってその輪の中を外れる。そのまま夏油が手招くのについて行って、ひと気のない中庭に隣接する渡り廊下まで辿り着いた。

「ごめんね、連れ出しちゃって」
「ううん。むしろ助かったかも」
「あ、やっぱり?なんかそんな気がしたんだよね」

やっぱり本なんて口実で、ナマエをあの輪から連れ出すためだった。あそこで夏油が声をかけてくれなかったら、グループの不和になることを口走ってしまっていたかもしれない。ここは校舎の中でも殆どの導線上にないせいか、生徒や教員の気配さえない。

「夏油くん、なんでもお見通しなんだね」
「まさか。私だって知ってることしか知らないよ」

夏油と並んで立ち、中庭を眺めた。校舎の端であるせいか、生徒たちの昼休みの喧騒はすべて遠くに聞こえる。知っていることしか知らないのは当然だ。冷静に考えれば、彼女たちの言葉なんて受け流すことができた。我慢をして、主張をせず、適度に彼女たちに相槌を打って笑っていれば上手く立ちまわることができるはずだ。

「私には、なにも我慢しなくていいからね」

ナマエの思考を見透かすようなタイミングで夏油がそう言った。どうして彼は、欲しいときに欲しい言葉をくれるんだろう。ナマエは「うん」と小さく頷いた。

「ねぇ、そういえば夏油くん、本好きなの?図書室でも読んでたし」
「ああ、それなりにね。ナマエちゃんは?」
「私も好き」
「またお揃いだ」

夏油が小さく笑った。歴史が好きという共通点を見つけたときもお揃いといって笑ってくれた。ナマエは夏油を見上げ、その涼しげな横顔に照れてしまってすぐに視線を前に戻す。図書館でも読んでたし、というのは嘘ではないけれど、先日書店で彼を見かけたというので確信を持ったというのが正しかった。

「今日、放課後予定ある?」
「ううん、とくにないけど…」
「じゃあ一緒に帰ろう。送るよ」
「うん」

下校の誘いをいちもにもなく受ける。送ってもらうのは申し訳ないけど、一緒に帰れるのなら嬉しい。
そのまま少しお気に入りの本の話をしていたら予鈴が鳴り、ナマエと夏油はそろって歩いて教室を目指す。教室のドアを開けると少しだけ視線が集まった。夏油はそんな視線には慣れていますといったふうで気にしていなくて、だからナマエも気にしないことにした。


放課後、夏油が立ち上がるのに合わせてナマエも立ち上がり、クラスメイトの視線を浴びながら教室を出る。その視線は廊下を歩く間もそれなりに受けることになって、その原因は間違いなく夏油だった。
校門を出たところでようやく視線から解放され、縛られたような緊張感が緩められる。夏油が当然のように車道側を歩き、歩幅もナマエの小さなそれに合わせてくれた。

「久しぶりの教室、どうだった?」
「ナマエちゃんが隣にいるのが新鮮で面白かったかな」
「ふふ、適当に私とおんなじこと言ってる?」
「そんなことないさ、本心だよ」

あれだけの注目を浴びていても、彼は図書室でみせるような穏やかで冷静な様子を崩すことがなかった。まるでその注目は当然だとでもいうようで、つまり注目される理由に心当たりがあるのかと思われた。やっぱり彼にまつわる噂なんてきっと嘘に違いない。あまりにもジッと見ていたせいか、夏油が「何か気になることでもあったかい?」とナマエに尋ねる。

「えっと、実は夏油くんの、その……悪いうわさ、聞いちゃって…」
「……へぇ」
「ホントその、良くないよね。ヤバい人と繋がってるとかヤバいことしてるとか。本人のいないところであれこれ詮索して悪く言うなんて。ごめんね、私、その話出てるとき上手く言い返せなくて」

噂を否定してほしくて、言い訳めいた言葉とともに口にした。夏油から「いいんだよ」と返ってきて、一体その言葉はどこに修飾されるのだろうと考える。根も葉もないことだな。噂って怖いね。そんな言葉が彼から出てくることに期待した。

「……私の親が極道だっていうのは本当だよ」

ひゅっと息をのんだ。嘘だって言って欲しかったのに。彼に寄せていたはずの安心感が反転して身体が硬直し、頭の中が真っ白になる。聞き及んだ噂はどこまでが本当のことなんだろう。夏油が「どんなこと聞いたんだい?」と尋ねてきて、ナマエはショートする脳みそでエラーを吐き出すシステムのように「前の学校で人殴って怪我させて退学になったらしい」「実はホストをやっている」「付き合ってる女の子をキャバクラで働かせている」など、聞いた話をそのままだらだら垂れ流した。

「後ろ二個は嘘だけど、最初の、前の学校を暴力沙汰で辞めたっていうのは本当」
「そう…なん、だ」

彼が暴力を振るうところが想像出来なかった。学校を辞めなきゃいけないほどの喧嘩なんてどんなものかもわからない。ナマエの足はいつの間にか止まってしまっていて、二歩分先を行ったところで夏油の足も止まる。

「ガッカリした?」

まばたきを忘れて眼球が乾きそうだった。夏油のほうにどうにか視線を向けると、彼は困ったように眉を下げている。肩越しに夕暮れの町が見える。ガッカリしたという表現は果たして正しいだろうか。いや、少し違う気がする。夏油が優しくしてくれていたのは本当だし、そもそも勝手に期待して彼の秘密を知って勝手に幻滅するなんてひどい話だ。はくはくと唇を動かして適切な言葉を探す。ナマエがもう何も言えないと思ったのか、夏油が先に口を開いた。

「大丈夫、ナマエちゃんに迷惑かけるつもりはないから、もう話しかけたりもしないよ。安心して」

じゃあ、と彼が元来た道を戻るように踵を返してナマエの隣をすり抜けようとして、ナマエは咄嗟に夏油の制服の裾をぎゅっと掴む。

「や、やだ…!」
「ナマエちゃん…?」
「だ、だって、夏油くんと話すの楽しいし、迷惑なんかじゃないよ。話しかけてくれないと寂しい。今まで通りに、して、ほしい…」

言葉がどんどん尻すぼみになる。いま自分は正しく言葉を選べているだろうか。他のひとと話すときは焦って何を言っているかわからなくなることなんてないのに、彼を前にするといつも通りの自分でいられない。
夏油の顔を見ることも出来ず、ナマエは握る力だけを強くして、彼を帰さないようにした。もっとも、こんな拘束なんて簡単に振り切ることが出来てしまうだろうが。

「……ありがとう」

気が付くと、制服の裾を握っていたナマエの手を夏油が掠め取り、今度は彼の手のひらがナマエの手を包んでいた。じんわりと体温が伝わってくる。涼しげな見た目に反して、彼の体温はそこそこに高いらしい。ハッと顔を上げれば、切れ長の目が柔らかく細められていた。

「げと…くん…」
「ナマエちゃんの手、小さいね」

顔が熱くなるのを感じる。夏油は引き返そうとした体勢を戻し、またナマエのマンションのほうへと歩き出す。手は繋がれたままで、先ほどよりもゆったりとした速度で二人は歩き始めた。
怖い世界と繋がりのある彼を恐れる気持ちがないわけではない。それでも、図書室で見る彼との時間をなかったことにはしたくないし、優しくしてくれたことも本当だ。他人からの言葉だけで彼のことを判断してしまうのは馬鹿げている。

「夏油くん、明日も学校来れる?」
「うん」

だから今は、まだなにも決めてしまわずに、彼の隣で時間を積み重ねていたい。彼の隣はどうしたって居心地がよくて気持ちがいいのだ。



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