05 転校生の彼女


どうして、と言われても、説明する言葉を夏油は持っていなかった。最低限の課題と書類を提出するために学校を訪れて、その時担任から転入生があってクラスメイトが増えたことを知らされた。そういえば夏休みに入る前にそんな話を聞いたような気がする。転入生は自分の隣の席らしい。丁度夏休み直前くらいからいざこざがあってまともに出席出来ていなかったが、その状況は新学期が始まった今も続いていた。その新入生とやらにお目にかかれるのは一体いつなるのか。いや、そもそも出席出来たとしても自分は遠巻きにされているし、関わることはないだろう。
今日は少しだけ時間があって、なんとなく図書室に向かった。別に本を借りるわけではないけれど、あの静かな空間で本を読むのが好きだった。どうせ家に戻ればまた騒がしいなかに巻き込まれるのだ。
西館にある図書室に向かうと、見慣れない顔の女子生徒が座っている。人の顔を覚えるのは得意な方だが、あんな子はいただろうか。少し気になって夏油は司書に尋ねた。

「あの、あそこの席の女の子って前から図書室来てましたか?」
「ああ、あの子ね。転入生の子よ。確か夏油君と同じクラスだって聞いたけど…」

なるほど。なんだか妙な勘のようなものが働いた気がしたが、それは正しかったようだ。夏油はにこやかに司書に「そうですか、ありがとうございます」と言うと、真っすぐに彼女のもとへ向かった。お誂え向きにころんと目の前に消しゴムが転がってきて、夏油は落とし主に拾い上げられてしまう前にそれに手を伸ばす。

「転校生?」

彼女は驚いたように顔を上げ、そのアーモンド形のかたちのいい目と視線がかちあった。少し興味が湧き、夏油は彼女の向かいの椅子に当然のような顔をして座る。

「私の名前は夏油傑。君の隣の席だよ」

名乗ると彼女は少し不思議そうな顔をして「ほら、窓際の席」と補足すれば納得したようだった。そして軽く会釈をする。

「ミョウジナマエです」
「登校初日から自習?偉いね」
「前の学校と…教科書とが違うので…」
「タメ語でいいのに」
「……じゃあそうしま…そうする」

緊張が手に取るように分かる。頬杖をついて開かれたノートを覗き込むと、どうやら数学の自習をしていたらしい。なるほど、ここなら教えてやれる。「どこやってるんだい?教えてあげるよ」とすかさず言った。とくにそんな義理はなかったが、持て余した親切心を発散したいなんていう気持ちもあったのかもしれない。

「いいの?」
「うん。これでも成績は良い方だからさ」

理系というよりは文系だけれど、この程度なら問題ない。夏油は得意の人の良さそうな笑みを浮かべ数学の単元に向かう。彼女がついてきているかどうかを確認しながら丁寧に説明を進めた。

「で、ここがここに繋がってくるんだ。あとは暗記なんだけど」
「すごくわかりやすい。ありがとう」
「それは良かった」

それからいくつか質問をされて、その時点でかなり理解をしていることが伺えた。ここまで理解が早いのは教え甲斐があるというものだ。じっと彼女を見つめていたらちらりとナマエが視線が上がったので、また人の良さそうな笑みを返した。

「良かったら、これからわからないところ教えてあげようか」
「いいの?」
「ああ。私もいい復習になるしね」

そもそも他人の心の内を読むのは夏油の得意分野であるが、彼女はほんの少しだけ見えづらくて、だからこそ興味をひかれた。それ以上の理由はとくになかったけれど、単位を取ること以上でも以下でもないこの高校生活に変化が訪れたのは確かだった。


夏油傑の親はいわゆる極道というものである。正確には彼の生みの親ではなく彼の育ての親なのだが。

「傑」
「おや、悟帰ってたのか」

都会の一等地にひょっこりと現れる日本家屋が夏油の居候先だ。育ての親である叔父貴は数年前の抗争で命を落とした。ここは組長の家であり、今は住み込みの舎弟と同様にここで生活している。声をかけてきた白髪の美貌の名前は五条悟。この関東慶道会系、五条組の跡取りである。

「なにそれ」
「数学の教科書」
「なんで」
「高校生なんだから勉強くらいして当然だろ?」

だからなぜ急にそんなことをしているのか、と聞きたいのはわかっていたが、あえて気が付かないフリをしてまた教科書に視線を落とした。次に彼女に会うときはどんな教科を教えてと求められるだろうか。文系科目なら概ね問題ないだろうが、理系科目は念のため予習しておかなければ。

「悟、見合いの話ちゃんと考えた?」
「考えるわけねーだろあんなの」
「だけど組長の言うことには逆らえないだろ」
「結婚なんてクソだっつーの」

五条がうげっと舌を出す。彼には父親はいるが、母親はいない。幼少期に別の男と浮気して海外に高飛びしたのだ。それ以降結婚にも母親にも良いイメージをもっていないのはずっとだった。
組長の息子に随分な態度のように見えるが、これは昔からで二人にとってはごく自然なものだった。叔父貴に引き取られてからというもの夏油はこの家で屋敷で世話になっているようなものだからもう幼馴染も同然の関係なのだ。


二週間以上教室に足を運ばない状況が続いていると、もう教室に行くのも億劫になってくる。出席日数の関係もあるからいずれ行かなければならないことはわかっているが、面倒なものは面倒だ。
目下、夏油の登校する動機はナマエとの勉強である。今日も放課後彼女に図書室の自習スペースを使って勉強を教える約束をしていて、そのために昼過ぎに登校して図書室に直行した。授業が終わるまではまだ少し時間がある。一足先に自習スペースの椅子に腰かけ、読みかけの文庫本を開いて時間を潰すことにした。じっと読み進めていると、どれだけ時間が経ったのか、夏油の前で足音が止まった。文庫本から視線を上げる。

「ナマエちゃん」
「夏油…くん……」
「授業終わったんだ。気付かなかったな…おいでよ」

ナマエは少し頬が紅潮していて、随分すぐにここへ到着したようだし、ひょっとするとここまで走ってきたかもしれなかった。健気な様子が少し庇護欲を煽る。ナマエは夏油の向かいに腰かけて鞄からテキストを取り出した。

「今日はどれ教えよっか」
「じゃあ、物理聞いていい?」
「うんいいよ」

今日は数学ではなく物理をご所望らしい。電場と電位の違いがイマイチわからないらしく、確かにここを理解していなければこの先で躓くことは目に見えているから、地味だけど重要な単元だといえる。
夏油はなるべく噛み砕いて電場と電位の違いをたとえ話を交えながら説明する。ある程度の説明を終えると習うより慣れだろうと演習問題を勧めた。ナマエは感激して「すごい。夏油くんの説明わかりやすいね」と夏油を絶賛した。

「物理得意なの?」
「うーん。普通かな。どっちかというと文系だし」

夏油の返答にナマエは少し驚いているようだった。今まで理系科目だけを教えているから理系だと思っていたのかもしれない。「ナマエちゃんは理系?文系?」と尋ねると、どちらかと言うと文系という回答とともに「歴史とか好き」と補足された。

「そうなんだ。私も歴史好きだよ。お揃いだね」

女子生徒で歴史が好きというのは大して珍しいことではないと思うが、感性が似ているのなら話も合うのかもしれないな、と思って少し嬉しくなった。彼女がぼうっとこちらを見つめている体勢から慌ててテキストに向き合って、小動物のような動きにくすくすと笑いがこぼれた。
それから応用問題をいくつか解いて、彼女は中々の正答率を叩きだした。軽く説明を受けてこれだけ理解できるのだから、地頭がそもそもいいのかもしれない。少しだけ休憩しようか、と提案したのは、ナマエの目元に少しの痙攣を見とめたからだった。

「ナマエちゃん、なんか疲れてる?」
「えっ…」

じっとナマエを見つめる。ナマエは虚を突かれたという顔を隠せない様子で、夏油が更に見つめると「な、んで……」と絞り出すような声で返してきた。

「なんとなく…ナマエちゃんって我慢しちゃう性格なのかと思ってさ」

これは見ていればある程度予想のつくことだった。メロンパンを貰ったとき、随分息を詰めていそうだったのが見て分かった。「違った?」と夏油が尋ねても、ナマエはゆっくりまばたきをしてはくはくと唇を動かすばかりだ。

「当たりだ」
「……夏油くん…すごいね」
「そんなことないさ。ナマエちゃんのこと見てればわかるよ」

観察して人を読むのは夏油にとっては得意のことで、当たり前のことでもある。ほんのすこしわかりづらいナマエのことを読み取れたという得も言われぬ達成感のようなものがあった。

「転校したばっかりで大変だよね。女の子は余計」

男女の別でそれ以上論じるつもりはないが、事実女子の方がコミュニティの関わりとか要求される役割をこなすことを重要視される。こんな変な時期に転入してきているのだから、気疲れもするだろう。ナマエは少し逡巡すると、まるで口以外の場所から絞り出すように声を出した。

「……悪い子じゃないと思うし…」
「うん」
「親のこと言われるのも慣れてるし、気にしてないし、そんなのしょっちゅうだし」
「うん」
「でもなんか…なんていうんだろ……上手く息が出来ない瞬間が…あって…」

選ばれる言葉に夏油はゆっくりと相槌を打つ。ああ、なにか普通の女の子と違うな、と、明確に感じ取ったのはこの瞬間だった。ナマエは途中で言葉が選べなくなり、唇をぴったりと閉じてしまった。

「ナマエちゃん、ご両親になにかあったの?」
「何かってほどじゃないよ。離婚して父親しかいないの。離婚と転勤重なっちゃって」

平気なふうを装っているが、平気でないだろうことは簡単に読み取れた。机の上に置かれた拳をぎゅっと握る。その様子が、母親をなくしたときの幼い五条とダブって見えた。

「わたし…大丈夫、だよ」

か細く、消えてしまいそうな声。あの日五条のそばにいたのに、自分は「大丈夫」という彼に何もしてやることが出来なかった。今でこそ随分と消化できているようだけれど、あの頃の何もできなかった自分に対する後悔はずっと付き纏っていた。

「我慢しなくていいよ」

握られた拳に手を伸ばし、上から柔らかく包み込む。ナマエがはっと顔を上げた。夕方の光が潤んだ目元を光らせる。

「私には、何にも我慢しなくていい」

大人に囲まれて生きてきているせいで我が儘より先に我慢を覚え、自分を殺すことで周囲との調和を重要視する。彼女はきっとそういう生き方をしている。本当はそんなことをする必要なんてない。あの日五条にそう言ってやれればよかったとずっと思っていた。
夏油は必死に涙を堪えるナマエが受けこたえを出来るような状況まで待ち、彼女の押し殺してきた話をほつりぽつりと聞いた。

「帰ろうか。送るよ」

最終下校のアナウンスをきっかけに、夏油はそう提案する。辞退されても譲る気はなかった。ナマエが鞄にテキストやら教科書やらをしまい、自分もスマホと財布、文庫本をポケットに収めると二人で図書室を出て校舎の中を歩いた。彼女は徒歩通学らしく、校門を出たところで「どっち?」と尋ねると、「あっち」と家のあるだろう道順に指さす。

「あの、いいよ、送ってくれなくても…」
「どうして?」
「どうしてって…まだ遅い時間じゃないし、その、わざわざ送ってもらうの悪いし…」
「私が送りたいんだ。ダメかな?」

少しずるい言い回しで夏油がそう言えば、ナマエが小さく「じゃあ、お願いします」と言った。ゆっくりと彼女の歩幅に合わせて歩き出し、ナマエが車道側を歩かずに済むようさっと車道側を歩く。

「ねぇ、夏油くん、今日も学校くるの…遅かったの?」
「ああ。ちょっと家のことが忙しくてね」
「ごめんね。その…忙しいのに私の自習に付き合わせちゃって…」
「いいんだよ。昼くらいには全部終わったからさ」

ふたつ交差点を越えたあたりでナマエがおずおずと尋ねた。きっと言いたいことはこれとは別にあるんだろうというのはすぐに読み取ることが出来た。そこからたっぷりの無言を挟み、ナマエは「…まだしばらく、教室来れなさそう?」と言って、きゅっと唇の裏を噛んだ。

「待っててくれてるんだ?」
「そりゃあ…席となり、だし…」

言い訳になっていない言い訳に思わずくすくすと笑う。もう出席日数のためとはいえ教室に行くのは億劫だと思っていたのに、それがすっかり上書きされてしまった。

「じゃあ、来週からは教室に行くよ」
「ほんと?」
「ああ。ゴタゴタもそろそろ収まりそうだしね」

ナマエが嬉しそうに「そっか」と相槌を打った。ぼんやりとした言語化できない興味は、たったすこしのやり取りで深い興味に変わった。彼女の色んな顔が見てみたい。登校するのが楽しみだな、と思ったのは、この学校に転校してきて初めてかもしれない。



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