04 阿修羅の風評


あのあと、結局マンションのエントランスまで送ってくれた。ただの同級生を送るなんて、普通の男子高生がすることだろうか。いや、彼なら何の他意もなくやっていたとしても少し納得してしまいそうになる。来週には夏油に教室でも会える、と思うと、少し浮足立つ気持ちがあった。ナマエはそれを何とか抑え、翌日も平静を装って登校する。

「おはよう」

ナマエがいつものグループの女子にそう挨拶をすると、彼女たちは少し微妙な間のあとに「おはよ」と返してきた。他人の観察が癖になっているせいか、彼女たちの変化にはすぐに気が付いた。しかし気が付いたとしても取れる行動があるわけでもなく、ナマエは極めていつも通りの顔で彼女たちの輪に加わった。
今朝も彼女たちのフィールドである流行と恋愛と芸能の話をして、そのうちに予鈴が鳴った。今日は遊びの予定は特に立たないらしい。

「ねぇナマエちゃんって昨日結構残ってた?」
「え、あ、うん」

日中の移動教室の際、グループのひとりにそう尋ねられた。どこを見られていたのかはわからないが、どこかで見られていたらしい。でも彼女は昨日用事があるといって遊びを断っていた一人ではないか。「そっか」と言った彼女は恐らく残っていた理由の説明を暗に求めているのだと察し、ナマエが付け加える。

「前の学校と進み具合違う教科結構あるから、放課後にちょっとだけ自習してるんだ」
「あ、そうなんだ」

理由を聞かれたと思ったのに、彼女の返答はあまり芳しくなかった。求められたものを読み違えただろうか。そこからは会話も特になく、黙ったまま美術室に到着した。朝感じたぎこちなさは、放課後に近づくにつれてなくなってきた。結局なんだったんだろう。


放課後、ナマエは一度荷物を置いて電車に乗ると、少し先の駅まで足伸ばして本を買いに行った。買いに行ったのは詩集で、あまり大きな出版社のものではないせいなのか、近場の書店では見当たらないのだ。目的の詩集だけを購入したいのならばネット書店で済む話だけれど、大きな書店に足を運ぶついでに普段見ないものもあれこれ見たいというのが本当のところだった。

「えっと、東口だよね」

マップを開いて書店の位置を確認する。西口は例の少し治安が云々という方で、東口は比較的若者も出歩いているという方。今回の目的地はもちろん東口だ。引っ越す前に住んでいた町では見たことの無いような規模の書店だったから、足を運ぶのが楽しみだった。
東口から徒歩五分程度のところに位置するその書店は、ビル一棟が丸々書店になっているという大手有名チェーンの書店の本店だ。自動ドアを潜れば、一気に書店独特の紙とインクの匂いが広がった。一階には話題の本と雑誌のコーナーが広がる。レジにはそれなりの人数が並んでいるけれど、各階でそれぞれ清算できるようにもなっているので、それほどの行列にはなっていない。

「えっと、フロアガイド……」

入店してすぐのところにあるフロアガイドを確認する。ナマエの目的の詩集は恐らく文芸書に振り分けられているだろうから、文芸書のコーナーが何階に位置するかを見れば、どうやらそれは二階にあるらしかった。
ナマエは狭いエスカレーターに乗り、二階を目指す。老舗の書店であるからか、店舗面積は広くてもビルそのものは古いようだ。きちんと清掃は行き届いているが、建物そのものの古さは隠せない。エスカレーターで二階に上がれば、右手に嗜好を凝らした催事のコーナーが見える。まっすぐ進んで右手に広がる書棚を覗き込みながら詩集の棚を探した。詩集は俳句とか短歌と同じような場所に置いてあることが多いから、なんとなく読み物の途切れ目を探すように目を配る。

「あった」

小さく声を漏らした。目的の詩集は比較的通路の近くに面陳列されている。そっとそれに触れ、どっちにしろ買うと決めているのに吟味するかの如くペラペラとページをめくる。三十秒ぐらいそうして、そのまま詩集を手にしてフロアの真ん中に向かった。真ん中には新刊書を集めた台があって、それをぐるりと見て回る。好きな作家の新刊が出ていたけれど、ハードカバーだから少し我慢だ。お小遣いは有限である。
目的の詩集と別の文庫本を一冊購入して、せっかくだからと他のフロアも見て回ることにした。レジのそばの階段を上って三階に向かう。三階はビジネス、社会、人文書のコーナーだ。難しい本が並んでいそうだけれど、その中の歴史の棚には興味があった。

「あれ…夏油くん?」

歴史の棚の一番奥。民俗学と日本文化史の棚の前に黒づくめの長身が見える。背が高いというだけで目立つし、あのガタイの良さと特徴的な長髪も相まって斜め横からでも彼であることを特定するのは容易だった。こんなところで会えるとはなんて嬉しい偶然だろう。ナマエは声をかけようと一歩踏み出して、それに割り込むように声がかかる。

「すぐるー」

声の主は棚の向こうの死角から姿を現し、がしりと無遠慮に肩を組む。その声の主も夏油にさらりと肩を組めるほどの長身で、透けるような白い髪を揺らしていた。彼がこの前夏油を学校まで迎えに来た男であると気付いたときには、どうしてだか理由はわからないが書棚の影に咄嗟に身を隠していた。

「それ買うの?」
「うん。面白そうだと思って」
「うげぇ、出たよ活字中毒者」
「悟もたまには読んだら?」

美貌の男と夏油は随分と仲が良いようで、気安くそんな話をしていた。夏油も涼しげな面立ちだとは思うけれど、美貌の男はそれとはまた違った、なんというか作り物めいたレベルの顔の造形だ。

「ていうか、そんな小難しい本読んでる時間あんのかよ」
「粗方片付いただろ。私来週から学校行くし」
「はぁ!?おんまえマジで言ってんの!?」

悟、うるさいよ。静かにしな。と夏油が嗜めた。夏油は男を置き去りにスタスタとレジに向かった。ナマエは見つかってしまわないように更に向こうの棚の影に逃げる。長身の男が揃って歩いているとなんだか縮尺が狂う。夏油はレジでさらりと会計をして、ブックカバーのかかったそれを持ってエレベーターの方へ向かった。この書店は下りのエスカレーターがなく、下に降りるには階段とエレベーターの二択なのだ。ナマエは少し迷い、階段をとんとんと駆け下りた。エレベーターの到着を追い越してしまわないように気をつけながら、そちらの様子を伺う。

「わざわざ全日制行かなくて良いだろ?通信とかでいいじゃん」
「私の勝手だろ」
「ていうか、傑だってつまんねーって言ってたじゃん」
「事情が変わったんだ」

声が聞こえてきて、近づいて出入り口に向けて遠ざかる。ナマエは好奇心から二人のあとを追うことにした。一定の距離を保ち、気取られないように動く。もちろん尾行なんか生まれて初めてだが、幸い人通りも多くて距離を取ればこちらの気配など伝わりもしないだろう。

「なんだよそれ。ていうか、元の学校だってお前が転校することなかったじゃん」
「あれは仕方ないさ。丸く収まるならそれに越したことはない」
「でもさぁ」
「カタギと揉めて迷惑かけたくないんだよ」

話しているのは所々聞こえるが、距離があるからすべて綺麗には聞こえてこない。二人は慣れた様子で街を歩き、駅のほうへと向かうと構内にそのまま入っていく。電車でどこかに移動するのだろうか。それなら流石にこの尾行めいた行動もここまでだ。しかしナマエの予想に反し、二人は改札を通ることなく構内を反対側へと移動していく。そしてそのまま西口から地上に出た。

「傑がいなくなったら俺超ヒマじゃん」
「前は普通にそうだっただろ。若様はしっかり勉強に励めよ」
「ジジイとおんなじこと言うなよな」

美貌の男がべぇっと舌を出した。綺麗な顔というものは変な顔をしてみせても基本形が崩れないからすごいものだ。西口と言えばクラスメイトが教えてくれた歓楽街のあるところで、ナマエも実際に見てネオンの多さにたじろいだ場所だ。こんなところに彼は何か用があるのか。階段を上り切り、きょろきょろと周囲を見まわす。前の時よりまだ明るい時間だからまだ歓楽街の空気は比較的なりを潜めているが、看板を持った薄っぺらい制服姿の女の子が呼び込みをしている店はどう見ても健全な店には見えない。

「えっ、あれっ…?」

半ばストーカーのようにしてここまで来てしまったが、あたりを見まわしている一瞬で彼らを見失ってしまった。流石にこれ以上街の中に入ってまで探すのは憚られ、ナマエはそこでため息をついて踵を返す。前もこんなふうにして駅の出口で引き返してきたのだった。


その週の金曜の昼休み、クラスの女子生徒に混ざって昼食をとっていると、ふとした会話の途切れ目に「ナマエちゃんさ」とひとりが切り出した。普通の話題を振られるわけではないな、というのは声音ですぐに察することが出来た。しかしそれを悟られないようにしながら、ナマエは「なに?」と極めて普段通りの声を出す。

「放課後図書室にいた日ってさ、その、他の男子も一緒だったりとか、した?」

ひんやりと空気が固まる。彼女たちはどういう答えを望んでいるのか。いや、下手に嘘をつく方が悪手だろう。空気を読んで後付けで言い訳をした方が都合がいい。そう判断し、ナマエは本当のことを言う選択をした。

「うん。夏油くんってひと。このクラスなんだよね?」

例えば彼が虐められていて、その仲間とみなされて虐めに加えられる。例えば彼が人気者で、人気者に近づく鬱陶しい女として裁かれる。二種類の方向性で可能性を考えてみたが、皆の反応はそのどちらでもなかった。お互いに顔を見合わせるようにして、何か言いづらいものを口の中で転がしているようだ。

「えっと、まぁ、一応…」
「でも一学期の終わりから来てないしね…」

歯切れの悪い言葉が並ぶ。彼は一応一学期の間は登校して教室に来ていたらしい。ナマエが黙ったまま彼女たちの言葉を待っていれば「夏油君ってちょっとその…」「ねぇ」と目くばせだけで意思疎通を取った。

「夏油君ってワケありなんだよ」
「ちょっと…」
「いいじゃん。本人いないんだし。教えとかないとナマエちゃんやばくない?」

話を切り出そうとしたひとりを別のひとりが止める。特にナマエに害意があってこの話を始めたわけではないようだ。確かに。知っといた方がいいよね。そんなふうに風向きが変わり、ナマエに「あのね」と夏油の話を切り出した。

「夏油君、一年の時に転校してきたんだけど、なんか噂があって…前の学校で人殴って怪我させて退学になったらしいよ」
「え…?」
「そうそう。なんかヤバい連中と繋がってるらしくて…」
「私、親がヤクザだって聞いたよ」

ひとりが話し始めれば、堰を切ったように口々に夏油の噂話を口にした。あの優しそうな夏油が退学になるほどの揉め方をしたのか。正直生徒同士の殴り合いの喧嘩だったら一回や二回じゃ退学処分にまではならないだろう。それになんだ。親がヤクザだなんて。

「え、ホストやってんじゃなかった?」
「違法でしょ」
「だからそういうことじゃん」
「付き合った女の子キャバで働かせてるらしいよ」
「うそぉ」

噂話は続く。信憑性もソースも定かじゃないけれど、予想もしていないような方向から殴られて頭の中は混乱していた。仮にそういうアンダーグラウンドな世界と繋がっているのだとしたら、歓楽街へ消えていったのも説明がついてしまう。

「とにかく良い噂ないからさ、ナマエちゃんも気を付けてね」
「う、うん……」

口先だけで頷いてみたけれど、これで彼のことを避けるかどうかというのは決めかねることだった。彼は自分の隠していた心の奥に優しく触れてくれた。凝り固まっていたそれに気付いてくれた。
ナマエはペットボトルを握る手に力を籠める。だってあの日「何も我慢しなくていい」と言ってくれたことは嘘じゃない。胸の奥がざわつく。彼に会いたいけれど、会って何を言えばいいんだろう。



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