03 図書室の密会


明日、図書室においでよ。というメッセージが届いたのは連絡先を交換したその夜のことだった。断る理由も特に見当たらなかったし、夏油ともっと話をしたいという気持ちもあったから、ナマエはその申し出に乗ることにした。
自分でも説明が出来ないけれど、夏油傑という男は他のクラスメイトと違う空気を纏っているような気がして、彼と話す時間には他のものでは代替できない神秘めいたものがあると思った。もっとも、神秘というものは言い過ぎなのかもしれないが。

「ナマエ、ただいま」
「お帰りなさい」

ナマエはスマホを伏せてダイニングテーブルに置き、帰宅しただろう父親の出迎えに玄関へ向かう。栄転ということもあって部下も増え、今まで以上に忙しくなった。忙しいなかでも娘のことを気にかけてくれているし、父親に対する不満というものはそこまで感じたことがない。

「はぁ…やっと帰れた…。はい、これお土産」
「ありがとう」

玄関ではすっかりくたびれた様子の父が重そうな出張用のボストンバッグを手に何とか革靴を脱いでいる。差し出された紙袋は父の出張先の名物だろうせんべいだった。出張に行くと毎度土産を買ってくるのは昔からのことだった。

「ごめんな、全然帰れなくって」
「大丈夫だよ。私もう高校生だよ?」
「新しい高校はどうだい」
「楽しいよ。今日もクラスの女の子と遊んできたし」
「そっかそっか」

父はナマエが学校になじんで生活をしていることを聞くと喜んだ。これが母親の役割を果たしているか否かは別として、奔放な母親の穴埋めをしようと必死なのだろうということは小学校の高学年くらいのときには察していた。

「家のことは困ったことなかったか?」
「ううん。平気」

ナマエは父のボストンバッグの中から出てきた衣類を洗濯機に入れると、手早く操作をして早速洗濯を始める。ごうんごうんと洗濯機が動き始め、大量の水が流れ込む。意味もなくじっとそれを見つめていて、するとリビングから父の声に呼ばれて、返事をしながらリビングにむかった。


翌日、クラスに向かうといつも通り女子のグループが声をかけてきて「おはよう」とナマエもその輪に加わる。昨日のドラマの話、最近話題の動画、芸能人のSNSの話。ナマエの机に集まるだけで、話の中心にナマエがいるというわけではない。ナマエはにこにこと笑いながら適度に相槌を打ち、ころころと変わっていく話題に乗り遅れないように合わせた。

「ねぇ、今日カラオケ行かん?」
「あー、あたし親に早く帰ってこいって言われてるから無理かも」
「まじかー」

彼女たちが遊びの計画を立てはじめてドキリとした。今日は放課後に夏油と図書室で会う約束をしているのだ。話を振られたら穏便な言い訳を考えなければ。そう思いながら話の成り行きを見守っていると、他の何人かも予定が合わないらしく、今日の放課後の計画は流れたようだった。
そのうちに予鈴が鳴り、担任教師が教室に入ってきたことで話が打ち切りになる。出席を取ったあと、来月の校内行事に関する説明がされた。その日もナマエの南側の席は埋まることはなかった。
放課後、ナマエは「職員室行ってくる」という言い訳を口にして、足早に西棟の図書室に向かった。走って行く必要はないのにいつの間にか速足になっていて、教師らとすれ違えば注意されそうなスピードまで到達する。それからガラリと図書室のドアを開けた。

「は…ぁ……ハァ……」

そこでようやく息をつき、自分が無意識のうちに逃げるようにここまで来ていたことに気付かされた。何度か深呼吸をして、息が整ったところで足を踏み入れる。テスト期間前でもないし、授業後間もないこともあって生徒の数は少なかった。司書の女性にぺこりと会釈をして中を進み、自習スペースに行けば、一番奥の机に夏油の姿を見つけた。文庫本を手に持ち、長い足を組んで読書をするその姿はどこか絵画めいていて、なんだか声をかけるのが憚られる。彼の数メートル手前の正面に立つと、大して意味もなく息をのんだ。夏油はぺらりと1ページ本をめくり、そこに落としていた視線をそっと上げてナマエを見た。

「ナマエちゃん」
「夏油…くん……」
「授業終わったんだ。気付かなかったな」

おいでよ、と手招かれ、彼の座る席の向かいに腰かける。どんな本を読んでいたのかなと思って文庫本を見たけれど、カバーがかけられているからタイトルはわからなかった。

「今日はどれ教えよっか」
「じゃあ、物理聞いていい?」
「うんいいよ」

夏油はどの教科にもそこそこに自信があるのか、先日の数学のみならず物理も教えてくれるようだ。テキストを開き、元の学校では教わっていなかった範囲の部分を指さして「ココなんだけど…」と言えば「ああ、ここちょっとややこしいよね」と少し眉を下げた。

「電場と電位の違いがあんまりわかってなくって…」
「電場と電位は、重力と重力による位置エネルギーの関係に似てるんだ。例えばここの公式だけど…」

夏油の耳心地のいい声が鼓膜を撫でる。彼の綺麗な指が真っ直ぐとテキストの中の公式のひとつをさし、的確な例えをはさみながら解説をした。教科担任の説明よりもよっぽどわかりやすくて、彼のそもそもの理解が深いのだと推察することが出来た。
夏油に勧められて簡単な演習問題に向き合ってみれば、教わる前とは思考回路の動きに雲泥の差があった。

「すごい。夏油くんの説明わかりやすいね」
「そうかい?」
「物理得意なの?」
「うーん。普通かな。どっちかというと文系だし」

彼の言葉にパチパチ目を瞬かせる。この前数学を教えてもらったときも随分わかりやすかったから、てっきり理系なのだとばかり思っていたのに。

「ナマエちゃんは理系?文系?」
「私もどっちかと言うと文系かな…歴史とか好き」
「そうなんだ。私も歴史好きだよ。お揃いだね」

彼の言い回しにどこかくすぐったいものを感じる。ただ同じ教科が好きなことを「お揃いだね」なんて、まるでチャラチャラ遊んでいる男の言いそうな台詞なのに、不思議と彼が口にすると嫌悪感がない。無意識のうちに彼を見つめてしまっていて、ナマエは慌ててテキストに視線を戻した。向かいの夏油が少し笑うような気配がする。

「じゃあ、今度こっちの応用解いてみよっか」
「うん」

夏油に言われるまま、平静を装って問題に向き直った。応用問題は二回ほど間違えたけど、彼が根気よく丁寧に教えてくれるおかげで最終的には正解するだけでなく、問題と公式の中身を理解することが出来た。
いくつかそうして問題を解いたあと、少しだけ休憩しようかとテキストから目を離す。今日も図書室は利用者が少なく、ナマエたちふたりの他には殆ど生徒がいない。

「ナマエちゃん、なんか疲れてる?」
「えっ…」

不意に彼がそう言った。夏油の目がじっとナマエを見つめる。切れながらの目は涼しげで、なにか言い訳のようなものはすべて通じないような、言い得ないちからを感じた。周囲に感情を悟られることは今まであまりなかった。聞き分けのいい賢い子だと言われて、辛さも寂しさも全部内側に隠してきた。

「な、んで……」
「なんとなく…ナマエちゃんって我慢しちゃう性格なのかと思ってさ」

違った?と夏油が小首をかしげる。その通りだ。でもここまで言い当てられたのは彼が初めてだった。父親にだって言われたことはない。どうして彼に見透かされたんだろう。ナマエはゆっくりとまばたきをして、はくはくと唇を何度か動かした。その様子を見て夏油は笑みを深めると「当たりだ」と言った。

「……夏油くん…すごいね」
「そんなことないさ。ナマエちゃんのこと見てればわかるよ」

夏油が平然とそう返す。さも当たり前のようなその言葉に、自分も他人に対して似たようなことを考えていることを思い出した。しかし、だからこそ自分の内側というものは他人に見えてしまわないように気を付けていたつもりだった。それなのに。

「転校したばっかりで大変だよね。女の子は余計」

夏油の言葉に教室での光景が脳裏に浮かぶ。決定的に、なにか不和を起こそうというわけじゃない。自分が黙って周囲に合わせていればそれで済む話で、それだけであの空間も自分の人間関係も円滑になる。だけど。

「……悪い子じゃないと思うし…」
「うん」
「親のこと言われるのも慣れてるし、気にしてないし、そんなのしょっちゅうだし」
「うん」
「でもなんか…なんていうんだろ……上手く息が出来ない瞬間が…あって…」

自分でも説明が出来ない。何と言えばいいのかわからないし、自分の考えがどういうものかも掴めていない。そんな取り留めもないことを夏油に言ったって仕方ないじゃないか。そう思うと言葉を吐き出せなくなって、ナマエの唇が動きを止める。

「ナマエちゃん、ご両親になにかあったの?」
「何かってほどじゃないよ。離婚して父親しかいないの。離婚と転勤重なっちゃって…たぶん職員室で噂にもなってて」

一番腫物に触るような態度なのはこの学校の教師陣だった。長く父子家庭なのであればまた違ったのかもしれないが、転校の直前に離婚しているという点が職員室の中でも特異に扱われる要因なのだろう。大丈夫、そんなのは慣れてる。今更悲劇のヒロインぶる気もないし、母親がいないのなんて離婚するずっと前からだ。

「わたし…大丈夫、だよ」

何に対して言っているのか、誰に対して言っているのか、自分でもよくわからなかった。でも目の前の夏油に「問題を抱えた子」「普通と違う子」「面倒な子」と思われたくなくて、口先だけの言葉を選んだ。
机の上で所在をなくしていた拳を強く握る。すると、夏油の手がナマエの拳に伸び、そっと上から柔らかく包み込んだ。

「我慢しなくていいよ」

はっと顔を上げる。夏油の双眸がナマエに真っ直ぐ注がれ、そこには夕方の光がささやかに映り込んでいた。酸素が喉の奥に詰まり、何も言葉が出てこない。

「私には、何にも我慢しなくていい」

夏油は更に続けた。どうして彼はこんなことを言ってくれるんだろう。出会って間もない人間の奥底を理解してくれていて、彼には特別な力があるんじゃないだろうか。涙こそ堪えられたものの、不意に心の奥の柔らかい部分に触れられたせいでナマエの目頭がぐっと熱くなった。夏油はそれ以上何も言わなくて、ナマエが受け答えを出来るような状況になるまで、じっと黙って待ってくれていた。

「帰ろうか。送るよ」

それからしばらく経って最終下校のアナウンスが流れ、夏油がそう切り出した。広げていたテキストや教科書をパタパタと鞄の中にしまっていく。彼は随分身軽なようで、ポケットに文庫本と財布とスマホを入れているほかは鞄のひとつも持っていない。

「ナマエちゃん、電車?」
「ううん。歩きだよ。学校決めてから引っ越し先決めたから家近いの」
「そうなんだ」

夏油と並んで校舎の中を歩き、もしもクラスメイトに見られたらどうしようかと内心ドキドキした。別に悪いことはしていないし、隠さなければいけないことではないはずなのにどうしてだか見られてはいけないような気分になる。
幸い誰にも遭遇することなく校門を出て「どっち?」と尋ねた夏油に「あっち」と家の方向を指さす。

「あの、いいよ、送ってくれなくても…」
「どうして?」
「どうしてって…まだ遅い時間じゃないし、その、わざわざ送ってもらうの悪いし…」
「私が送りたいんだ」

ダメかな?と、まるで乞うような言い回しで、どちらかと言えば頼むのはナマエの側のはずなのに、そんな言い方をされるとこれ以上強く辞退は出来なくなってしまう。ナマエが小さく「じゃあ、お願いします」と言えば、にっこりと笑って夏油が「良かった」と言った。

「ねぇ、夏油くん、今日も学校くるの…遅かったの?」

ふたつ交差点を越えたあたりでナマエがおずおずと尋ねた。彼は今日も教室に来なかった。しかも荷物もまったく持ってきていないようだし、まともに登校して授業を受けようという学生の行動とは思えない。

「ああ。ちょっと家のことが忙しくてね」
「ごめんね。その…忙しいのに私の自習に付き合わせちゃって…」
「いいんだよ。昼くらいには全部終わったからさ」

昨日の昼もそう言っていた。しかも登校するや否やあの人形めいた美形が迎えに来てしまって、そのまま学校を出て行ってしまったが。彼の身の上はわからないけれど、なにか実家が大変なことになっているんだろうか。そこまで踏み込める関係ではないし、と、尋ねることに二の足を踏む。

「…まだしばらく、教室来れなさそう?」

言葉を選びに選んで、なんとかそう絞り出す。学校生活の中で夏油が大きなピースになっていることは間違いなくて、だからもっと、学校で彼に会いたいと思った。教室に来てしまうと、図書室での時間が失われるようで惜しいような気もするが「どうして学校に来ないの?」という本当に聞きたい部分を歪曲して聞くにはこれしか言葉が思いつかなかった。

「待っててくれてるんだ?」
「そりゃあ…席となり、だし…」

言い訳になっているかもわからない言い訳を口にすると、彼がくすくす笑う。

「じゃあ、来週からは教室に行くよ」
「ほんと?」
「ああ。ゴタゴタもそろそろ収まりそうだしね」

彼は教室に来てもナマエに同じような態度を取ってくれるだろうか。夏油は人が良さそうだし、教室に来れば囲まれるくらいの人気者かもしれない。それはそれで寂しくなって手放しで喜ぶことが出来ないけれど、彼が窓際の席に座っているところは、やはり見てみたいと思う。



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