02 二面性の都市


新生活の滑り出しは順調。初日に両親が離婚したことをカムアウトしたから多少憐憫の目で見られることもあるが、そこは言い回しひとつでどうとでもなった。季節外れの転校生の存在は彼ら、彼女らにとってとても手ごろな新しい刺激で、それを満たすようにしてやれば充分上手く溶け込むことができた。大丈夫、上手くできてる。

「えー、ナマエちゃん毎日自分で料理してんの?ヤバ。超偉くない?」
「料理って言っても簡単なのだけだよ。自分で食べられればそれで良いかなーみたいな」

転入から三週間、ナマエの周りには休み時間のたびに人が集まる。クラスのマジョリティの女子生徒がその中心だった。

「ナマエちゃんさ、今日遊び行かん?門限きつい感じ?」
「うん、あんまり遅くならなければ大丈夫だよ」
「あ、てか家に親いないなら門限とか関係ないやんね」

あははは、と笑う。ちくりと刺されたような気がしたが、彼女たちにそこまでの悪意はないのだろう。親がいない状態なんて想像もしたことのないような彼女たちにはきっと「口うるさく言う親がいなくて羨ましいな」とでも思っているに違いない。ナマエはにっこりと笑う。大丈夫、傷ついてなんかいない。傷ついたってしかたがない。


昼休み、ナマエの周りを取り囲むグループがたまたまなのかナマエの周りを取り囲まず、ナマエは隙を突くかのように教室を抜け出した。特に理由があったわけではない。なんとなく、なんとなく毎時間のように囲まれることに息が詰まったのだ。
抜け出しても特に行き先は思いつかずに、とりあえずひと気のない方へと足を進める。昼休みというせいでそこかしこから賑やかな声が聞こえてきた。

「……お昼、いいかな」

お腹はすいているはずなのに、なんだか何にも口に入れる気にならない。勢いだけで引っ張ってきたトートバックには今朝コンビニで買った菓子パンが入っているけれど、そのバターと砂糖の味を想像するだけで少し気持ちが悪くなった。
三週間ではまだ敷地の殆どに足を踏み入れていない。移動教室で行くような教室のない棟には何があるのかサッパリ知らなかった。ふらふらとあてもなく歩いていたのも疲れてしまって、花壇の隅のレンガに腰を下ろした。見上げると、今日も良く晴れた空がのんびりと広がっている。

「あれ、こんなところでどうしたんだい?」

突然右側から声が聞こえて、ナマエはびくりと肩を震わせた。声には聞き覚えがあり、右を向けばにっこりと笑った男と目が合った。夏油傑だ。

「えっ…と…」

ナマエは返答に迷い、言葉を詰まらせる。いつも上手に適切な言葉を選ぶことが出来るはずなのに、どうしてだか上手く話すことが出来なくなった。夏油はナマエの様子など意にも介さず、図書室でしたのと同じように当たり前のような顔でナマエの隣に座った。

「そういえば、このあいだ図書室で会ったときに連絡先聞きそびれたと思ってさ」
「え、あ、うん…」
「だから教えて」

夏油はポケットからスマホを取り出すと、メッセージアプリを開いてナマエに差し出す。ナマエは少し遅れたテンポで同じようにしてスマホを取り出して、彼の画面に表示されたQRコードを読み取った。新しい連絡先に彼の名前が追加される。

「夏油くん、今登校してきたの?」
「うん。ちょっと家の用事があってね」
「そうなんだ」

彼とは転入初日に出会ったのに、未だにクラスでその姿を見かけることがない。例えば登校拒否とか保健室登校とか、そういうようなタイプには見えないが、だからと言って不良のようにも見えない。どうして教室に来ないのかな、と少し気になる気持ちはあったけれど、あれこれと他人に詮索される不快感を知っているからこそ踏み込むのは憚られた。

「お昼、教室で食べてないんだね」
「うん。なんとなくね」

夏油に昼のことを突っ込まれ、ナマエはもごもごと言葉を濁す。教室で、というよりは今日は昼そのものを食べていない。そういう彼はどうなんだろうな、と思って「夏油くんお昼は?」と聞けば「まだ」と返答があった。

「ちょっとバタバタしちゃってさ。昼食いっぱぐれるなんてよくあるんだよ」
「そうなの?」
「そうそう。こっちは育ちざかりの男だぞって感じだろ?」

ハハッと夏油が笑う。同級生のはずなのに、彼には他の男子生徒とは違う不思議なものを感じる。それがなにかを言葉にすることが出来ないのがもどかしい。所在なく視線を自分の手に向け、そこでトートバックの中身のことを思い出した。

「あの、甘いのなんだけど、よかったら食べる?」

がさごそとトートバッグからビニール袋に包まれた菓子パンを取り出した。今日のそれはメロンパンだ。夏油は切れ長の目を少し見開き「いいの?」と言うものだから「余計なお世話だったら別に」と引っ込めようとすると、ナマエの手首ごときゅっと掴まれる。

「ありがとう。いただくよ」

ナマエの手首が解放され、メロンパンだけが彼の手に移っていく。びっくりした。手首を掴まれたとき心臓が止まるかと思った。夏油は早速ビニール袋からメロンパンを取り出し、大きな口でぱくりとかぶりついた。涼し気な見た目から想像できない豪快な食べ方に目を奪われ、あまりにも見てしまっていたせいか彼がナマエの視線に気付いて「ん?」と小首を傾げる。

「う、ううん。なにも…」
「そう?」

言い淀むナマエを追求することなく夏油はあっという間にメロンパンを平らげる。ポケットからハンカチを取り出して指先を拭った。男の子なのにハンカチをしっかり持ち歩いているなんてきっちりしている。
不意に、夏油のスマホが着信を告げる。彼はディスプレイに表示された名前を見て眉間にしわを寄せた。

「うわ、最悪」

夏油はそう溢すと、少しため息をついてから「ごめんね」と断って電話に出た。少し怒ったような声がスマホの向こうから漏れ聞こえる。

「ちょっと悟。私、今学校なんだけど。いや、知らないよ」

声音がどこかナマエに向けるものとは違うような気がした。内容まではわからないが、電話の向こうの男は夏油が話す量の二倍くらいの言葉数で話しているようだった。夏油はそれを「ああ」だとか「うんうん」だとか、半ば適当な言葉で相槌を打って挙句の果てに「ちゃんと聞いてるって」と言っていたから、恐らく適当に受け答えをしていることを見破られたに違いなかった。

「は!?勝手に来るなよ……はぁ、もう、わかったってば」

夏油は特大のため息をつき「今から行くよ」と言って通話を切る。登校したばかりの彼はどうやらまたすぐ学校を出ていかなければいけないらしい。

「メロンパンありがとう。ちょっと野暮用で行かなきゃいけなくなっちゃって」
「全然……えっと、忙しいんだね?」
「ちょっと今だけややこしいことになっててさ」

夏油は曖昧に笑ってナマエはその他にかける言葉もとくに見つからなかった。少しだけ一緒に歩き、校門との分かれ道になるだろう地点に来ると「私はこっちだから」と彼は校門の方へつま先を向けた。

「またね」
「あ、うん、また…」

夏油はもつれるナマエの受け答えに少しだけ笑うと、ひらりと手を挙げて校門の方へ歩いて行ってしまう。ナマエは少しの好奇心でこっそりと彼の後ろを追った。素行不良でも登校拒否でもなさそうな彼が一体どんな呼び出しで来たばかりの学校から帰ってしまうのか。気がつかれてしまわないように距離を取りながら尾行すれば、西校門の向こうにひょっこりと白髪が動いているのが見えた。

「あ、傑。おせぇよ」
「まったく…悟は自分が目立つってことをもっと自覚してくれ」

塀の向こう側だから良く見えない。これ以上身を乗り出したら向こう側から自分の姿が見えてしまいそうだ。いくつか言い争いのように言葉が交わされ、車のドアが開閉するような音が聞こえる。ナマエが意を決して少し首を出すと、走り去る寸前の車がちらりと見えた。後部座席には窓際に頬杖をつく男が見えて、それが遠目でもわかるくらい人形めいた美しさをしていて驚いた。車の影はすぐに見えなくなってしまった。


放課後、誘われるまま6、7人で連れ立って放課後繁華街に行くことになった。三つ先の駅の名前は祥楽寺駅と言った。転入初日に聞いた通り、かなり大きな駅で東口にはゲームセンター、カラオケ店、カフェ、雑貨店など若者の集まるような店が沢山並んでいる。

「東口はファミレスとか多くて、ウチらあそこのサイセとかでだべってんの」
「スダバ寄ってく?」
「今日はいんじゃね?新作来週じゃん」

ナマエの相槌を待つことなく話が進んでいく。にこにこと笑って黙っていれば問題ないからこの状況はラクだ。彼女たちの集団の最後尾をついて歩き、彼女らのお気に入りだというカフェのひとつに入店した。少し人数も多いからか多少の待ち時間を経て席に案内され、アイスオレを注文する。

「てか聞いて。まじマサのやつ有り得んのやけど」
「なに、また浮気?」
「浮気っていうか、なんかサッカー部のマネと二人で出かけてんの見かけてさ」

話は年頃の少女らしく恋愛の話で盛り上がった。いわく、この面子のうちのひとりが他校の男子生徒と付き合っていて、その男子生徒が部活のマネージャーと出かけているのを見たらしい。それを浮気に含むかどうか、またそれに気付かなかったフリをするのか追求するべきか、ということが熱い議論で展開される。

「二人はなくない?」
「そうそう。部活の買出しとか二人で行かんし。てかマサくん前科持ちでしょ。フジ甘やかしたらダメだって」
「でもさぁ…」

彼氏の身の潔白を信じたいのか、彼女は自分で話題を提供しておきながらどうにか自分が疑う事実が嘘であれと願っているように見える。そんなものはここで議論したって真偽はわからないし、それは彼女たちも承知のことだ。「大丈夫だよ」と無責任でもいいから言ってほしいという気持ちの現れで話題にしたのだろうことは想像に難くない。

「ナマエちゃんどう思う?」

突然水を差し向けられて、ナマエは面倒だな、と心の隙間の冷たい部分でそう思った。こういう問答に正解はないし、正解を口にすることだけが正解とは限らないのだ。そんなの両親で腐るほど見た。

「私、彼氏さんのことなんにも知らないからいい加減なことしか言えないよ?」
「いーのいーの!なんかさ、新鮮な視点?みたいなやつでさ!」

思いのほか食い下がられて逃げることも叶わず、ナマエはいくつか言葉を思考する。正直な話他人の痴話喧嘩に興味はないけれど、この輪を乱すのもよろしくない。

「私だったらデートとかのときにさりげなく聞いてみたりしちゃうかなぁ」

ナマエの無難な回答を足がかりに「フジ、あんた絶対我慢できずに直球で言うでしょ!」と他から悩む本人へツッコミが入り、問答が有耶無耶になっていく。自分の番が終わったことにホッと胸をなでおろしながら、今度は違う女子生徒の片想いの話、学校でモテる先輩の話と話題が変わっていく。
誰それがかっこいい、誰それがイケメン。そんな言葉の中でなんとなく思い出したのは今日の昼の光景だった。あの人形めいた美形が同じ学校かどうかはわからないが、夏油はモテるのではないのか。芸能人級のイケメンとは言わないが、涼し気な目元は凛としているし、背も高くてガタイもいい。おまけに転校生にあれだけ親切なのなら、きっと他の女子生徒にも紳士に違いない。

「ねぇ、ナマエちゃん彼氏いるの?ホラ、転校前の学校とか!」
「えっ。いないよ。彼氏とかいたことないもん」
「えぇぇ、ナマエちゃん可愛いのに!」

ぐつぐつ考える思考を割くように声が飛んできて一瞬動揺した。お世辞丸わかりの「可愛いのに」を受け流し、ナマエはモテる男子の流れで夏油のことを聞こうかと唇を開く。どうして彼はクラスに一度も来ないのか。それはずっとなのか、それとも最近のことなのか。そしてどうして誰もあんなに目立ちそうな彼のことを一度も話題にすらしないのか。

「あの」

ナマエが声を発したことによって視線が集まる。けれど夏油のことを尋ねることが何故か出来なくて、取り繕うように「学校の先生の名前全然覚えられなくてさ」と全く関係のないことを口にした。思いのほかこの話題は彼女たちの興味を引き、やれ数学の教師は、やれ古文の教師は、と今までのエピソードを披露してくれた。よかった。本当に聞きたかったことはこれで気取られずに済んだ。


彼女たちのお喋りに付き合って二時間程度を消費し、一番門限の早い子の時間にあわせて駅で解散になった。そういえばこの駅は彼女たちから「駅西は行かない方がいい」と教わった駅だ。
一体どんな感じなんだろう、と、好奇心と怖いもの見たさで西口に向かう。出入り口の汚さは東口とさして変わりはないが、東口より圧倒的にネオンのような光が多いように見える。時間帯のせいもあるんだろうが、制服姿の学生はほとんどおらず、サラリーマンや煌びやかな恰好をした女性がその人混みの多くを占めているように思われた。

「…やっぱ帰ろ」

うっかりここまで来てしまったが、そもそも用もないし学生が夜に来るような場所じゃない。出口を出て数メートルのところで踵を返す。

「おい、すぐるー!」

聞こえた声にはっと振り返る。傑。もしかして彼がここにいるのかと思って思わずきょろきょろ当たりを見回した。けれどあの涼しげな相貌はどこにも見当たらない。いや、人違いか聞き間違いだろう。ナマエは改めて西口から駅構内に入り、そのまま帰路についたのだった。



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