登竜門の錦鯉


まさか極道の男と結婚するようになるなんて、子供の頃は想像もしていなかった。極道と関わるということは、カタギとの縁を断つということである。実質男手ひとつで自分を育ててくれた父と縁を切らなければならないのは申し訳なかったけれど、そのくらいの覚悟がなければ極道の妻なんて務まるわけもない。

「…ハァ、何度見ても慣れないなぁ」

ナマエは立派な日本家屋を見上げてため息交じりにそう呟いた。夏油と交際をして数年。先日彼と籍をいれ、正式に夫婦になった。彼は現在五条組の舎弟頭という立ち位置らしい。組の立場にはあまり詳しくないけれど、同じ組に属している若衆の七海から聞いたところによると、かなり若くしての異例の出世であるようだ。
今日は五条の呼び出しで五条屋敷に呼ばれている。ここはいわゆる組事務所というものではなくて、五条の父親である組長や五条、それから部屋住みと言われる若い衆が暮らしている屋敷だ。

「あの、こんにちは、夏油ナマエですが」
「姐さんッ!お疲れ様ですッ!」

門の近くに立っていた若衆に声をかけると、バッと膝を割って頭を下げられた。彼らの兄貴分はあくまで夏油であって、妻である自分にまでこんなに畏まる必要はないと思うけれど、そうはいかないらしい。
若衆に案内され、屋敷の中を歩く。すれ違うたびに「お疲れさまです!」と気合の入った挨拶をされ、その度に恐縮しながらぺこりと会釈をして回った。学生の頃はこんなヤクザ丸出しのひとなんて怖かっただろうけれど、水商売と夏油との付き合いで随分慣れてしまった。

「若!失礼します!」
「入れ」

奥の方の部屋まで辿り着いて若衆が襖の向こうに声をかけると、五条が返事をする。その応答を待って襖が開かれ、中では広い畳の間の一番奥の座布団に五条が座って待ち構えていた。ナマエに自分の向かいに座るよう言いつけて、ナマエは指示された通りに向かい側の座布団に腰を下ろした。案内の若衆を下がらせる。

「五条く…あ、若様…?」
「別にここじゃいつも通りでいいよ」
「あ、ごめん。ありがとう五条くん」

呼び出されたのになんで呼び出されたのかは聞かされていない。しかも夏油は不在だし、こんなところにまで呼び出して自分に一体何の用だというのだろう。五条は「えーっと」と言葉を練り、それから口を開いた。

「ちょっとウチの上が騒がしくてさ」
「うえ…?」
「そ。慶道会本家…五条組の親組織の会長が病気でヤバいらしくてさ。会長が死んだらもちろん次は誰が会長になるんだって跡目争いでモメるわけよ」

五条組は関東慶道会という大きな極道組織に直系の組として属している。当然五条組のように多くの組が慶道会に属しているが、同じ組織だからと言って円満というわけではないのが現実だ。特に跡目争いとなれば普段以上に争いは激しくなる。

「俺の親父…まぁ、ここの組長がね、その椅子に一番近い人間のひとりで、会長が運ばれてから最近はもう騒がしくて仕方ない。組長が会長を襲名するとなれば、五条組の組長の席には若頭の俺がつくことになるし、慶道会の中でも当然五条組の力が強くなる。それを面白く思わない連中がわんさかいるわけ。ここまでわかる?」
「う、うん…一応…」
「まぁそうなってくると、ナマエにも危険が及ぶかもしんないんだよ」
「エッ、ごめん、急にわかんないんだけど…」

跡目争いで五条組が他の組から目を付けられるというのは分かる。だけど途中で自分の話が出てきて急に分からなくなった。五条が噛み砕いた説明を付け加える。

「俺が組長になったら傑を若頭にする。慶道会で一番力を持つ五条組のナンバー2の女は弱みになるって考える馬鹿が絶対いるんだよ」
「な、なるほど…?」
「俺には女がいないし、隠れて握れるような弱みもない。直系の組長の息子で若頭となれば正面切って喧嘩を売るわけにもいかない。だけどナマエなら今のところただの舎弟頭の女なわけだから、切り崩しやすいってわけ」

なるほど、人質なりなんなりのていの良い材料だということだ。五条組は任侠のある極道だとナマエは思っているけれど、極道というものの全員が全員そういう極道だというわけではない。目的のためには最終的に非道な手段に出るということは想像に難くない。

「なるほど…。えっと、でもさ、なんで五条くんのお屋敷でこの話をしたの?」

想像に難くはない、が、どうしてこんなところに呼び出したのか。話をするだけなら夏油と暮らしている部屋でも充分事足りる。用もないのに家に押しかけてくるくらいなのだから、今回もそうすれば良かったのに。そう思ってそのまま尋ねると、五条はべぇっと舌を出した。

「ナマエが舎弟頭、夏油傑の女だって組の人間に見せるためだよ。改めて顔見せて、コイツは舎弟頭の女で若頭の俺の客人だって、そういうことがわからない馬鹿はこの組にはいない。傑に事前に言おうもんなら、私のナマエを誰にも見せたくな〜いって言うに決まってるしな」

似ても似つかない夏油のモノマネを混ぜながらそう言って苦笑した。「それって結局帰ったら私が傑に怒られない?」と言えば「お前はどーせ許してニャンとか言ってりゃなんとかんなんだろ」と適当なことを言われた。
夜になって帰宅した夏油に今日のことを話したら案の定ご立腹のようだったが、試しに「ごめんね、許して?」と甘えてみればすぐに許してもらえた。さすがに「許してニャン」なんて恥ずかしいことは言わなかったけども。


セクレトへの出勤の準備を整え、店に向かう。仕事は辞めてもいいと言われていたけれど、ムツへの義理のようなものもあったし、専業主婦というのも性に合わない。そう言う理由で独身時代と同じとはいかないけれど、殆ど裏方のような業務内容で仕事を続けていた。

「おはようございます」

裏口からバックルームに顔を出し、ボーイたちに挨拶する。仕入れの食材やグラスの確認をして今日の出勤の名簿をチェックした。今日は特に五条組関連の接待は入っていない通常営業の日だ。通常と言っても会員制の高級クラブだから、ある程度見知った顔しか来店しないのだけれど。備品の箱を開梱して段ボールと一緒にまとめていく。

「じゃあ私これ裏に捨ててきますね」
「あ、すんません、お願いします」

まとめた段ボールを持ち上げ、裏口に向かった。段ボール類は出たところにすぐあるごみ箱に保管するようになっている。ごみ箱の少し重い蓋を開け、ぐちゃぐちゃになってしまわないように右側から順に立てかけた。再び蓋を閉め、ぐっと大きく伸びをする。

「おう姉ちゃん、ちょっと顔貸してくれねぇか」

えっ、と声を上げる間もなく手首を強く掴まれる。手を掴んできた男はどこからどう見てもヤクザ者の見た目をした派手なシャツの男で、その顔に見覚えはない。この街は極道がはびこる程度には治安の悪い街だけれど、五条組がケツモチをしているセクレトで揉め事を起こそうなんて馬鹿な人間はいない。五条組に因縁をつける輩以外は。

「や、やめてください!人を呼びますよ!」
「ははは、威勢がいいなァ、さすがヤクザのオンナだってか」
「あなた…誰ですか…!」

男はどこの組かは名乗らなかったけれど、ジャケットの胸にはしっかりと代紋が付けられている。しかし極道の事情にあまり詳しくないナマエにはそれがどこの組のものだかどうかまではわからなかった。

「大人しくしてりゃあ悪いようにはしねぇよ」

そう言いながら男が取り出したのは刃渡り10センチを超えるだろうナイフだった。ヒュッと喉が妙な音を立てた。過ったのは五条組の屋敷で聞いた話だ。跡目争いで揉めている別の組の人間が、弱みを握るためにナマエを狙う可能性がある。充分注意をしていたつもりだけれど、まさかセクレトでこんな目に遭うとは思わなかった。

「わ……私なんか何の役にも立ちませんよ」
「おっと、それを決めるのはアンタじゃねぇよ」

男は掴んだナマエの手首を引き寄せられ、足を踏ん張ってはみたけれど力で勝てるわけもなかった。首筋にナイフがあてられる。足がガクガクと震えた。このままどこかに連れ去られるのか。その先でどんな目に遭うのか、いくら極道の女だからとはいえ、その仕打ちのすべてがどんなものかを知っているわけではない。

「へぇ、良い女じゃねぇか。さすが噂の夏油のオンナだってだけはあるな」

男の手がナマエの顎先を掴む。いつまでも戻ってこないナマエを不審に思ってムツが助けに来てくれるか、助けを呼んでくれるか、それにしたってここから連れ去られる方が早いに決まっている。助けて、傑、と祈るような気持ちで目を閉じた。その時だった。

「おいおいおい。人のシマで何してんだよ」
「うぐッ……!」

聞こえてきたのは祈った先の夏油の声ではなかったが、それでも良く知った声だった。五条だ。男が呻き声をあげて、ナマエのそばにあった気持ち悪い体温が離れていく。瞼を上げると目の前には何人かの舎弟を引きつれた五条が立っていて、自分の背後にいたはずの男はもっと後ろまで吹っ飛んでいた。五条はナマエの隣をすいっとすり抜けて進み、這いつくばる男に一直線に歩いた。

「は!?ご、五条悟!?きょ、今日は会合のはずじゃ…!」
「馬鹿はすぐにブラフに引っかかるんだから困るねぇ」
「く、くそ…!確かな筋の情報だって──」
「お前、傑がここにいなくて良かったな。じゃなきゃここで死んでたよ」

五条が容赦なく男の横っ面を殴りつけた。骨がぶつかる鈍い音が路地に響く。それから五条は男の胸倉を掴むと、耳元で何かを囁いたようだった。それきり抵抗していたはずの男は黙ってしまう。五条が「おい」と声を出すと控えていた舎弟が歩みより、ナマエを襲った男を拘束した。

「さぁて、これで敵が誰かも分かるかな。悪いねナマエ。半分囮みたいに使ったことは傑には黙っといて」

口ぶりから察するに、例の慶道会内部の「敵対組織」を炙り出す意図があったのだろうことを理解した。「ご、五条くん…そ、そのひとどうするの?」と少し震えたまんまの情けない声で聞くと、けろりとした声が帰ってくる。

「ん?勿論これからお仕置きだよ」

じゃあ、早速行ってくるから。と彼はまるでお出かけの予定を報告するような自然さで言ってみせた。これ以上は聞かないほうがいいだろう。五条は刺客を捕えたまま表に停めていたワゴンに乗せて、自分はその後ろの黒塗りのセダンに乗り込む。残されたナマエはというとムツに事情を説明し、舎弟のひとりの車で自宅マンションまで送られることになった。


──五条組の管理する倉庫の一室。捕えた構成員をパイプ椅子に縛り付け、目の前にしゃがみ込むとじろっと顔を見上げた。もう舎弟に随分とヤキを入れさせたあとで、目元は腫れあがっているし鼻と口からはダラダラ血を流している。

「あーあ…お前さ、どうやってケジメつけるつもり?あの子、カタギだよ?」

舎弟を下がらせ、室内には二人きりになった。そうなったことでむしろ空気は重くて冷たいものに変わる。こちらには身内同然の人間を狙われた道理があるが、向こうにはそんな道理はない。五条が懐のドスに手を伸ばし、抜き身のそれをボロボロになった男の頬にぺちぺちと当ててみせる。

「こんなのさぁ、エンコじゃ済まないよ」
「ヒッ……お、俺はなんにも知らない!あ、あの女があんたらの身内だったなんて…」
「知らなかったで済まされるわけがねぇだろうが!!」

五条は目の前で凄み、男にぐっと顔を近づけて睨み上げた。ガチガチと歯がぶつかる音が聞こえてくる。

「お前には、色々聞かせてもらうからね。この俺が、直々に」

正直なところ、腹が立っていた。友人の妻に手を出されそうになったことも、そもそも自分が舐められていることにも。舐められたら極道は終わりだ。だからそのためにケジメはきっちり付けさせなければならない。
さて、手始めにまた恐怖と痛みを与えるところから始めようかと立ち上がると、終わるまで開けるなと言いつけてあったはずの扉がギィっと開く音がした。

「悟、それ、私に任せてくれないかい?」
「ヤだよ。お前絶対殺っちまうだろ」
「まさか。こんなことで殺しなんかやったら終わりだよ」

コツコツコツと上等な革靴の音が密室に響く。どうせ来るだろうとは思っていたけれど、随分早いご到着のようだ。

「──でも、やられたらやり返す。それが極道ってもんだろう?」

五条組はどちらかといえば荒っぽい仕事をこなしている方だが、その中でも武闘派で通っている夏油を前にして縮みあがらないわけもない。夏油は懐からナイフを取り出し、開いている男の足の隙間をねらってパイプ椅子の座面にそれを躊躇なく突き立てる。

「じゃあ、仲良くお話しようか」

死んだ方がマシだった、なんてことは世の中ザラにあるものだ。ただでさえ血の気の多い夏油の、その一番大事なものに手を出そうとするなんて地雷を踏み抜くにもほどがある。一足先に事務所に戻らせてもらおう。その旨を口にしながら踵を返し、金属製のドアは重く閉ざされた。



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