ex 一番星の日常


極道社会というのは、当然ナマエの知らないことばかりが転がっている世界だ。セクレトに入るために躍起になっていた時期はアンテナを張っていたこともあってそれなりに「シマ」だとか「シノギ」だとか「盃」だとか、およそ一般社会ではフィクションでしか聞かないだろう言葉の意味を覚えたけれど、それでも覚えきれないほど彼らの世界は自分の生きていた世界とは違っている。

「ナマエ、おはよう」
「おはよう、夏油くん」

夏油とは、大学卒業後に一緒に暮らし始めた。彼の仕事上あまり交際を自ら口にするようなことはなく、五条やムツなどの世話になった一部の人間にはことの顛末を知らせるために交際を始めたことを報告したが、フジへの報告はまだ少し先にする予定だった。
セクレトの仕事は続けている。夏油と生活を共にするということを選択した以上、一般企業で働けば極道の人間との関りはトラブルに発展しかねない。その話を夏油はすごく申し訳なさそうな顔で言ってきたけれど、ナマエはわりとすんなりと受け入れた。それくらいのことは夏油のそばにいることと天秤にかけるまでもなかった。

「…夏油くん?」

起き抜けの彼にコーヒーを用意していると、彼はもの言いたげに少しムッと口をつぐむ。何か彼の気がかりになることや不満に繋がるようなことなんてあっただろうか。ナマエがきょとんと首をかしげていると、夏油はずいっとナマエとの距離を詰め、遠慮もなしで腰を引き寄せる。

「夏油くんって、いつまでそうやって呼ぶつもり?」
「え?」
「ほら、なんて呼ぶんだった?」

何を言いたいのかを一拍遅れて理解をした。正式に付き合い始めてしばらく経った頃、夏油に下の名前で呼ぶようにお願いされたのだ。そう言われて頑張ってみたものの、長らく「夏油くん」と呼んでいたからすぐに変えるのは難しかった。
もごもごと唇を何度かこすり合わせる。すぐる、と口にするために少し口をすぼませて、すると夏油はこてんと首を傾げて「ん?」と先を急かした。

「す……すぐる…くん…?」
「よく出来ました」

夏油は傾げた首をそのままナマエに近づけ、額にチュッと軽くキスをした。ふよふよとそこから浮遊感のようなものが漂ってくる。ナマエは熱を持つ額に手を当て、さすりと指の腹でキスされた額を撫でた。

「じゃあ、ナマエちゃんの淹れてくれたコーヒーが冷めないうちにいただこうかな」
「……もう」

照れを隠すように抗議をしてみたが、夏油はどこ吹く風で上機嫌になってコーヒーの入ったマグカップが用意されている椅子の前にしれっと座った。高校生の時から変わらないことだけれど、彼の前でいつも自分はタジタジなままで、ナマエのほうはいつも振り回されてばっかりだ。


夏油との生活に不満はひとつもない。広々とした、というわけではないが、二人で暮らすには充分な広さのマンションに二人きりで暮らし、あまり頻繁に出歩けるわけではないけれど、二人でちょこちょことデートをしたりする。自炊が中心で、極道の女というほどの派手な生活は送っていない。

「んっと…夏油くんのシェービングなくなったって言ってたっけ」

買い物だって一般人と変わらない。今日だってドラッグストアで日用品を購入しようと吟味している。自由業、と言われるだけあって、彼に決まった勤務時間というものはない。立場としては五条組の若頭である五条悟の右腕のような存在らしいが、どういう仕事をしているのかはしっかり聞いたことがない。まあもっとも、そんなものは聞いたところで教えてくれることはないだろうけど。
夏油のいつも使っているシェービング剤を買い物カゴに入れると、他にストックを買っておくべきものが他になかっただろうかと棚を物色した。水切りネットはこの前買ったし、トイレットペーパーも買い置きがある。洗剤の類も切らしていなかったし、今日のところは他になにもなかっただろうか。

「あ、そうだ。綿棒買って行こ」

途中で思い付き、綿棒をはじめとする衛生用品の並んでいる棚に向かった。なくなってしまいそうという程じゃなかったが、思いついたからついでに買ってしまおう。さて綿棒を、と手に取ってカゴに入れると、後ろを歩いていた別の客がぬっと声をかけてきた。

「でぇ、傑のサイズのゴムはぁ、どれだっけぇ?」
「は!?」

ぐるんと振り返ると、よく知った白い髪の男がニィッと笑っていた。他でもない夏油の上司のような存在にあたる、五条悟である。ドラッグストアの商品棚の間に詰まる彼は随分と浮いて見える。

「五条くんっ!ちょっと急に出てきて何言ってるの!」
「なんだよ、避妊は大事だろ?」
「大事だけどっ!そうじゃなくて!」

ひょいっとひとつコンドームの箱を手にして「コレ?」と聞いてくるから「どれかなんて知らない!」と答えれば「知っときなよ、傑の女でしょ」とへらりと笑って返ってきた。そりゃあ大事なことだけれど、彼に指摘されるようなことじゃない。

「ていうか、五条くんひとりで出歩いてていいの?」
「べつに?」
「夏油くん言ってたよ。五条くんが一人で出歩いて困るって」
「傑は心配し過ぎなんだよ」

いつだったか、夏油が家で疲れたような顔をして「悟には若頭としての自覚が足りない」だとか「街で護衛撒いて逃げた」だとかと小言をこぼしていた。あれ、ひょっとして今日もその「護衛を撒いた」というやつじゃないのか。

「ひょっとして……」
「バレたか」

ナマエが全部を言葉にしなくても五条には言いたいことは伝わったようで、その上思った通り護衛を撒いてきている日であるらしい。彼の「若頭」の立場がどの程度危険に晒されて、だから護衛が必要で、というのは事情のよくわかっていないナマエには推し量れることではないのだけれど、少なくとも必要だからついているわけで、こうしてお気軽にひとりでドラッグストアになんて来ているのは良くないわけだ。

「もう…怒られても知らないよ」
「大丈夫だって。今日の護衛どうせ七海だし──」
「どうせ私で悪かったですね」

ぬっとまた別の声が割り込む。え、と思って声のほうを振り向くと、ブルーストライプのスーツを着た金髪の男が少し息を切らした様子で「探しましたよ、若」と言った。五条のほうはというと盛大に舌打ちをしている。

「今日早かったじゃん」
「毎日逃げられたら私が夏油の兄貴に怒られますよ」

どうやらこのブルーストライプの彼、七海が逃亡中の若を探しに来た護衛であるようだ。七海はナマエにぺこりと頭をさげ、そこから五条といくつか会話すると、五条がやれやれといった調子でナマエの手に持っていたカゴを取り去り、当然のように七海に渡す。ちょっと!と突っ込む間もなく七海はこれまた当然のようにそれをレジに持って行った。

「ちょ、ちょっと五条くんっ!」
「いいからいいから。ほら、送ってく」
「え、えぇ?」

五条に背中を押されて退店を促され、あれよあれよという間に気が付けば黒塗りの高級セダンの後部座席に乗せられていた。七海はというと何も聞くことなくシェービングフォームと綿棒の入ったレジ袋を持って戻ってきて、そのまま運転席に乗り込んだ。

「ナマエ、コイツ七海ね。ウチの若衆。なんかあったら勝手に使ってくれていいから」
「は、初めまして…」
「七海といいます」

車内でそんなやり取りとしているうちに、この七海という男が昔バーでナンパに絡まれていたところを助けてくれた男だと気が付いた。もっとも、向こうはそんなことは日常茶飯事だろうし、覚えてはいないだろうけれど。
五条が短く行き先を告げると、七海は危なげない上手な運転で車を走らせた。高級セダンは当然のようにフルスモークで、昔なら「あ、ヤクザの車だ。怖」なんて思っていたそのものの内側にいるのは妙な気分になった。

「五条くん、どこ行くつもり?」
「家。送るって言ったろ。どっか別に寄るとこあった?」
「な、ないけど……」

道順を見ていると、この車は夏油とナマエが同棲しているマンションへ向かっているようだ。わざわざ送ってくれなくても、とも思ったが、いつの間にかそこそこの距離を走っている手前今更それを言うのも憚られた。
近所のドラッグストアを訪れていただけだったからすぐにマンションの目の前に辿り着き、ナマエが後部座席から降りようとすれば、いつの間にか運転席から出てきた七海がドアを開けてくれていて、ナマエは慣れないことに恐縮しながら重々礼を言ってその車を降りたのだった。


あの七海という男はあまり極道者らしくない見た目だったと思う。まぁそれを言えば五条もそうは見えない類いの人間なんだけれど、そういうふうに見えるのは自分が普段夏油と一緒にいるからだろうか。そのあたりの感覚は正直結構麻痺しているかもしれない。

「おねぇさんおねぇさん、時間ある?あるよね?ちょっとウチ寄っていかない?」
「えっ」

数日後、そんなことを考えながら祥楽寺駅の繁華街を歩いていたものだから、うっかりキャッチを無視し損ねた。キャッチは無視が鉄則だというのにとんだ失敗だ。キャッチの男はセールストークを良く回る舌で展開し、今度こそ無視を決め込もうと前を向くと「ちょっと聞いてよおねぇさん」と肩を掴まれた。

「おい」

割り込んで来たのは先ほどから喋り続けているキャッチの男とは別の声で、先日聞いたばかりだからすぐに誰かわかった。五条組の若衆だという七海だ。

「あっ、七海さんじゃないですか!最近どうスか?」
「そんなことは今いいですから。彼女嫌がってるでしょう。そのあたりで」

キャッチは七海の顔を知っているようだった。祥楽寺駅は五条組のシマも多いのだから、顔見知りでも不思議なことじゃない。七海はキャッチを止めてくれる気だったようで、ナマエから手を引くようにとキャッチに言った。キャッチが事態をあまり飲み込めない顔できょとんとして、七海は「彼女は組の大切な女性です」と言うと慌てた様子で手を離した。

「す、すんません!失礼しましたァ!」
「い、いえ……」

キャッチはペコペコと何度も七海に頭を下げ、これ以上下手を打ってたまるかとばかりに超高速で逃げていく。なんだかわけのわからないまま助けられてしまった。ナマエは礼を言わなければと向き直ると、先に七海の方が口を開いた。

「姐さん、ご無事ですか」
「え?」

お礼を言おうとして、思いもよらない言葉をかけられたから出鼻を挫かれた。「えっと…あ、姐さん…?」とオウム返しをすれば、今度は七海がきょとんとする番だった。

「ええ、若とその……懇意にされている方…ですよね?」
「えっ…アッ…ええッ!?」

七海の説明でようやく理解をする。「姐さん」というのは極道者が自分の上の立場の人間の妻や恋人だとか愛人だとか、いわゆる「女」という存在を呼ぶ言葉であり、あろうことか目の前の彼はナマエの相手が五条だと思っているらしい。ナマエはブンブン勢いよく両手を振った。

「えっと、五条くんとはそういうのじゃなくてその…高校時代に夏油くん伝手に知り合った友達?みたいなので…」

ナマエは的確な説明を手探りでさがしながら七海に言葉を続ける。自分が恋人か何かなんて誤解されたままでいるのは五条に申し訳なかったし、そもそもナマエだって夏油とそういう関係にあるのだから、他の男とそう思われるのは本意じゃない。

「そうなんですか、失礼しました」
「あ、いえ……お、お付き合いさせてもらってるのは夏油くんの方で…」

改めて自分の口から説明すると恥ずかしい。いや、大して知らない女にこんなふうに恥ずかしがられても彼が困るだけだとはわかっているのだが。七海は面倒そうな顔を見せることはなく「そうですか」と平坦な声で相槌を打った。

「では、姐さんとお呼びすることには変わりなさそうです」
「え?」
「夏油さんは私の兄貴分ですので」

そういうものなのか。その辺の立場とか関係とかルールとかはよくわからない。ここからどこへ行くのか尋ねられ、セクレトへ出勤するところだと伝えれば七海が送ってくれると申し出てくれた。通いなれた道だし申し訳ないし、と辞退しようとしても、

「姐さんに何かあったら夏油の兄貴からヤキ入れられますから」

と、こんなことを言われてしまったらお願いするしかなかった。
その夜仕事から帰ってきた夏油に七海が助けてくれてその上「姐さん」なんて呼ばれて少し照れてしまった、と言う話をしたら、大袈裟なくらいこちらのことを心配してくれた。

「セクレトへ出勤だったんだろ?大丈夫だった?」
「うん。七海さんが送ってくれたの。なんかカッコいい人だね」
「は!?え…!?」

なにもこの評価は今日に限ったことじゃなくて、バーでさらっと助けてくれたときのことも含んでいる。何の気なしに言っただけのこの発言に大いに動揺し、奇しくも普段は見ることができない余裕のない彼を拝むことに成功したのだった。



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