20 薔薇色の林檎


彼の腕の中は熱い。布越しだということがわかっているのに、抱きしめられた部分から焼け付いてしまいそうだと思う。煙草の匂いと、アルコールと、それからあのアパートで嗅いだ香水の匂いが混じっている。

「…どうして、ナマエちゃんがここに…」
「…会いたかったから」

自分のことを読んでくれる声音は昔のままだった。ナマエはもぞもぞと身じろぎをして両手を彼の背に回し、抱える手に力を込める。夏油傑が、いま再び自分の目の前にいる。それだけで胸がいっぱいになった。

「私ね、夏油くんに会いたくてここまで来たの」
「……それだけで、こんなところまで?」
「うん。それだけ」

他の何を諦めても、もう一度だけ会いたかった。夏油が小さい声で「馬鹿だな」と呆れたような、慈しむような声音で言った。一度身体を離すと「ちょっとこっちにおいで」と手招かれて、セクレトのそばにある外階段を上って建物の屋上部分に辿り着く。さほど高い場所ではないから夜景を一望とはいかなかったが、普段横からしか見ることのない街を見下ろすのはなにか、自分の生活を俯瞰するような気分になった。フェンスの傍に向かい、両手で柵を握る。夏油も続いてナマエの隣に立った。

「……どうやったら夏油くんにまた会えるかなって考えたの。ここ、五条組のお店だって言ってたから、ひょっとしてここで働いてたら会えるんじゃないかと思って」
「でもここ紹介制だろう?」
「うん。だから紹介してもらえるように歌舞伎町のキャバと銀座のクラブで働いて、ついこのあいだ、ここに口利きしてもらえたんだよ」
「え、嘘だろ……」

ハァ、と彼がため息をつく。呆れられてしまっただろうか。いや、それでもいい。ようやくここまで辿り着いたんだ。夏油はいくつか言葉を選ぶような慎重さで口を開く。ナマエはその横顔を見上げる。

「…私は知っての通り、極道の人間だ。昔ナマエちゃんの目にしたような暴力は割と日常茶飯事だし、立場的にも君を危険に晒すことがないとは約束できない」

彼と最後に会ったあの日の、ナマエが暴力に恐れ慄いてしまったあの日のことは今でも痛いくらいに思い出すことが出来る。例えばあの時自分に覚悟が足りていたら、夏油と別れることなく一緒にいられたのか。
いや、それは違う気がする。覚悟なんて、子供だったあの時出来るはずもない。離れて、考えて、悩んで、そうして選んだ今の道だからこそ、今度は間違えないと言える。

「今ならまだ引き返せる。なんにもなかったことにして、君を家に帰すことが出来る」
「夏油くん……」

夏油が柵から手を離し、二歩分ほどそっとナマエとの距離をとる。切れ長の目が優しく細められて、ナマエを見つめていた。それから「我慢しなくていいよ」と、言ってくれたあのときと同じ顔をした。夕日の代わりに今はネオンの明かりが双眸へとささやかに映り込む。

「もし、本当に私に攫われてくれるのなら、明日、あのアパートにおいで」

遠くでサイレンが聞こえている。歓楽街の喧騒は足元を賑わせて、街の明かりのせいで星なんかろくに見えやしない。代わりとばかりに輝くネオンは少しもロマンチックではないけれど、ピンクがかった照明が彼を照らすのは、何よりもきれいなものだと思った。


これ以上店を抜けるのもまずいだろうと、夏油に促されてセクレトの中へと戻った。夏油はまるで何事もなかったかのような澄まし顔で宴席の中に戻り、ナマエも与えられた仕事をこなすことに集中する。バックルームで少し心配そうにムツがナマエに視線をくれたから、ナマエは小さくピースを作った。するとムツは美しく化粧の施された顔で優しく笑ってくれた。

「ナマエ」

その声で名前を呼ばれるのは初めてではないだろうか。ホールからバックに戻ろうとしていたナマエのことを五条が呼び止める。ちょいちょいと指先の動きで呼ばれ、部屋の隅の少し目立たないようなところでこっそりと話を始めた。

「傑のこと頼むわ」
「え?」
「オマエとちゃんとくっついたから言うけどさ、アイツ、会わないって決めた日からすっげぇ荒れてたんだよ。そのせいで結構体張った仕事してて、今、組の中でもゴリゴリの武闘派なんだぜ」

まぁ、元々穏健派じゃなかったけど。と言葉が結ばれた。彼もただ単にナマエと離れただけではなく、苦しんでくれていたのかと思うと心臓がぎゅっと掴まれて、同時に少しだけ嬉しいような気もした。元の鞘に収まったのだからと言いに来たと言ったが、残念ながらまだ元の鞘に収まったわけではない。

「えっと…あの、実はまだ保留、なんだけど…」
「は?」
「明日アパートにおいでって言われてて、それまで保留?みたいな」

五条は飛び出てきた言葉を処理するのに時間がかかっているのか数秒間黙り、そのあと「ハァァァァァ」と腹の底からため息をついた。

「あいつ、マジで意気地なしすぎんだろ」
「フフ、でも夏油くんの優しいところ好きだから」
「へーへー、そーですか」

五条は惚気に付き合う気はないとばかりにシッシと追い払うようなジェスチャーをして、「若?」と自分を探す声に応答するように宴席の中に戻っていった。その声は多分バーで聞いた声と同じだった。


猶予のように時間を貰ったけれど、迷う余地なんてなかった。ナマエは翌日、祥楽寺駅西口に降り立ち、歓楽街の横を通り抜けて北上した。何度も通った道であり、同時に通うことが怖くなった道だった。コツコツコツと小さくヒールが地面を叩く音をさせて、築年数古いこぢんまりとしたアパートに辿り着く。金属製の外階段をゆっくりとのぼり、二階の床板を踏んだところで足を止めた。

「夏油くん」
「ナマエちゃん」

扉の前では夏油がナマエのことを待ち構えていた。昔から変わらないモノトーンのコーディネートで、指の間でくゆっていた煙草の火を携帯灰皿に押し付けて消すと、そのまま吸殻を放り入れる。
ナマエはコツ、コツ、コツとゆっくり彼に近づいた。そのスローモーションの間に今までのことがコマ送りになって駆け巡っていく。

「……来て、くれたんだ」

夏油は小さな声でそう言って、自分の部屋の扉を開けるとナマエを招き入れる。それに従って足を踏み入れたら、靴も脱がないままで後ろからぎゅっと抱きしめられた。自分の肩のあたりに添えられた手に自分の手を添える。

「昨日、ああは言ったけれど、もしも君が来なかったらと思うと眠れなかった」
「ふふ、そんなことするくらいなら、こんなところまで追いかけて来てないよ」
「本当に驚いたよ。しかも悟のほうは知ってるふうだったし」
「五条くんにはたまたまお店で会ったの。ママが気を利かせてくれて、ちょっとだけ話してね」

ナマエの言葉に「ムツママも知ってるのか…」と少し羞恥を含んだような声音で夏油がこぼすから「私のこと手当てしてくれたときのこと、覚えてたみたい」とそのままの事実を伝える。
夏油の腕が一度離れ、上がって、と言って部屋に入ることを促された。ヒールの高いパンプスを玄関で脱ぐと、数年ぶりに彼の部屋に足を踏み入れる。モノトーンで統一された家具、畳の部屋のローテーブル、クローゼットのように使われる押し入れ、陶器のトレイのスペアのピアス、彼の香水の匂い。昔と変わらないままの部屋がナマエを迎え入れた。

「変わってないんだね」
「……変える気になれなくてね」

夏油は少し含みを持たせたような声音でナマエに相槌を打つ。ビーズクッションの前にちょこんと座れば、夏油も同じようにして隣に腰を下ろした。四年と半分。長いようで短い時間は彼の見た目を大人に変えたけれど、この部屋にこうして並んで座っていると、まるであの頃のままのような気分になる。

「部屋を変えると……ナマエちゃんとの思い出が、全部なくなるような気がして。ごめん、女々しかったな。忘れてくれ」
「やだ。忘れない」

ナマエが彼の部屋に彼を見出すように、夏油もまた、自分の変わらない空間を目にすることでナマエの存在を探していたのだ。そう思うとたまらなくなった。

「夏油くんも、私に会いたいって思ってくれてたってことだよね」
「……そりゃあ、会いたかったよ。立場もあるし、住む世界も違う。君を突き放したのは私だし…合わせる顔がないとは思っていたけれど」

突き放されたあの日の背中の遠さをいまでも覚えている。声は聞こえているはずなのに彼は一度も振り返ることがなくて、決定的な別れをまざまざと見せつけられた。一時期は、その背中を夢に見ることさえあった。

「ナマエちゃんを、私たちの生きるような日陰に連れてくるべきではないと思ったんだ。怯えた君の顔を見ていたら、私だって君を怯えさせる側の人間なんだって」

夏油が視線を逸らし、ぐっと拳を握る。歓楽街での発砲事件、祥楽寺駅の東口での喧嘩。彼にとっては些細な日常で、しかしナマエにとっては目にしたこともない非日常だった。その非日常に足を踏み入れるのが怖かった。

「私もね、覚悟が足りてなかったの。夏油くんが怖い世界の人でも大丈夫だってわかってるつもりで、本当は何にもわかってなかった。夏油くんの世界を目の当たりにして、驚いて声も出なかった」
「…ごめんね」
「ううん。私こそごめんね」

夏油といる時間は心地が良くて、まるでなんでも出来てしまうような全能感のようなものがナマエを包み込んでいた。しかしそんなものは思い違いで、彼と自分の違いを見せつけられて怖気づいた。

「夏油くんと会えなくなってからね、私学校でもひとりぼっちじゃなかったの。沢山じゃないけど友達もできて、普通の生活をして、夏油くんがいなくても私は生きていられた」

フジをはじめとする夏油以外の知り合いとも良好な関係を築くことが出来た。しかもそれまでのような自分を全て押し殺すようなやり方ではなくて、なるべく自然体のままで。時間と経験があの頃の悩みを解決してくれたけれど、彼の事だけは解決できなかった。

「夏油くんと私の住む世界が違うって、私のことを考えて夏油くんが離れていったんだから、夏油くんのいない世界で生きることを夏油くんもきっと望んでるんだって、分かってた」

ナマエはどこを見るわけでもない位置にやっていた視線をゆっくりと夏油に定めた。心臓は穏やかで、もうどこにも声に震えはなかった。

「分かってたけど、私、やっぱり夏油くんのこと好きだから」

夏油が唇の動きだけでナマエの名前を呼ぶ。彼の指がナマエに向かって伸ばされて、ナマエはそれが届く前に腰を上げて寄り添ってその手を掴み、そっと手のひらを頬にあてた。

「攫われたりなんかしないよ」

少しでも言い訳めいたような、そういう言葉は使いたくなかった。流されたのでも、一時の感情によるものでもない。考えて、考えて、考えて、本当は彼がいないほうが正常な生活なのだと知って、その生活の中で自分が生きていけることも知って、それでも彼に会いたくてここまで来た。

「私は私の意志で選んで、夏油くんの隣に立ちたいの」

好きだから。

「……参ったな」

夏油は困ったような、少し喜ぶような声音でそう漏らし、ナマエにそっと顔を近づける、触れる直前にお互い自然に目を閉じて、まるで予め決められていたかのような、結ばれた糸が引きあうような仕草でキスをした。一度離れてはもう一度触れあい、また離れては触れあう。繰り返されるキスは次第に深く変わっていって、ナマエは夏油の胸に飛び込んで首に腕を回す。

「もう一度君に、触れられるとは思ってもみなかった」

ナマエの口紅がすっかり移ってしまって、夏油の唇まで赤くなってしまっている。化粧なんてしていない彼の唇が真っ赤になっているのが妙な心地になって、ナマエはちょんっと指先で彼の唇に触れた。

「夏油くん、真っ赤だね。林檎みたい」
「…食べたら甘いか、試してみるかい?」

返事を待つことなく夏油がナマエにキスをする。心地のいい光が窓から射し込んでいる。これから実際のところ彼の隣に立ち続けるために、普通の女が得られるだろう普通の幸せのようなものをいくつ犠牲にしていくことになるのかまだ想像もできない。
それでも間違いなく、ナマエにとってこの人生は薔薇色だと胸を張って言える。



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