19 雪月花の証明


セクレトの客層は銀座の高級クラブと似ていたけれど、多少それらしき客が多いような気もする。もちろん極道の仕切る店なのだから当たり前のことなのだが。ムツによれば、若様はこの店がお気に入りらしく、そこそこの頻度で顔を出しているらしい。

「林檎さん、二番様お付きして頂戴」
「はい。いま伺います」

きらびやかなシャンデリア。芳香を放つ胡蝶蘭。自分とは無関係だと思っていたこの世界も随分と馴染んできた。細いヒールで巧みに毛足の長い絨毯の上を歩き、該当のテーブルまで向かう。品の良さそうな男性客が二人座っている。

「こんばんは、林檎です」

にっこりと笑みを浮かべて自己紹介をする。この笑みもこの言葉もこの名前も、この世界と同様随分自分に馴染んできていると思う。夏油に会うための手段として選んだこの仕事だったけれど、学ぶことは多かったし、得るものもたくさんあった。


好機のひとつは入店して二週間程度で早速訪れた。バックルームの鏡前で待機をしていると、ムツから声がかかったのだ。

「林檎さん、VIPルームに若様ご案内しているから行くわよ」
「えっ、いいんですか?」
「何言ってるの、新人の顔見せなんだから当然でしょう」

ムツは「知らなかったことにする」と言った割にはとても協力的で、夏油のほかに五条組に知り合いはいないのか、と聞かれて「五条悟さんなら面識があります」と答えていたのだ。ここから何か繋がるかもしれないと気を回してくれているのだろう。
ナマエは早速奥のVIPルームに向かい、メロンソーダを前に足を組んでスマホをいじる五条の隣に立った。少し面倒くさそうに五条が顔を上げる。

「こんばんは、林檎です」
「酌なら別にいらないってママに───は?」

サングラス越しでも驚いているのがよくわかる。ナマエだってまさか夏油の前に彼に会うとは思わなかった。五条はすっとサングラスを外し、その美貌を惜しげもなく晒しながらナマエに訝し気な視線を向けた。

「若様、新人の林檎です、どうぞ良しなに」

ムツはにっこりと笑ってナマエを紹介し、五条はじいっとナマエを観察した。まさかあの時の女がここで働いているとは思いもしなかったのかもしれない。ムツが「じゃあ林檎さんよろしくね」と言ってVIPルームを出ていく。VIP客に対して新人キャストをひとり残していくなんてありえないのだから、これは間違いなく彼女の気配りだった。

「…なんでここにいんだよ」
「……夏油くんに会いたくて…」

ムツの退席した室内で小さく五条が尋ねた。「会いたくて」本当にその一言に尽きるのだが、それを聞いて五条は頭を抱えて大きくため息をついた。別に、会えたところでまたもう一度彼と恋人同士になれると約束されているものではないというのは勿論承知のこと。彼の傍にいる権利が欲しいというのは間違いないけれど、立ち止まってしまったままの、あの日の自分がもう一度歩き出すためにここまで来たのだと言っても過言ではなかった。

「はぁぁぁぁ…馬ッ鹿じゃねぇの」
「馬鹿だよ。でも会いたかったんだもん」

馬鹿でもなんでもいい。それで彼にもう一度会えるならそれでいい。夏油に会うことでようやく、あの日止まったままの時計を動かすことが出来る。そうしないときっと昔のことに囚われたまま、自分はあの場所から動けなくなってしまうのだ。

「あれから傑、本格的にコッチの道入って、お前の思ってるような傑じゃなくなってるかもしれねーぞ」
「うん。分かってる」

五条が言った。ナマエがそれなりに変化したように、当然夏油も変わっているだろう。それがどんな風かは分からないけれども、ナマエにはあまり関係のないことだった。

「ていうかここ、キャストは紹介制の雇用だろ。どうやって潜り込んだんだよ」
「えっと、歌舞伎町のキャバクラで働いて、そこの常連さんに銀座の高級クラブの口利きしてもらって、そのクラブにたまたまセクレトの求人が来て…って感じかな」
「マジ?」

よくやるな、と顔に書いてある。五条はアルコールは好まないのか、メロンソーダのグラスを前におつまみのチョコレートの包みをいくつかあけているようだった。五条が「いつまで突っ立ってんだよ」と着席を促して、それに従って腰を下ろす。

「傑は?お前がキャストやってること知ってんの?」
「ううん。知らないと思う。あの日からまったく会ってないし、連絡もとってないから」
「お前……マジか」

感心半分、呆れ半分といった調子で五条がこぼした。あの半年のささやかな時間を糧に、こんなところまで追いかけて来たことを言っているのだろう。自分でも随分なことをしてここまで来たものだと思う。だけど他のどんなものを諦めたって、彼のことだけは諦められなかった。

「今度は全部覚悟してきた。色々たくさん考えたけど、私やっぱり夏油くんに会いたい」

ナマエがぎゅっと拳を握ってそう言うと、五条はまたため息をつく。メロンソーダがしゅわしゅわと泡立っている。

「お前、好きなの飲めよ」
「若様はお酒飲まないんですか?」
「敬語ヤメロ。オマエに使われるとなんか気持ち悪い」
「そうかな…じゃあ他に人がいないときだけ特別ね」

不思議だ。あの頃に戻ったみたいだった。五条くんにとってもらったマスコット、ちゃんと今も部屋に飾ってあるよ、と言えば、彼は少しむず痒そうに唇を合わせた。

「私もメロンソーダにしよっかな」
「酒飲まねえの」
「普段は飲むよ。この仕事ですっかり肝臓鍛えられちゃった」

ナマエが少しお道化て言う。ボーイを呼んで自分も五条と同じメロンソーダを持ってくるようお願いして、運ばれてきたそれで乾杯をする。案外乾杯には付き合ってくれるらしい。

「ねぇ、夏油くんってお酒飲む?」
「あいつザルだぜ」
「ああ、なんか想像つくかも」
「別にガキん時から酒くらい飲んでただろ?」
「私そんなところ見たことないよ?」
「オマエの前では優等生ぶってたんだよ」

五条からこうして夏油の話を聞いていると、このまま彼に会って、好意的に迎えられるような気分になってしまう。良くない。彼も自分も変わったのだから、未だに自分のことを良く思ってくれている保証はない。それでも良いからと思ってここまで来たんじゃないか。

「多分来週傑も来るんだけどさ、お前のこと黙っとこうぜ。面白いから」

五条が悪戯を思いついたような顔で笑う。来週ついに彼に会える。ずっと探していた。もう一度、あなたに会うためだけにここまで来たよ、と言ったら、彼はどんな顔をするだろう。もう一度ちゃんと顔を見て話すことが出来たら、ようやく自分の気持ちに決着をつけることが出来るような、そんな気がする。


翌週金曜日。ナマエが他のキャストに混ざって開店準備をしていると、ムツがキャストを集めた。

「今日は五条組の皆さんが会合で借り切って下さってるわ。みんな粗相のないように」

キャストたちがムツの言葉にはきはきと返事をする。あのVIPルームはそもそも常に五条組のために空室にしてあるのだが、店丸ごとを貸し切りということはかなり大掛かりな会合を催すつもりなのかもしれない。五条が言っていたのはこれのことだろう。それにしても、そんな会合のさなかで彼と話せる機会なんてあるだろうか。

「林檎さん、ちょっとこっち」
「あ、はい」

ムツに手招かれ、後をついてバックルームに下がる。なにか粗相をした覚えはないが、指導を受けるようなことでもしてしまっただろうか。ムツはバックルームの扉をきっちり閉めてナマエと向き合う。それから「今日の夏油さんもお見えになるわ」と言った。それはそうかもしれないけれど、ひょっとして大きな会合だから念のため接触を今回は避けろという話だろうか。

「は、はい…えっと、その…私は表に出ないほうが、良い、とかですか…?」
「何言ってんの、違うわよ。ただね、貸し切りの会合となるとかなり大人数でいらっしゃるでしょうから、せっかく会えてもマトモに話せる機会があるのかわからないの」
「それは構いません。お店にご迷惑をかけるような真似はしたくありませんから」

ナマエが気遣いには及ばないとばかりにそう言うと、ムツは「そうじゃないわよ、馬鹿な子ね」とため息交じりにこぼした。

「ここまでようやく来られたんでしょう。チャンスを逃してどうすんの」
「で…でも……」
「私がちょっと機会を作るわ。だから上手くやんなさいよ」

ムツがナマエの肩をぽんと叩く。それから店内は会合のための準備に追われた。若頭である五条がふらりと現れたときはこれほどの慌ただしさはなかったのだから、貸し切りの会合というのがそれなりに公式の場であることが伺えた。
20時になると、ボーイとキャストが出入り口から両側に揃って並び、総出で出迎える。ナマエもその列に加わり「いらっしゃいませ」と言って頭を垂れる。コツコツと革靴が大理石を踏む音がして、白いスーツが目の前を通り過ぎた。視界の端でその白スーツが小さくピースサインを作る。その正体が五条だろうことは顔を見なくてもわかった。

「さぁみんな、皆さんにお酒をお作りして頂戴」

おおよそ全員が着席したのを見計らい、キャストが事前に決められたソファに座ると、ボーイの運んできた氷とグラスを使って水割りをつくって振舞った。もちろん幹部の席には熟練の先輩キャストが座って接客をしていて、ナマエの役目は全体のヘルプのような役割で、着席して相手をするというよりは時おりボーイのように必要なものを持って回ることだった。場内が落ち着くまでは随分目まぐるしいもので、酒が行き渡ってそれなりに話が始まったあたりでようやくひと息をつくことが出来た。

「あの、私やります」
「え、いいよ。キャストの仕事じゃないでしょ」
「今日は着けるテーブルもないので」

ナマエはそう言ってバックであれこれと片づけをしているボーイの手伝いを申し出た。普段はこんなことをするくらいなら他のテーブルのヘルプにつくところだが、今日は貸し切りだからこれ以上客が増えることはない。
そうして裏方の手伝いをしていると、小一時間程で場内がまた俄かに騒がしくなり始めた。話に区切りがついて宴会モードに切り替わったのだろうか。

「林檎さん、ちょっとこれ持ってって」
「はい」

ムツに呼び止められ、ナマエは手伝いの手を止めてボーイに会釈をすると、ムツの言う通りにトレンチを受け取る。それにはメロンソーダが載っていた。メロンソーダと言えば、と思ってムツの方を見ると彼女は小さく頷いた。

「若様のところに運んで頂戴」
「は、はいっ…行ってきます…!」

夏油は若頭である五条の側近だ。つまり今日の会合でも五条のそばに座っている可能性が高い。ナマエは緊張の面持ちのままトレンチを持ち、VIPルームの一番奥に向かった。コツ、コツ、コツ。喧騒の中でも自分のヒールの音が鮮明に聞こえる気がしてしまう。五条の座っている席を確認して、すぐそばで屈むとタンブラーグラスに注がれたメロンソーダをコースターの上に乗せる。

「お待たせしました」
「ん、サンキュー」

五条が応答して、ナマエが顔を上げる。五条がにんまりと口角を上げていて、その隣に夏油が座っている。

「は………?」

切れ長の目をこれでもかと言うほど見開き、完全に言葉を失っていた。長い髪はあの頃と違ってハーフアップにしていて、スーツの上からでも分かる体つきはより逞しくなっている。夏油くんだ、と、心の中でいとけない気持ちがこぼれ落ちた。

「新人なんだってよ、この店の」
「……悟、君知ってたのか」
「さぁ?」

五条は夏油の訝しむのを少しも相手にせずに、運ばれてきたばかりのメロンソーダに口をつける。それから夏油は大きくため息をついて、ナマエに対して「そこの子、ちょっとついてきて貰っていいかな?」と取り繕った顔で言った。ナマエはこくこく頷く。

「すまない、すぐ戻る」
「ごゆっくりー」

夏油が立ち上がり、ナマエはその後ろをついて歩いた。場が盛り上がっているせいもあり、二人に注目する人間はいない。VIPルームから出たところでムツに出くわし「どうぞ、従業員の通用口ですが」と言って場内を通らずにバックルームへと続く廊下を勧めた。

「ありがとうございます。少し彼女をお借りします」
「ええ。林檎さん。粗相のないようにね」
「はい」

案内された廊下を通り、バックルームを抜け、そのまま裏口から外に出る。あの日彼が抱えて走ってきてくれた路地裏だ。裏口のドアが閉まるのと同じタイミングでナマエの手首がぐっと引かれた。気が付くと、懐かしい彼の体温に全身が包まれていた。



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