01 新世界の孤独


季節外れの転校生、なんていうキーワードは漫画やドラマでよく聞くけれど、まさか自分がそれになるなんて想像もしていなかった。度重なる母親の不倫が原因で離婚することになった。父親はなんとか娘が成人するまでは、と離婚を渋ったが、母親はそれを承諾せずに別居をし、ほどなくして離婚するに至った。
別にそのことを特別悲しんだことはなかった。ナマエの母親はとにかく親という生き物としての適性が低く、まともに育てられたという感覚がなかった。父のもとに引き取られるというのは当然の流れで、それに異論もなかった。

「ここか…」

ひとつ誤算と言えば、父が突然栄転によって引っ越しをしたことと、それに伴って出張が多くなったことだろうか。二年生の夏休みの間に引っ越しをして転校の手続きをして、初日は職員室に一緒に行くという話だったけれど、出張で来られなくなってしまった。だけどそれだって特に問題じゃない。もう高校生だし、学校くらいひとりで行ける。

「失礼します。ミョウジナマエです」

職員室に向かってそう声をかけると、数名の教員がぱっと顔を上げた。そのなかの初老の教員がパタパタと寄って来て「おはようございます」とナマエに挨拶をして応接セットへ座るように促す。
今日から通うことになるこの高校は私立の高校で、偏差値はめちゃくちゃ高いというわけでもなければその逆ということもない。もとの学校の学力で編入テストをクリア出来るくらいのところで、だけど元の学校は公立だったから、制服とか校内の設備とか、そういう学力以外のところは随分と差があるように感じた。

「えーっと、今日は親御さんがみえるって聞いてたんだけど…お母さんは来ていないのかな?」
「あの、両親は離婚して、私は父に引き取られているので母はいません。父が来る予定だったんですが、急な出張で来られなくなってしまって」
「え、あ、ああ、そう…そうでしたね…」

ナマエの回答に担当教諭はあたふたとあからさまに慌て、手元の資料をチラチラ確認した。こういう反応は結構見慣れている。
学校行事というものは不思議と母親が参加することを当たり前に思われているような節があり「お母さんはどうしたの?」という言葉は悪気なく言われる言葉だ。「お母さんは来ない」「お母さんは家にいない」そんなことを言うたびに大人は「しまった」という顔をして、私は何にも気にしてないのにな、と思うまでがワンセットだった。

「えーっと、書類とかがあるんだけど…」
「私が持ち帰ります。週末には父が帰ってくるんですけど、提出は来週でもいいですか?」
「あ、ああ、うん。大丈夫だよ。わからないことがあったら聞いてくださいね」

いくつかの書類を受け取り、クリアファイルに収めて鞄に入れた。こういうやり取りも慣れたものだ。だって母はこういうことで全く頼りにならなかったし、有耶無耶になってしまうなら自分でやった方がマシなことも多かった。

「じゃあ、教室に案内するね」

完全に出鼻を挫かれたとばかりの教師がなんとか調子を持ち直し、ナマエを先導して職員室を出る。私立高校の校舎は公立のものよりもぴかぴかで、生徒の制服もバリエーションが多い気がする。しかしそんなことにはあまり心躍るものを感じることはなかった。
二階の隅がナマエの転入する学級のようで、チャイムの少し後に担当教諭がドアを開ける。ざわついていた教室が徐々に静かになっていくが、教師の後にナマエが続いたことによって何とも言えないざわめきがもう一度広がった。

「おはようございます。今日から新学期ですが、以前も話していた通り、このクラスに新しい仲間が加わることになります。ミョウジさん、自己紹介をどうぞ」
「はい。ミョウジナマエです。今日からよろしくお願いします」

少し寒い言い回しを経て自己紹介を要求され、ナマエは簡潔に名乗ってからぺこりと頭を下げた。どこからともなくパチパチとまばらな拍手が広がり、なんとなく教室内にそれなりのボリュームに仕上がる。
担任から一番後ろの窓際からひとつ内側の席に座るように言われ、机と机の間を移動しながら指定された席に向かう。一番窓際の席は新学期早々休みなのか、誰も座っていなかった。
そこから何事もなかったようにホームルームが始まり、丁度担任受け持ちの授業だったようで、そのまま一限が始まった。進み具合に思ったより差があり、これはしばらく自習しないとついていけなくなってしまうな、と、テキストを眺めながら対策を考えることにした。


一限が終わると、ナマエの机の周りには瞬く間に人が集まった。季節外れの転校生はさぞ珍しいだろう。クラスの中心的人物らしき女子生徒が一番に口を開き、どこから来たの?を皮切りに質問大会が始まった。

「えー、てかミョウジさんこんな微妙な時期に転校とか珍しくない?」
「ね。ウチも思った。高2の二学期って微妙過ぎ」
「いや、逆に半分だからキリよくない?」

ナマエに質問をされているはずなのに、彼女たちの中で話題がくるくると回っていく。別に不快じゃないし、その方が楽だ。にこにこと笑みを崩さないようにしながら慎重に輪に溶け込む努力をする。

「ね、理由とか聞いても良い系?」

こてん、とひとりが首を傾げる。ここで考えたパターンはふたつ。ひとつは「ちょっと言いたくないな」とはぐらかすこと。ふたつめは正直に両親の離婚と転勤が重なったと言うこと。離婚のことも後から知られたら騒ぎ立てられかねないから、セットで言う方がいい。ふたつめはストレートに気を遣われる。しかしじゃあひとつめがいいかというと、またこれも「何故言いたくないのか」という憶測をされる可能性が高いから面倒だ。問題を起こしたんじゃないのかとか、イジメられたんじゃないのかとか、ありもしないことを好き勝手に言われるかもしれない。それならここで気を遣われた方がマシか、とナマエはふたつめを選択した。

「親が離婚したの。お父さんについてきたんだけど、丁度転勤になっちゃって」
「え……」
「あ、でも気にしないで。別にだからどうとか、そういうのないから」

予想通りに空気が固まり、ナマエはすかさずそうフォローを入れる。明らかに「聞いてはいけないことを聞いてしまった」という顔をしていた。

「私、引っ越したばっかでこの街のこと何にも知らないから、教えてくれると嬉しいな」

にこやかな笑みを浮かべて更にフォローを加える。固まった空気が少しだけ解れ、あからさまに気を遣われながらではあるが彼女たちはぎこちなく駅前のクレープ屋とカフェ、カラオケ店やボーリング場のことを教えてくれた。

「あ、でも三つ先の祥楽寺の駅西とかは行かんほうがいいかも」
「そうなの?」
「まーめっちゃヤバいって程じゃないけど…祥楽寺遊ぶとこ多いし。東口のゲーセンとかは大丈夫だよ」

自分たちのフィールドのことになると、彼女たちは次第に機嫌よく話をしてくれるようになった。いわく、その祥楽寺駅の西側はいわゆる歓楽街と呼ばれる場所で、キャバクラやホストクラブ、それから風俗店なども多く、近くに外国人向けの店もあることから、夜に近づくのはあまり好ましくないらしい。
いずれにしても実際にその駅に行ってみなければなんとも言えない。流石に夜は怖いから、昼間に東口に足を運ぶついでにちらっとどんな場所か見てみよう。
短い休み時間がすぐに終わって、二限が始まる。結局窓側の空席は放課後まで埋まることはなかった。


一緒に帰ろうよ、という誘いは有り難かったが、職員室に寄る必要がある。明日一緒に帰ってほしい、という旨を申し出れば彼女たちは気分を害するような様子もなく「また明日ね」と帰っていった。
ようはコミュニケーションなんてタイミングと言い方だと思う。言い争う両親を外野からずっと眺めていたせいか、相手の顔色を伺うことも、調和を乱さずに立ちまわる言い方もいつの間にか身についていた。
親戚の大人たちは、ナマエがその場の空気を読んで発言することを「しっかりしてて偉いね」と喜んだ。相手の様子を見て言葉を選べば、大抵の場合慌てるほど困るようなことにはならなかった。

「失礼します」
「ああ、ミョウジさん。今ツガル先生呼んでくるわね」

職員室に向かうと、知らない女性教諭がナマエの顔を見るなりそう言った。ツガルとはナマエの担任教諭だ。季節外れの転校生だし、どうせ事前に家庭環境がどうのこうのと周知されているのだろうし、知らない教師が一方的に自分のことを知っていてもおかしくはなかった。

「お待たせしましたー。ミョウジさん、えーっと、初日どうだったかな?」
「特に困ったことはなかったです。あ、でもちょっと授業の進みが前の学校と違って。自習したいんですけど、図書室って自習に使ってもいいですか?」
「ああ、図書室ね。大丈夫だよ。西館の二階にあるからね。入って右側に学習スペースがあるんだけど、そこで勉強してる子が多いかな」

担任の勧めに「わかりました」と頷く。いくつか入学前にも聞いた説明をもう一度聞き、ナマエはその足で西館へと向かう。途中鏡に自分の姿が映った。もちろん制服は新しいものだ。ここへの転校が決まって慌てて誂えて、夏休みを挟んだということもあってなんだかんだで間に合わせることが出来た。新しい制服は少しも馴染まなくて、何だか首から上だけ挿げ替えたかのように見えてしまう。

「……まぁ、慣れるんだろうけど…」

スカートの端を摘まみ上げて放せば、ぺらんとプリーツが揺れる。おろしたてのスカートもブラウスも全然身体に馴染んでいる気がしない。ナマエはこんなところで鏡なんて見ている場合じゃない、と思い直し、渡り廊下を通って西館に入ると二階の図書室の戸を開ける。新学期初日だというのもあるせいか、生徒の数は少なかった。
右手を見ると学習スペースとゴシック体で書かれた看板の下がる一画があり、ナマエはその中の橋に座ってノートとテキストを広げた。

「……えっと、数学は…」

すべての教科が元の学校より進んでいるというわけでもないようで、いくつかはむしろ先までやっているものもあった。とはいえ教科書の出版社も同じではないし、細かいところは見直して、わからないところは教科担任に聞きに行かなければ。
ナマエは今まで使っていたノートとこれから使う教科書を見比べ、自分の中で改めて理解しなおしていく。少しの話し声は聞こえるが、基本的に図書室らしい静寂に包まれた空間は心地良かった。両親の不倫、別居、離婚騒動からずっと身の回りが騒がしかったのだ。
カリカリカリとシャープペンシルの動く音ばかりがささやかに手元で回って、いつの間にか図書室はひとり、ふたりと生徒が減っているようだった。消しゴムを取ろうと動かした手が逆に消しゴムを落としてしまい、少し椅子を引いて手を伸ばすと、ナマエの手が到着する前に消しゴムが拾い上げられる。

「転校生?」

消しゴムを拾い上げた手の主の声が頭上から声が振ってきて、ナマエが顔を上げると、涼し気な笑みを浮かべる男子生徒が立っていた。誰だろう。クラスにいたかな。正直関心が薄くてあまり覚えていない。
ナマエは彼の問いを肯定するためにこくりと頷き、すると彼はナマエの向かいに当然のような顔をして座った。

「私の名前は夏油傑。君の隣の席だよ」
「え……」
「ほら、窓際の席」

ああ、なるほど。今日一日顔を見ることのなかったナマエのお隣さんの正体は彼だったらしい。学校には来ていたんだな、と思いつつ、ナマエは「ミョウジナマエです」と軽く会釈をしながら名乗った。

「登校初日から自習?偉いね」
「前の学校と…教科書とが違うので…」
「タメ語でいいのに」
「……じゃあそうしま…そうする」

同級生とわかっているのに、何故だか敬語が先に口をついたのは、どことなく彼に他の生徒とは違うような空気を感じたからかも知れない。夏油は目の前で頬杖をつき、ナマエのノートの中を勝手に覗き込んだ。

「どこやってるんだい?教えてあげるよ」
「いいの?」
「うん。これでも成績は良い方だからさ」

夏油はにっこりと人のいい笑みを浮かべ、ナマエにそう言った。何となく断りづらい空気になり、ナマエはそのまま開いていた数学の教科書の単元を指さす。夏油は「ああ、ここね」と言って、まるで教師のような丁寧さで解説を始めた。本当に彼は同級生なのだろうかと疑うほどなめらかな説明はもしかしたら教科担任のそれよりわかりやすいかもしれない。

「で、ここがここに繋がってくるんだ。あとは暗記なんだけど」
「すごくわかりやすい。ありがとう」
「それは良かった」

それからいくつか夏油に質問をして、彼はまたわかりやすい解答をナマエにもたらす。先ほど初めて喋ったばかりだというのに、夏油はなんだかそういうものを感じさせないような雰囲気があった。不思議だ、と思ってちらりと見上げると、彼がこちらを見つめてにっこりと笑った。

「良かったら、これからわからないところ教えてあげようか」
「いいの?」
「ああ。私もいい復習になるしね」

彼の申し出を断る言葉も見つからずに、それを受けることになった。また図書室でね、と彼は言って、なぜ同じクラスなのに図書室を指定するんだろうと首を傾げる。夏油傑。口の中で彼の名前を復唱する。いままで出会ったことのないタイプの彼は、なんとなく印象的に残り続けていた。



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