18 満点下の蝶々


店での源氏名は林檎。体験入店のときにそのまま採用になって、その時に決めた名前だ。名前なんにする?と聞かれ、何も考えずに来たところを咄嗟に思いついてつけた名前であり、夏油に言われた「林檎みたいだ」という言葉がなんとなく頭を過ったからだった。

「林檎ちゃんね。じゃあ明日からよろしく」
「よろしくお願いします」

ナマエが選んだ店は歌舞伎町でも特に大きなキャバクラで、都内にいくつかグループの店舗を構えている。そのため入店の審査はさほど厳しくなくて、若くて真面目そうというだけで簡単に採用された。こういう業界は入れ替わりもそこそこ激しいから、あまり採用ばかりに時間を使っていられないのかもしれない。

「未経験だよね?わかんないことは僕に聞いてくれていいから」
「はい」

女性ばかりの職場で特有の諍いやマウントの取り合いがあるかと覚悟していたが、店内の人間関係は想像よりも穏やかだった。プロ意識の高いキャストが多いようで、ライバル同士のいがみ合いのようなものが多少あったとしても、それ以上の面倒ごとを起こすようなタイプのキャストは早々に辞めてしまうため、自浄作用のようなものが働いているらしかった。


見た目は超一流というわけにはいかなかったが、持ち前のコミュニケーション能力でそれなりに人気が出始めた。専業のキャストには敵わないけれど、学費のために働いている苦学生という設定はウケたし、いろんなキャバクラで遊んできた人間からしてみればナマエのいかにも素人っぽいところは加点対象であるようだ。努力の甲斐もあって、入店から一年も経つ大学二年の冬にはトップ5に収まるようになることが出来ていた。

「こんばんは、林檎です」
「林檎ちゃん久しぶり」
「お久しぶりですね、お会いできなくて寂しかったです」

にっこりと営業スマイルを貼りつける。思ってもいないことを口にするのはお手の物である。お互いここだけの関係であり、金銭を引き換えに店での時間をサービスする。ここはそういう場所だ。それに加えてナマエは更に「セクレト」に入店する手掛かりを探しているのだから、どっちかと言えば自分のほうがより利用していると言えるかもしれない。

「林檎ちゃんさぁ、全然キャバっぽくないよねぇ」
「あっ、ごめんなさい。まだ慣れなくて…」
「そこそこ。そこがいいんだけどさぁ…ほらもっと別のバイトもあるわけじゃん。キャバじゃなくてガールズバーとかさぁ。林檎ちゃんみたいな子がキャバやるのは大変じゃない?」

これはそこそこ言われるタイプの言葉である。生真面目さと素人臭さが抜けいないが故の言葉だろう。ナマエはいつもこういう話題の時には「学費が足りなくって」と苦学生ぶったことを言って客を喜ばせていたが、時おり客を見定めては違う返しをした。

「…他のお客様にあんまり行ってないんですけど…本当はいつか高級クラブに入ってみたいって思ってるんです。採用も紹介制みたいなすごいところ」
「えっ、高級クラブ?」
「はい。学費のためっていうのもありますけど……クラブのママってかっこいいじゃないですか」

客を見定める基準は「高級クラブに通うような人間か」という点と「五条組を含む極道との関りがありそうな人間か」という点だった。流石に後者は早々お目にかかれないが、前者はそれなりにいる。クラブ通いの出来そうな客層であれば、セクレトに繋がる手掛かりに辿り着けるかもしれないと踏んだのだ。

「紹介制のクラブかぁ。そうだなぁ、林檎ちゃんの落ち着いてる感じ、クラブのほうがに合ったりするかもしれないね」
「そうですか?」
「うん。どこか口利き出来ないか探してみるよ」

ありがとうございます。とにっこり笑う。どこにどう手掛かりが転がっているのか分からないのだ。ナマエはシャンパンのグラスを片手に乾杯をした。


自分がどんどん他人を手玉にとるようなあざとい人間になってきている気はしたけれど、今のナマエにとってそんなものは些細なことだった。夏油に会うためのパイプはどこに転がっているのか分からないのだ。それにいくらセクレトの紹介基準がわからないといっても、夜の店の接客スキルは高いに越したことはないだろう。紹介してもらって不採用でした、なんてことだけは避けなければならない。
大学三年の冬、本指名の太い客と同伴をしているときにこっそりと銀座の高級クラブの求人を口利きされた。現在在籍している店で得られる情報は得たところだったし、何か他の手立てを考えなければと思っていたから渡りに船だった。

「今日からよろしくお願いします」
「林檎ちゃんね、ゲンさんから聞いてるわ。キャバクラとうちだと勝手が違うところもあると思うけれど、見て学んでちょうだい」
「はい」

銀座の高級クラブというのは、さすがにキャバクラとは客層も雰囲気もがらりと違った。時おりマナーのなっていない客はいるが、概ね取捨選択されているように見える。代わりに要求されるものもキャバクラより全体的にレベルが高く、政治やら経済やら、そういう話にしっかりついて行けるほうがウケるようだった。

「林檎ちゃん、さすがゲンさんのお気に入りねぇ」

キャバクラで学んだ接客スキルを応用して、新しい店でもそれなりの人気を得ることが出来た。キャバクラより人数が少ないせいか諍いは近くに感じたけれど、そんなものだって自分の目的からしてみれば些末なことだ。
高級クラブに変わって客層も変化し、得られる情報の幅も広がった。高級店のコミュニティには高級店がある。セクレトという名前を耳にしたのは入店して半年少し経った時だった。営業時間前に事務所の電話が鳴った。これは対外的なものではなく、オーナーやら従業員やらのみが知っている裏番号のほうだ。丁度手が空いていたためにそれに応答した。

『セクレトのムツです。今日そちらのママいらっしゃるかしら』

ひゅっと息をのむ。セクレト。間違いない。今電話口の女性はそう言った。ナマエは慌てて平常心を取り戻すと「確認して参ります」と言って電話を保留にし、ママを探しに行く。セクレトのムツと名乗った女性とママはいくつか世間話をしていて、聞き耳を立てていればどうやら新しいキャストを探しているように聞こえた。

「セクレトねぇ。こないだもひとりウチから紹介したんじゃなかった?」
「まぁ今回も紹介出来たほうが心象良いですよねぇ。ほら、最近偉い人変わったんでしょう、あそこ」
「変わっちゃいないわよ。ホラあの肝入りの坊ちゃんが本格的に仕事始めたってだけ」
「でも、じゃあやっぱりタイミング的に紹介しといたほうが良くないですか?」
「そりゃあそうよ」

電話を切ったあと、黒服とママが少しだけ煩わしそうにバックルームで話をした。やっぱりだ。こんな千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。ナマエはバックルームのママと黒服に「あ、あの…」と声をかける。

「林檎ちゃん?どうしたの?」
「すみません。お話聞こえてしまって……それでその、紹介の立候補ってできますか?」
「え?」
「あのセクレトって祥楽寺の高級クラブですよね?私行きたいです」

頭の中で最良の言葉の組み立てを試みたけれど、果たしてこれが正解かどうか分からなかった。何を言い出すんだと思われるかもしれないし、選考基準を満たしていないかもしれない。だがここで外せば次がいつになるかわからない。

「アンタ、セクレトのこと知ってるの?」
「はい。高校の時に祥楽寺駅によく遊びに行っていて、それで」

ママが黒服に視線を送る。何を問われているのか。祥楽寺駅西口がどういう歓楽街であるのかわかっているのかということだろうか。それなら充分わかっている。わかっているから行きたいのだ。ママは黒服にナマエの今までの経歴がまとまっている書類を持ってこさせ、ぺらぺらとめくった。夜の店にしては珍しいこれは、この店に口利きしてもらう際に信憑性を高めるために持ち込んだものだ。いくつか考えるような間があって、それからママが口を開く。

「うん…そうねェ、まぁ、林檎ちゃんが本当に立候補してくれるなら紹介してもいいわ。林檎ちゃんデキた子だし、前のお店でも評判いいみたいだし、本音言うと、うちも実際いまの稼ぎ頭は手放したくなかったしね」
「ほ、本当ですか…!?」
「言っとくけど、セクレトは稼ぎもいいけど厳しいからね。覚悟して行きなさいよ」
「はい!」

セクレトへの移籍は来月。奇しくも夏油と出会ったのと同じ9月だった。銀座のクラブを紹介してくれた指名客との義理を果たすためにナマエの持ちで招待をしたが、結局その客は大盤振る舞いでナマエの門出を祝ってくれた。こんな私をずっと指名してくださってありがとうございました、と言うと「林檎ちゃんの丁寧な言葉が嬉しかったんだよ」と言ってくれた。良いお客様に恵まれた。そう溢したら、ママは「それもアンタの努力の結果よ」と笑っていた。


9月某日。ナマエは小さい看板の掲げられた店を見上げる。セクレト。五条組の店。夏油と別れて四年と半年。ようやく、ようやくここまで戻ってきた。
営業時間外ということもあり、表の扉を小さく開けて中に声をかける。開店準備のために照明は明るくされていて、ボーイの一人と目が合った。

「あの、今日からここでお世話になる林檎です。よろしくお願いします」
「ああ、銀座からくるっていう子。ムツママ呼んでくるから入って待ってて」

ボーイは手にしていたモップを壁に立てかけ、バックルームにこの店のママであるムツを呼びに行く。奥から紫色の艶やかな着物を纏った中年女性が顔を出した。あの日、バックルームを使わせてくれた女性と同じだった。ムツは「あなたが林檎さんね」と言って、じっとナマエの顔を見つめる。

「……あなた、見覚えがあるわ」
「えっ……」
「何年か前、夏油さんが手当てさせてほしいって連れてきた子でしょう」

四年以上も前のことだ。まさか一度きりのそれを向こうも覚えていると思わず、ナマエは狼狽えた。まさか夏油の同級生だということが露呈すればなにか不都合があると解雇にでもなるのか。

「……覚えて、いらしたんですね…あの時はご挨拶も出来ずにすみませんでした」
「そりゃあねぇ。夏油さんがあんなふうに駆け込んできて手当てをさせてくれなんて言ったのは後にも先にもあなただけだわ」

ムツの言葉に胸がきゅっと掴まれたように感じる。彼が手当てをしてくれる優しい指先は今でも鮮明に思い出すことが出来た。あれから時間が経って今はどうかわからないが、夏油にとってもあの瞬間、間違いなくナマエは特別な存在だった。そしてナマエにとっては今も、夏油は特別な存在であり続けている。

「…私、夏油くんに会いたくて、ここまで来ました」

はく、と唇を動かして、掛け値のない正直な言葉を口にした。本当に、本当にここまで来たのはただ「もう一度彼に会いたい」というその気持ちだけが原動力だった。大学生活と夜の仕事の掛け持ちは想像以上に大変だったし、妙な客や不愉快な客の相手もほとほと疲れた。男の嫌な部分も女の嫌な部分も山ほど見て、時にそれに巻き込まれて、だけどそんなものはすべて、彼に会うためなら些末なことだと思えた。

「…あなた、まさか夏油さんに会うためにこの店目指して業界入ったの?」

ムツの驚いたような声音にナマエは「はい」と頷く。するとムツが「あっはっはっ」と豪快に笑った。

「それはまた、随分酔狂だこと」
「お店には決してご迷惑はおかけしません。私はもう一度夏油くんに会いたいだけなんです。ここで働かせてください」

ナマエは腰を折って深く頭を下げた。ようやくここまで来られたのだ。今更手を放してたまるものか。数秒ののち、ムツが「頭をあげなさい」と言って、ナマエはおずおずと姿勢を戻す。ムツはどんな顔をしているものかと思ったが、呆れたように眉を下げて笑っていた。

「そりゃああなた、もうウチで採用されてるんだから、今更やっぱり辞めますなんて言われたら困るわよ。まぁ…私は知らなかったことにしておいてあげるから、お店に迷惑はかけないで頂戴ね」
「もちろんです!ありがとうございます!」

長かったような、短かったような、どちらとも取れる感覚がナマエの中に満ちていた。バックルームに案内される。ロッカー、デスク、照明のついたテーブル。そしてあの日自分が手当てをしてもらったソファは、未だそこに健在であった。



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