17 歓楽街の憂鬱


華やかなドレス。目が眩むほどのネオン。夜の喧騒はきらきらと輝きを増し、その下で何人も何人もの男と女が行きかっていた。新宿、歌舞伎町。ここは日本一の歓楽街である。

「林檎さん、3卓ご指名です」
「はい」

彼女はその歓楽街の中でもトップクラスのキャバレークラブに属し、顔写真を掲げていた。肌の露出は控えめに、足元は華奢なヒールをはいて、爪は上品なフレンチかグラデーションくらいが実は印象がいい。他のキャストに比べるといくらか地味な出で立ちで、しかし常に店のトップ5には入っている実力があった。

「こんばんは、林檎です」

シャンデリアの明りを反射する磨き上げられたテーブル、ベロア生地のディープレッドのソファは座り心地がよく、香水と化粧品の香りと、それから少しのアルコールの香りが満ちている。
大学二年の冬、ナマエは歌舞伎町のキャバクラで煙草に火をつけていた。


夏油に再会するために思いついた方法はふたつ。ひとつは自分自身が極道の道に足を踏み入れること。しかしこれは門前払いされるリスクが高いし、女である自分がどの程度の場所まで登り詰めることが出来るのかがわからない。彼は「若」つまり若頭の五条と一緒にいた。恐らくかなり組の中でも上層部にいると思われる。五条組の規模はわからないが、大きな組織だった場合そこまで行くのにどれだけかかるかわからないし、ろくに喧嘩も出来ない自分では出世は難しいだろう。
ふたつめ。本命はこちら。五条組の店であるあの高級クラブで働くことだ。大学のオリエンテーリングが終わった日に店を探しに行き、目的の店に辿り着いた。しかし残念ながら「セクレト」の採用形式は紹介制だという。

「だからとりあえずってコト?」
「そう。どこからどう紹介なのかは調べてもわからなかったけど、とりあえずキャバクラの高級店に入れば何かわかるかなって」

高校を卒業してもフジとの交流は続いていた。他の同級生と殆ど連絡を取ってはいないけれど、彼女だけは大学が違う中でも時おり連絡を取っていた。

「はぁー、ナマエちゃんマジで想像以上だわ」

フジが感心したようにそう言って、手元のグラスを傾ける。もうお互い成人しているから、大手を振って飲酒も喫煙もできる。あいにく煙草は合わなかったので吸ってはいないが、酒は仕事柄そこそこ口にしていた。

「もう一回会うって決めたの高三の時でしょ?で、今大学三年の春だから…三年もなんの音沙汰もなくてもブレないってヤバいね。尊敬するわ」
「そうかな?」
「そうだよ。あと言われるまでキャバで働いてるってわかんなかった。私の友達にもキャバでバイトしてる子いるけど、結構オフでもわかるし」

確かに、水商売をしているとそういう世界に特化した見た目になっていく子は多い。ナマエの働いているキャバクラでもトップ3に入っているキャストはいかにもといった華やかさがあって、話によればそこそこに整形などで見た目も整備しており、何となくそういった特徴の共通点が積み重なって「夜の仕事」の空気が出ていた。

「まぁ…私は整形とかで顔いじったりしたら彼に気付いてもらえないかもしれないし…」
「あー。それもあるけどさぁ、ネイルとかも大人しいじゃん?」
「あはは、ああいうとこ、地味なカンジが逆にウケたりするよ」

綺麗で若いプロの女性に酌をされたくて来るくせに、いかにも素朴で素人っぽいキャストのほうが良いなんていう客が時々いる。まぁもちろん、そういう店じゃないところで女の子に絡むくらいならせめて対価を支払ってそういう店に来いよとは思うが、気持ち悪い性欲を向けられているのを察してしまってゾワゾワ鳥肌が立つようなこともあった。

「ま、ナマエちゃんが売れてんのは話術じゃないのって思うけど」
「そう?」
「うん。高校の時から人の話聞くの上手かったけどさ、今は更にって感じだよね」

フジの言葉にパチパチとまばたきをした。あの頃は斜に構えて他人とのコミュニケーションなんて、と思っていたのを「話を聞くのが上手い」と言い換えられるとは思わなかった。本当に自分の視野は狭かったんだな、と、ふとした瞬間に何度も思い知る。

「フジちゃん、ありがとね」
「ん?どーいたしまして。なんかよくわからんけども」

夏油に会ったことでナマエの人生は劇的に変わった。しかしフジと出会ったこともまた、ナマエを変える大きな要因であることは間違いがなかった。
彼との出会いは人生の中の一要素に過ぎず、世界は広くて明るい。そう言うことを知ってなお、彼のことを好きだと思うし、追いかけたいと思う。
夏油に会いたいという気持ちは、追い詰められたところから掴み取るたったひとつではなく、広い世界からでも闇に飛び込みたいと思う、そういうより自発的な気持ちに変わっていた。


一軒目はそこそこの創作居酒屋で、二件目にフジの希望でバーに行くことになった。現在付き合っている恋人との予行演習だそうだ。

「あれ、フジちゃん今の彼氏年下だっけ?」
「そう。一個だけだけど。ちょっとお姉さんっぽいところみせたいじゃん?だから彼が成人したらバーとか連れてったろーって思って」

なるほど。アルコールデビューしたてに本格的なバーは緊張してしまいそうだと思うが、まぁそこまで口を出すような問題ではないだろう。ナマエは自分の指名客と同伴で使ったことのあるバーに向かい、カウンター席に並んで座る。

「おや、林檎さん。今日はお友達と?」
「はい。この子バー初めてで。マスター、なにかおすすめありますか?」
「そうですね…今日は少し暑いですから、ガルフストリームはいかかですか?」

ガルフストリームはウォッカベースのカクテルで、グレープフルーツジュース、ピーチリキュール、パイナップルジュースの入った清涼感のある甘いカクテルだ。見た目も青くて涼し気で、タンブラーグラスで飲むそこそこの度数のものである。
ナマエはフジにグレープフルーツの味大丈夫?と確認し、平気、という回答を待ってマスターにそれを注文する。

「林檎さんはどうされます?」
「私はモヒートで」

マスターが慣れた手つきでタンブラーグラスにグレープフルーツジュースやピーチリキュールをビルドし、次にコリンズグラスにライムを絞り入れて砂糖やソーダ、ミントの葉を入れ、砂糖を溶かしながらミントの葉を潰すと、クラッシュドアイスの隙間からホワイトラムを注ぐ。二人の前にグラスが静かに運ばれて、二度目の乾杯をした。

「んっ、これ美味しい」
「よかった。甘くて飲みやすいでしょ?」
「うん。ナマエちゃんはいつもモヒートなん?」
「大体一杯目はモヒートかな。ここのバー、ミントが新鮮で美味しいんだよね」

フジはマスターおすすめのガルフストリームをお気に召したようだ。ナマエも随分馴染んだ味のモヒートを口にする。ミントの清涼感が心地いい。そういえば、夏油くんはどんなお酒飲むんだろうな、と、生活のふとしたところでいつも彼のことを考えていた。

「夏油くん、どんなお酒飲むんだろうな…って顔してる」
「あ、当てないでよ…」
「だってわかりやすすぎ」

フジは今となっては夏油とナマエの関係を知る数少ない人物で、夏油の話ができる貴重な存在である。聞いてはくれるし乗ってはくれるけど、本質的に土足で踏み込もうとしてこない距離感が心地よかった。

「まぁ、正味彼ならあんときから飲んでたとは思うけどさぁ…ビール?ウィスキー?ナマエちゃん的にはどんなイメージなのよ」
「に、日本酒とか…?」
「あー、ありそー」

何を飲んでいても結局様になってしまうんだろうな、と贔屓目が故に思ってしまうが、実際はどうなんだろう。ナマエの頭の中の夏油傑という男は高校二年生のまま更新されていなくて、想像しようにもそれを引き延ばしたような、薄っぺらな想像しかできないのがもどかしい。

「ナマエちゃんさ、夏油くんのこといつ好きになったん?」
「えっ…!」
「だって聞いたことなかったじゃん!あのときはそういう空気じゃなかったし」

フジからの暴投にしどろもどろになった。確かに高校の時は自分が憔悴していたことや、彼自身によくない噂がつきまとっていたこともあって、いわゆる普通の話はあまりしてこなかった。彼を好きになったきっかけは明白で、あの頃ならフジに聞かれたとしても口に出していなかっただろう。

「夏油くんってね、その…我慢しなくていいよって…初めて言ってくれたひとだったから…」

夕暮れの図書室。誰にも分らない、誰にも触れられないと閉ざしていた場所にそっと彼が触れた。「問題を抱えた子」「普通と違う子」「面倒な子」そう思われたくなくて作り上げたバリケードの中でひとりぼっちで泣いていた。それに彼は気付いてくれた。あの頃の自分は斜に構えて殻に閉じこもっていたけれど、彼の言葉をきっかけに良くも悪くも変化して、その中で得たり失ったりしながら、それでも優しい指先が好きだった。

「ナマエちゃんが辛いときに、欲しい言葉をくれるひとだったんだね」
「…うん。そうかも」

指先をグラスが冷やしていく。ミントの香りが頭の奥の方に抜けていくような気がした。その爽快感を乱す声が割り込む。

「ねーねー、おねーさんたち一緒に飲みませんか?」

割り込んできたのは若い男の声で、ちらりと隣を見れば二人組の男がグラスを持ってナマエたちの隣に立っている。ナンパ目的だろうというのは明白で、乗るつもりもないのだからナマエは穏便に「ごめんなさい、今日はお友達と二人で飲みたいんです」と培った営業スマイルを乗せて言った。

「いやー、女の子二人とか寂しくない?奢るし、よかったらさ」

何も良くはないし、声をかけてくるだけならまだしも、断られて食い下がってくるところが行儀が悪い。普段はこういう類いの客がいないバーなのだが、うっかり客層に合わない人間が混ざり込んだのか。

「ちょっとウチらべつに──」

フジがかかっていきそうなのを庇うようにして立って押さえる。こういう場合、こっちに対して言いがかりをつけられると面倒だ。力では当然勝てないわけだし、どうにか口八丁で面倒ごとを避けていきたいところだが。

「え、君結構乗り気?」

何をどう見れば乗り気に見えるのか。酔っ払いに何を言っても無駄なのは店で学習済みだ。ちらりとマスターに視線をやると、こくっと頷かれた。少し気が早いような気もするが、警察でも呼ぶのか。まぁそうしてくれるなら大ごとにはならずに済みそうだ。

「今日はお引取りいただけませんか?よかったら是非後日」

ナマエはにっこりと笑って財布から名刺を取り出す。後日というのは無論店に来て指名してみろという話だ。もちろん行儀の良い客ばかりを取りたいところであるが、現実問題そうともいかない。多少行儀が悪くても金を落としてくれるならそれ相応の接客をする。

「わ、キャバ嬢かよ」
「全然見えねー」
「てかキャバ嬢なら一緒に飲むくらい良くないスかー?」

別に酒が飲みたくてキャバクラで働いているだけではない。誰が無料で知りもしない男と飲みたいなんて思うんだよ、と悪態が喉元まで上がってきて、それを何とか飲み込む。男は名刺を持ったのとは反対の手を伸ばし、ナマエの手首を掴む。マスターの目があるし、流石に店内でこれ以上危険なことにはならないと思うが、どうしたものか。と、その時だった。ぬっと腕が割り込み、男の手首をぐっと掴む。

「アルコールに任せて女性に無体を働くのは、紳士的ではないと思いますが」
「いってッ……!」

割り込んだ手の主はブルーストライプの入ったスーツを纏った上背のある金髪の男で、垣間見える目は青と緑の混ざったような日本人離れした色をしていた。口調こそ丁寧に聞こえるけれど、声音は随分威圧的に聞こえる。

「マスターから聞きました。店内で女性を無理やり口説いている迷惑な客がいるとか…」
「はぁ!?お、俺たちは別に何も…!」
「これ以上は店に迷惑だ。なにか弁明があるのなら、外で聞きますが」

あ、これは堅気じゃないな。と、金髪の男の背中しか見えていないナマエにもよくわかった。ナンパをしてきた男二人組は怖気づき、コソコソと荷物をまとめて会計を済ませると、逃げるようにして店を飛び出していった。マスターの頷きは金髪の彼を呼んだという意味だったのか。

「失礼。お怪我はありませんか?」
「いえ…大丈夫、です」
「そうですか。お楽しみのところを騒がせてすみませんでした。では」

金髪の彼はナマエとフジに一瞥くれて丁寧に会釈をしてから出入り口の方に向かった。ドアが開く瞬間、外の声が漏れ聞こえる。

「七海ぃ、さっさと行くぞ」
「今終わりました。というか、若までついてくることなかったでしょう」

今の声。若。まさか五条がいるのか。ナマエは弾かれたように後を追う。しかし店の表には先ほどの金髪も、あの白い髪も見当たらなかった。探しに出て行ってしまいたい衝動を押さえ、ナマエはなんとか呆然とするフジのもとへ戻る。

「フジちゃんごめんね。普段はあいいうお客さんいないお店なんだけど…」
「ヘーキヘーキ。それにしても、さっき助けてくれた人かっこよかったね」

ね。と口先だけで同意をした。声だって聞き間違いかもしれないし、フジを残すこともできない。それに仮に五条を見つけたとしても、あの日のように御されて終わってしまうかもしれない。



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