16 日照雨の午後


夏油傑が転校した、という話は、朝のホームルームで機械的に告げられ、それに対して教室の空気が薄く淀んですぐに掻き消された。今日も教室の一番後ろの席にナマエは座る。窓際の席はもう埋まることがない。夏油とナマエが交際しているだろうことは半ば公然になっていたから、周囲はどう扱ったものかと様子を伺う視線を投げた。
ナマエはその視線の一切に無関心だった。この教室ではもう取り繕うことも、過度に合わせるようなこともしていなかったし、彼のことを考えるとそれどころじゃなかった。

「夏油くん、なんかあったのかな」
「悪い噂マジだったってこと?」
「ちょっと…ナマエちゃんに聞こえるって」

ひそひそという声に悪意が混ざっているかどうかも今は分からなかった。ただ彼が永遠に失われたような、そういう大きな穴に吸い込まれて落ちて行ってしまいそうだった。

「ミョウジさん、進路調査票、明日までに出してくださいね」
「あ、はい…」

休み時間、廊下を歩いているところを担任のツガルに呼び止められてそう言われた。そういえば、そんなプリントを貰っていたような気もする。最近色んなことが詰め込まれていたものだから、すっかりそんなことは忘れていた。
呆然と視線をどこでもないところに向けて投げ、窓枠に身体を預ける。思考の空虚な穴でなくてもこの窓の先の地面に、ぽとりとこのまま落ちてしまえたらいいのに。いや、そんな度胸もないくせに。

「ナマエちゃん」
「フジ…さん」
「購買行かね?」

背後から声をかけられた。フジはグイッと親指で外を指さす。ナマエは頷くかどうか迷って、迷った末に結局小さく頷いた。
よくよく観察すると、彼女は社交的なわりに一匹狼のようだった。さっぱりした性格で、誰とでも分け隔てなく接し、そのかわりにどのグループにも属さない。表層だけをみて「どうせみんな同じだ」と結局自分が決めつけていたのだと思い知らされた。

「……なにも、聞かないの?」
「何が?」
「…夏油くんのこと。私と、なんかあったのかって皆探ってる」

困ったような視線の中に詮索したいという好奇心が混ざっていることにはすぐに気が付いた。扱いづらさからか夏油の噂のためか、ナマエに突撃してくる様子はなかったけれど、隙あらば「何かあったの?」とでも聞いてきたいという顔をしていた。

「全然。キョーミないし」
「え…」
「夏油くんが転校したのはどーでもいいかな。だって喋ったこともほぼなかったし。まぁでもナマエちゃんが夏油くん関連で落ちこんでるのは見て分かるし…話して楽になるなら聞くけど」

ナマエの被害妄想とは裏腹に、フジの声はからりとしている。フジの言葉を頭の中でゆっくり噛み砕いていたら、自分の感情が少し整理されるような気になった。たとえば誰かに話をして、自分の苦しみが外側に出ていくことはあるのか。いや、それはない。苦しみは内側で循環し続けているし、循環させることで自分のかたちを保っているのだろう。誰かに吐き出したり助言をもらったりしてもそれは本質的に無意味で、誰に話したって解決しない問題だ。

「…たぶん…楽には、なれない…」

それはナマエ自身が一番よくわかっていた。フジはナマエの返答を聞くとそれ以上は何も追求せずに「てか購買のクリームパン食べたことある?マジ美味いから」と、取るに足らない全く関係のない話を続けた。


残された三学期はあっという間に終わった。クラスの空気はあのままで変わることはなかったが、フジが気まぐれに話しかけたりすることもあり、徐々に特異な視線というものは薄れていくように感じた。
三年生のクラス替えで二年のクラスの面々の殆どとは別になって、フジだけがもう一度同じクラスになった。夏油との噂の影響はまだ完全に消えたわけじゃないけれど、それでも時間の経過と話題性の風化で徐々に小さく小さくなっていった。

「ナマエちゃん、サイセ行く?」
「うん。他の子に声かける?」
「やー、今日は二人だけの気分」

やがてフジは良き友人になった。同年代の他の女子に比べると随分サッパリした付き合いだったが、そういう方がナマエにとってはこういう方が過ごしやすかった。彼女のようなタイプの人間にもっと早く出会っていたら自分の考えや付き合いも変わっていたのか。そんなことは考えても仕方のないことなのだけれど。

「選択体育なんにする?」
「うーん…バレーかなぁ」
「じゃウチもバレーにしよっかなぁ。マジでどっちもダルいんだけど」

昨年同じクラスだった女子グループの中心であるシナノたちとも、険悪で関りがないというわけでもなかった。転校当初のようにべったりと集まって話すわけでもないが、校内ですれ違えば普通に挨拶をして普通に話をする。夏油のいない生活は穏やかで、ナマエの世界は明るくなった。不意にフジのスマホが鳴って、彼女がディスプレイを確認する。

「うーん…」
「どうかした?」
「中学の同級生が合コンのメンバー探してるんだって。ナマエちゃん興味ある?」
「わ、私はいいかなぁ」

だよねぇ、とフジが返し、ディスプレイを暗転させてスマホをポケットに仕舞う。
冷静になって状況を捕えるようになって気付けたことがある。世界は思いのほか、ナマエに興味がない。いままでの自分は必要以上に周囲を警戒して、周囲の人間がどんな人間であるかを勝手に決めつけて斜に構えたことばかりしていた。コミュニケーションは言い方とタイミングだという考えは変わらないけれど、自分を歪めることも他人を気持ちよくさせるための会話をすることも、本当は必要なかった。

「あ、スダバのメロン飲んだ?」
「ううん。最近行ってないや」
「あれさー、去年飲もうと思って結局飲めてなかったんだよねー」

自分はいままでずっと追い詰められていて、攻撃的になっていた。他人に自分の傷は分かるはずがないという単なる事実を達観していたようでいて、本当は誰かに分かってほしかった。だからあのとき、分かってくれた夏油に心酔したし、どうしようもなく求めていて、救われた気分になった。

「行く?」
「や、今日は絶対ドリア食べるって決めてるから」
「じゃあサイセだね」

大人になるって例えばこういうことだろうか。ふと視界にゲームセンターが目に入る。自動ドアが開いて中の喧騒が通りにまで漏れていた。知らない誰かが入店していった。
それから目的のファミレスに入り、適当な席に座ってドリアとティラミスとドリンクバーを二つ注文する。ドリアがフジでティラミスがナマエだ。

「合コンどうすっかなー」
「さっきのお友達の?」

そ。と短くフジが肯定する。いくら高校生の合コンとはいえ、あわよくば彼氏彼女を作りたいという意図で開催されるものだろう。彼女には他校に恋人がいたんじゃないか。

「あの、彼氏はいいの?」
「あー、マサ?こないだ別れたよ」
「えっ、そうなの?」

驚いた。彼女から彼氏の話をいつも聞いているわけじゃないけれど、浮気をされてもそれでも離れがたいというような、そういう話をしていたと思ったのに。丁度そのタイミングで注文の品が運ばれてきて、一瞬会話が中断する。どうして別れたんだろうと気になる気持ちはあったけれど話題を続けて良いかもわからず、スプーンを手に取った。

「ついにきっちり浮気してるの発覚してさ。許せなくなったから。もういいかなって」
「そう…なんだ」

なんて言ったらいいのだろうかと思考する。昔のナマエならすぐに差しさわりのない言葉を選ぶことが出来ていただろう。しかしフジに対してそれをするのは憚られ、言葉を見つけることが出来なかった。

「ナマエちゃん、ウチそんなへこんでないから」
「え……」
「許せんって思ったら別れるって決めてたし、許せないってことは限界ってことじゃん。まぁ、だからもういいかなって」

フジがぱくりとドリアを口に運ぶ。そうか、別れたりしたら、もっと自分のようにどうしようもなくじめじめしてしまうものかと思ったけれど、彼女はそういうタイプではないようで、区切りを決めてしっかり切り替えができているのだ。

「……私も…もういいかなって、思える日来るのかな」
「はは、知らんし!」

ごくんとドリアを飲み込んでからフジがからりと笑う。こういうひとになりたいな、と思ったのは初めてかもしれない。他人と自分の心地いい距離をちゃんと計測して、どこかにもたれかからずに自分の足で立っているような。

「いいじゃん。もういいかなって思えるまで、夏油くんのこと好きでいれば」

ずっと、ずっと考えていた。彼と過ごした半年間は夢のような時間であり、文字通り夢なのだから覚めなければならないと。そうすることが自分のためであり、自分のことを考えてくれた彼に報いる方法であると。
けれどそんな正論はすべて、彼を思う気持ちの前では無意味なものであり、むしろ思うほどに気持ちは募っていった。

「……私、もう一度夏油くんに会いたい」

彼はもう望んでいないかもしれないけれど、彼にはもう自分は必要なのかもしれないけれど。それでも会いたい。彼に会うのはどんな道があるんだろう。自分とは違う世界に住む、彼に繋がる道は。


変わり映えのしない日常は退屈で、しかし穏やかなままだった。夏油と別れたあの日から西口には行っていない。そもそも用もなかったし、未練がましく彼を探してしまいそうな自分が惨めで嫌になるからだ。
高校三年生の一年間は風に吹かれる葉っぱのような速さで進んでいった。ナマエの進路は近くの女子大だった。一年間でこの先どうするべきがを熟考して、彼に辿り着くためのひとつの方法を思いついた。
その日、大学のオリエンテーションを終えたナマエは祥楽寺駅の西口の歓楽街に足を踏み入れる。

「……たしか、向こうのあたり…」

歓楽街で五条組の敵対組織が発砲騒ぎを起こして太ももにかすり傷を負った日。ナマエはあの日夏油に手当てをしてもらった店を探していた。裏口から入ったし上に店の名前は聞いていなかったし、それになにより動揺していたから記憶は曖昧だった。
なけなしの記憶で歓楽街を歩く。路地裏は夕方だというのにもう薄暗くて、なにか良くないことを想像してしまって及び腰になってしまう。

「……はぁ…お店の名前、見ておけばよかった」

あの状況で店の名前を聞いておくなんて発想もなかったし出来たことじゃなかったのは承知だけれど、こうも歓楽街の路地裏をうろうろと歩く羽目になるとそう思わざるを得なかった。
20分程歓楽街の路地裏を徘徊して、候補になりそうな店を三件見つけた。しかし裏口なんてどこも似たり寄ったりで、なにせ正面をみていないから何とも言えない。と思ったその時だった。裏口の扉のひとつが開いて、開店準備をしているだろうボーイが姿を現す。

「あ……」
「おっと、うちはお嬢ちゃんみたいな女の子が楽しめる店じゃないよ」

ボーイはナマエに気が付いて、明らかに客でも関係者でもないだろうナマエをたしなめるようにそう言った。顔を正面から見て確信する。あのときのボーイだ。ここがあの店だったのか。

「あの、私お客さんじゃなくて……ここで働きたいんですっ!」
「え、うちで…!?いやぁ…悪いね、うちのキャストは紹介制でしか採用してないんだ」

ボーイは驚きを隠せない様子だったが、すぐに店の採用方針を口にしてナマエの申し出を断った。そうか、そういう採用条件もあるのか。ここでごねても仕方がないし、ナマエは「そう…ですか……」となんとか返事をして会釈をするお細い通りを表に向かって抜ける。振り返った店先には「セクレト」と小さな文字で店の名前が掲げられていた。


セクレトの裏通り。まるで弟子入りか何かのように「ここで働きたいんですっ!」と言った少女の背中を見送り、ボーイは「あの子……どっかで…」と漏らした。声でも聞こえたのか、店の裏口から着物姿の女性が姿を現した。このクラブのママだ。

「ちょっと、何かあったの?」
「いや、女の子が店先にいたんで声かけたらここで働きたいって…」
「あら珍しい。残念ながら、採用はしてやれないけれどねぇ」
「はい。なんで一応紹介制だからと断りました」

ボーイの言葉に「そ。可愛らしい子だった?」とあまり興味のなさそうな温度で尋ねる。ボーイは先ほどの少女の顔を思い出しながら「いやぁ、普通の女子大生に見えましたけど…」と答えた。

「なんっかどこかで見たことがあるような気がして…」
「ま、とりあえず早く準備してちょうだい。今日は若様と夏油さんが来る日なんだから」

もうここにいない少女の正体は会話としてもさしたる魅力はなくて、ママはそう言いながら店の中に引っ込んだ。今日は20時からこの店の出資者である五条組の期待の若様が来店の予定である。



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