15 天然色の日々


そもそも、彼女と関わったことが間違いだった。自分の世界がどんなものかというのは自分が一番よくわかっていて、そこに彼女を連れてきてはいけないこともちゃんとわかっていた。頭ではわかっていたのに触れる彼女はどうしようもなく甘やかで、触れれば触れるほど手放せなくなった。もっとそばにいたい。ずっと、ずっと近くで彼女を腕の中に抱きしめていたい。それが幻想に過ぎないとはわかっているけれど、願望は日ごと輝きを増すばかりだった。

「悟、ちょっと…」
「あんだよ」
「一時間くらい抜けて良い?」

大晦日の恒例の宴会の日、頃合いを見計らって五条にそう声をかける。最初こそ酌をして回ったり話に相槌を打ったりと忙しかったが、宴もたけなわとなるともうぐちゃぐちゃで、一人や二人抜けたところで分かりやしない。五条の反応があるかないかくらいのところでこっそりと立ち上がり、財布とスマホだけを持って屋敷を出る。
タクシーを拾ってナマエのマンションに向かった。大晦日から正月にかけては宴席が続く。そのせいでナマエとは時間を合わせられなくて、だから少しでも顔を見られないかと思ったのだ。
マンションに到着すると、ベランダ側にまわって履歴から彼女の名前を呼び出し、電話をかけて耳にそっとあてる。

『もっ、もしもしっ!』
「あ、ナマエちゃん、まだ起きてた?」
『う、うんっ!まだ全然!』

すぐにナマエの応答があって、弾む声にくすりと笑いがこぼれた。ナマエの部屋があるだろう場所に電気がついていることを確認しながら「ナマエちゃんはいま家?」と尋ねると『うん。自分の部屋。さっき年越しそば食べたとこ』と返事がある。除夜の鐘がゆったりとした間を持って響き、吐き出す息は真っ白に染まる。

「あのさ、ナマエちゃん、ちょっとだけベランダ出てこれるかい?」
『えっ…えっ、もしかして…』
「そう。もしかして」

夏油の言葉に慌ただしく衣擦れの音がして、ナマエがベランダに姿を現した。いつもより気の抜けたリラックスモードの彼女が驚いた顔でこちらを見下ろして、夏油はひらひら手を振った。

「ナマエちゃんの顔見たくて宴会抜けてきたんだ」
『いま降りるから…っ』
「だーめ。夜遅いし、お父さん心配するだろ?」
『でも…』

流石にマンションの下とはいえこんな時間に彼女を外に出すわけにはいかない。父親もいるだろうし、心配させるのはまずい。ナマエは仕方ないといったふうに黙って、少しの間の後『夏油くん、この後また家でお手伝い?』と尋ねた。

「ああ。だいたいどうせ明け方まで続くからね。ま、後半はお酌してるより片付けしてる時間のほうが長いかな」
『そうなんだ』
「そのまま挨拶回りとかで慌ただしいんだけどさ、3日は空きそうなんだ。だから3日、一緒に初詣行かない?」
『行きたい!』

正月の予定を問うメッセージにその意味が込められていたのは勿論わかっていたからそう提案した。ナマエが一も二もなく応じて、それと同じくらいのタイミングで腕時計の長針と短針がぴったりと重なる。

「あ、年明けたね」
『えっ、ほんと?』
「あけましておめでそう」

偶然を装ったけれど、本当はこれが言いたくて、年越しの瞬間をナマエと過ごしたくて、宴会を抜け出してタクシーでここまで来たのだ。その意図が伝わってほしいような、伝わってしまうのは恥ずかしいような、複雑な気持ちになる。

「顔見れて良かった。また3日に。迎えに来るよ」
『うん、ありがとう』
「おやすみ、ナマエちゃん」
『おやすみ、夏油くん』

小さく手を振る彼女に見送られながら、エントランス側に戻って待たせていたタクシーに乗り込んだ。彼女を見るたびやはり、甘やかな時間が永遠になればいいと思ってしまう。


交際が順調に進んで彼女を自分の腕に抱いて、愛しさは募ったし、彼女のことがどんどん離しがたい存在になっていってしまった。真っ赤に頬を染めて控えめに自分を求める姿はいじらしくて、このまま熱く溶けてしまえばいいと空想めいた思考が頭を牛耳った。
そんな折、関西系統の極道と五条組の間がにわかにきな臭くなり始めた。少し先のシマで発砲事件にまで発展し、そうなれば警察の介入はもちろん、世間もひそひそと騒ぎ立てる。学校なんて行っていられずに、火消しに小間使いにと夏油の生活は慌ただしくなった。

「マジでこっちのシマまで乗り込んでくるなんて馬鹿すぎるだろ」
「そういう馬鹿もいるんだよ。若のシマだからってナメられてるんだろうね」

五条組のなかでも、後継者として若頭の地位にある悟のシマの近くにその敵対組織の鉄砲玉が乗り込んでくるだろうことがタレコミだなんだかんだで発覚し、当日は組の人間を普段の倍以上も配置した。その甲斐があって先ほど無事その鉄砲玉を取り押さえることに成功したようだ。五条を筆頭にしてその現場に足を向ける。
現場は歓楽街の一角で、騒動のために人が円を描くように遠巻きに中央を見ていた。発砲のせいなのか、ネオンのついた看板が地面に落ちている。

「おい、ウチのシマで勝手してるってのはオマエか?」
「悟、まだ近づくな。武器を隠し持ってる可能性がある」
「ンなもん怖くて極道やってられっかよ」

五条をたしなめても聞く耳を持たず、彼は持ち前の長いコンパスで若い衆に取り押さえられている男との距離を詰めた。勘弁してくれ。獲物は飛び道具だけとは限らないのに。

「オマエらがどーせ来るだろうってことは織り込み済みなんだよ。わざわざ無駄な特攻オツカレサマ」
「くそッ……五条のボンボンがッ…!」

わざわざ必要もないのに煽り散らすから、もう勘弁してくれとため息をつく。こんな小物にいちいち構っている場合じゃないんだ。敵対組織との抗争というのはこれから激化するし、もっと正面から若頭の命を狙うヤカラだって現れてもおかしくない。
五条が若い衆に「おい、とっとと連れてけ。商売の邪魔だ」と指示をして、夏油は周囲の損壊を確認しようと目を配る。その時だった。壊れた看板のすぐそばにナマエの姿があった。

「ナマエちゃん…!?」
「げ、と…くん…」
「どうして君がここに!?ていうかその怪我…!!」

慌てて駆け寄って、彼女の太ももに赤く線がついていることに気が付いた。落ちてきた照明の破片か何かで切ったのか。ナマエの声はカラカラで、視線もどこかおぼつかない。

「とりあえず手当てしよう。女の子なのに傷が残ったら大変だ」
「なんで傑の女がこんなトコにいんだよ」
「悟、ちょっと彼女、手当して送ってくる」

背後から五条が声をかけてきた。彼女がここにいる理由は夏油も聞きたいくらいだが、今はそれよりも傷の具合を見たい。この状況で若頭のそばを離れるなんて、という思考も過ったが、例の鉄砲玉を取り押さえているからひとまずはいいだろう。

「はぁ?…ま、しゃあねぇな」

渋々といった様子で許可を出す五条の声を聞きながら、夏油はジャケットを脱ぐと彼女の腰に巻き、そのまま横抱きにして持ち上げる。このあたりなら「セクレト」という五条組が経営に噛んでいる高級クラブがあるから、そこなら手当ても出来るだろう。目的の店に裏口から入ると、バックルームでママとボーイが夏油を出迎えた。

「すみません、うちの揉め事で怪我をさせてしまってこの子の手当をさせてほしいんですが、救急箱借りられますか」
「ええもちろん。ほら、すぐご用意して差し上げて」

見知ったママは詮索することなく快諾し、すぐに救急箱が出てきた。ナマエがおずおずと「あの、夏油くん…ここ…」と尋ねたからここは五条組の店であり、安全な場所であると簡潔に説明をした。ナマエの腰に巻いていたジャケットを取れば、赤い線がすうっと太ももに通る。

「…ごめんね。ジャケット、血がついちゃったよね」
「このくらい気にしないで。それよりナマエちゃんの傷……良かった、深くはないみたいだ」

そっと太ももに触れた。幸い傷は深くないようだ。傷痕の表面の血液は固まり始めている。ナマエが「あの…さっきの、その……」と、もだもだ言葉を探した。濡れた瞳が恐々と揺れる。ああ、彼女が怯えているのだと、その怯えの中に自分が含まれているのだと、夏油はこの時初めて気が付いた。

「…少し前に他の組と揉め事が起きたんだ。今日の男はそれの報復。悟は五条組…私のいる組の若頭でね、あわよくば悟をって狙って来たんだと思う。あのあたりの店は悟のシノギだから」

どうやったら彼女をこれ以上怖がらせることなく事実を伝えることが出来るだろうか。考えてみたけれど、結局どんな言葉を選んでも彼女を怖がらせることしか出来なかった。

「……怖い思いをさせて、ごめん」

なんと言っていいのかわからなかった。こぼれたのはそんな情けない言葉だ。そこから彼女をマンションまで送ることにした。その間何度かなにか言わなければとばかりに彼女の口が動いたけれど、結局何も話すことが出来なかった。


───謹慎を言い渡されて屋敷に籠って数日。五条組の屋敷のなかの与えられた部屋で文庫本を開く。謹慎の身になって、このところ出歩くことは出来ていない。印刷された文字が全部滑っていく。集中できていないのは明白だ。たんたんたん、と少しも控える気のない足音が近づき、断りもなく襖が開く。こんなことをするのは五条くらいだ。

「マジで謹慎してんのかよ。真面目クンは大変だな」
「悟、なにか用かい?出かけるなら悪いがひとりで行ってくれ」

視線を合わせないままでそう言えば、五条はわかりやすく拗ねて目の前に胡坐をかいて座り、じぃっと咎めるようにこちらを見てきた。

「オマエが謹慎することねーじゃん」
「堅気に手を出したのは本当のことだから」
「でもむこうが先に吹っ掛けてきたんだろ?」
「それでもだよ」

数日前、ナマエに呼び出された先で運悪く以前揉めたことのあるヤンキーに出くわした。ナマエの手首をつかんで絡んでいたものだからカッとなって、前歯と骨の数本を折る程度には怪我をさせた。あのヤンキーと以前に揉めたときにすでに夏油が極道と関係があるなんて噂は出ていたはずだが、こけおどしの嘘だとでも思っていたのだろう。じゃなきゃいくら馬鹿でも極道に喧嘩を吹っ掛けようなんて思うこともない。
極道の世界に生きているのだから、堅気に手を出すのはご法度である。それで一度学校を転校までしているし、今回は謹慎が言い渡された。

「あの女は?絡まれてたんだろ?」
「ナマエちゃんはとりあえず無事」
「会いに行かねぇの。鬱陶しいくらいノロケてたくせに」

ぴくりとページをめくる指が止まる。ナマエの恐怖に染まる顔を思い出す。歓楽街で保護したときよりも明確に、怯えは自分に向けられていた。頭に血がのぼって、彼女がいたのに思いっきり男を殴り飛ばしてしまった。怯えさせたことへの罪悪感もあったし、自分に関わるということが彼女にとってどんな不都合を生み出すかということに対する恐怖もあった。

「あの子とはもう会わないよ」

あの日、泣きそうな声で自分の名前を呼んでいた。聞こえていたけれど振り返らなかった。それからナマエから何度も連絡が来た。そのすべてを無視した。着信拒否でもなんでもすれば良かったのに、少しの操作で出来るそれが出来なかったのは、かすかな繋がりを断ちたくない自分の甘えだった。
だけど本当に好きなら、大事なら、自分が離れるのが一番彼女のためになるに決まっている。この道は堅気の人間とは交わらない。そういう世界に生まれて、そういう世界で生きていく。彼女はこの世界に足を踏み入れるべきではない。

「…オマエ、それでいいの?」

珍しく五条が食い下がるように言った。夏油はじろりと睨み返し、必要以上に大きな音を立てて文庫本を閉じる。じゃあ一体どうしろって言うんだ。彼女をこんな世界に引き込めというのか。日の当たるところで生きるべき彼女を、こんな日陰まで。

「それ以外に道はないだろ」

それが覚悟というものだ。彼女の幸せを願うなら、自分のような人間のそばにいるべきじゃない。そもそも、彼女と関わったことが間違いだった。輝きを増す幻想に身をゆだねている時間は終わったのだ。
五条は物言いたげに夏油を見て、舌打ちをすると荒々しい態度で部屋を出ていく。遠さがる五条の足音を聞きながらもう一度文庫を開いた。けれど一文字も頭に入ってはこなくて、結局もう一度それを閉じ、窓の外に視線を向ける。外は随分と、寒そうだ。



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