13 不可視の傷痕


発砲事件が起こった。電車で少し離れた街の話で、どうやら関東慶道会系のなんたらという暴力団の組員が起こした事件であり、敵対勢力の暴力団との小競り合いのようなものではないかと目されていた。普段なら自分には全く関係ないと思って気にも留めないそのニュースにナマエは釘付けになった。

「怖いなぁ。ナマエも気を付けるんだぞ」

隣でテレビを見ていた父が不意にそう言って、必要以上に肩を揺らして驚いてしまった。いや、父には恋人が出来たことを言ってもいなければ、まさかその相手がそういう道の男であることも言っていない。一般的な相槌の域を出ないとわかっているのに、後ろめたさがあるからか自分と彼の関係のことを言われているかのような気分になった。

「大丈夫だよ…あのへん行かない駅だし…」
「そうかぁ?まぁでも、ああいうのだけじゃなくて夜道とかもな」
「うん」

薄い笑みを貼り付ける。やはり父はまさか自分の娘がそういう道の男と交際しているなんてことは知らずに、父はまた娘を心配する一般的な範囲を出ない心配を口にした。


しばらくちょっと忙しくなるんだ。と、夏油から連絡が来たのは発砲事件の起こった翌日だった。その日から彼はまた学校に来なくなって、ナマエは教室での時間をひとりで過ごしたあと、図書室で時間を潰して帰宅する生活を送っていた。ひょっとして以前のように彼が昼すぎだったり、およそ授業に参加するとは思えない時間に顔を出したりしないかと思って待っていたけれど、彼が姿を現すことは一度もなかった。

「あっ…夏油くんから…!」

彼から連絡くらい来ないものかとソワソワしながらスマホを見ていると、ディスプレイに彼の名前が表示された。通話が来ることは珍しくて、勢いよくスマホを取り上げると父は出張中だとわかっているのに周りを見まわし、自分の部屋に引っ込んで通話に応じる。

「も、もしもしっ…夏油くん?」
『突然ごめんね。時間できたから、つい』
「ううん。嬉しい」

スマホの向こうの声は少し掠れている気がする。ちょっと忙しくなる、というその「忙しさ」が恐らく彼の家の事情であることは想像がついていたから、ナマエは何も聞かなかった。

「夏油くん、ちょっと疲れてる?」
『ちょっと時間なくてさ…ごめん、電話で伝わっちゃうくらいって相当だな…』

ふぅ、と彼が息をついた。何か声をかけたいけれど、どんな言葉も彼の「事情」に繋がってしまう気がして言葉を選びあぐねた。少しのあいだ黙ってしまって、すると彼のほうが切り出す。

『ナマエちゃんは体調崩したりしてないかい?』
「うん、平気だよ」

自分はこんなに口下手な方だっただろうか。コミュニケーションなんてタイミングと言い方だ、と思っていたのに、誰にでも使えるはずの汎用的な受け答えの全てが頭の中から飛んでしまってすぐに口ごもった。

「夏油くん…その…怪我とか、してない…?」
『フフ、大丈夫。忙しいだけで危ないことはしてないから』
「ご、ごめん…詮索するつもりは…」

やっぱり何を言っても彼の「事情」に辿り着いてしまった。咄嗟に謝ると夏油は『気にしないで』と軽く笑う。それから夏油がナマエを呼んで、そのタイミングで奥から『すぐるー!』と彼を呼ぶ声が聞こえて話は打ち切られてしまった。

『ちょっと悟……はぁ、ナマエちゃんごめん、また連絡するね』
「う、うん。気を付けてね」

夏油を呼んだのは五条のようだ。そうだとは思っていたけれど、やっぱり五条も夏油と同じ道の人間なのだろう。慌ただしく彼は通話を切って、ナマエは終話状態になったディスプレイを見つめた。


それから二日ほどまた夏油と連絡が取れなくなって、ナマエは「本屋に行くだけだから」と自分の中で言い訳をして祥楽寺駅に向かった。もちろん、書店は口実でしかなくて、西口で彼の姿を見かけたりすることは出来ないかという打算だった。最近こんなことばかりしている。打算めいた考えで彼に会えそうなところに行って、忙しい彼に会えたところで迷惑にしかならないかもしれないのに。

「……西口に行くわけじゃない、し」

そう言いながらも、書店に足を運んだあと少し迷って、ただ街を見るだけなのだからとまた言い訳をして歓楽街のほうに向かった。もう日が落ちているから街のネオンが目に痛い。チカチカと色鮮やかなそれらの隙間に彼がいないか目を配る。

「お兄さん!お兄さん!遊んでいきませんか!」

元気のいい客引きの声が聞こえる。向かいの道では丈の短いメイド服に身を包んだ女性が看板のようなものを持って店先に立っていて、その向こうには華やかに化粧を施した女性とスーツのサラリーマンが並んで歩いている。自分とは関係のない夜の世界が目の前に広がっていて、ちっとも夏油は見つけられそうになかった。

「……はぁ…」

行く当てなんかないのだから、足取りは重いままだ。明らかに場違いな自分に通行人が時おりチラチラとナマエを見ながら通り過ぎる。あてもなく歓楽街を歩いていても仕方がない。もう諦めて帰ろう。そう踵を返したときだった。

「何しやがるテメェッ!!」

怒号と同時に何か破裂するような大きい音が響いた。驚いて身体固まって、殆ど同時に自分の隣に何かが落ちてきて割れる。それが照明が付いた店の看板だと気付いた時には、周囲の人間から悲鳴が上がっていた。

「うちの組にアヤつけやがって…落とし前つけさせてやる!!」
「おい、若呼んで来い!」

目の前には派手な柄のシャツを着た男とスーツを着た男数人が対峙していた。柄シャツのほうは手に何か持っていて、あれが拳銃だと気がついて先ほどの破裂音が発砲だったのだとわかった。スーツの男のひとりが距離を詰め、手に持っていた銃を蹴り落とすと、他のスーツの男が飛び掛かって柄シャツの男を取り押さえる。柄シャツの男は抵抗したが、多勢に無勢だ。数人にのしかかられて地面にうつ伏せにされ、手をひねり上げられた。
ナマエの脳裏に少し前に起こった発砲事件のことが過る。数珠つなぎに夏油のことを思い出したその時。

「おい、ウチのシマで勝手してるってのはオマエか?」

聞いたことがある声とともに、対峙する男の向こうから7、8人の人影が見えた。先頭に立っているのは五条だった。その斜め後ろに、夏油の姿があった。

「悟、まだ近づくな。武器を隠し持ってる可能性がある」
「ンなもん怖くて極道やってられっかよ」

五条は夏油の言葉を一蹴すると、長いコンパスで取り押さえられている男との距離を詰め、仁王立ちになって見下ろす。

「オマエらがどーせ来るだろうってことは織り込み済みなんだよ。わざわざ無駄な特攻オツカレサマ」
「くそッ……五条のボンボンがッ…!」
「おい、とっとと連れてけ。商売の邪魔だ」

五条が男を煽り、絞りだすような声にも取り合わないで周りに撤収を指示する。控えていた夏油は恐らく周囲になにか損害がないか見渡して、そのとき彼と目が合った。

「ナマエちゃん…!?」
「げ、と…くん…」
「どうして君がここに!?ていうかその怪我…!!」

夏油がナマエに駆け寄る。ナマエの声はカラカラで、彼の名前をまともに呼ぶことも出来なかった。怪我、と言われて初めて、自分が落ちてきた照明の破片で太もものあたりを切ってしまっていたことに気が付いた。目の前の光景に痛覚が追いついていなかった。

「とりあえず手当しよう。女の子なのに傷が残ったら大変だ」

彼の声音はいつも通り優しくて、けれど目の前で起きたことは対照的に恐ろしいものばかりで、ナマエの頭の中はぐちゃぐちゃになって言葉が出なかった。夏油が傷を確認していると、背後から五条が「なんで傑の女がこんなトコいんだよ」と声をかけてくる。昼間に街で鉢合わせるような時とは違う、まったく別の人物にさえ見えた。

「悟、ちょっと彼女、手当して送ってくる」
「はぁ?…ま、しゃあねぇな」

夏油は五条にそう言って、ジャケットを脱いでナマエの腰に巻くと、そのまま横抱きに抱き上げた。「血がついちゃう」と言おうとしたけれど、喉が乾いてぺったりと貼りつくせいでなんにも言えない。
夏油が勝手知ったる顔で高級クラブらしき店に入っていくと、バックルームでボーイらしき男とママと思われる中年の美しい女性に出迎えられる。夏油が「この子の手当をさせてほしいんですが」と言えば、二人は何も詮索もすることなく救急箱を持って夏油に預けた。

「あの、夏油くん…ここ…」
「ああ、五条組の店。大丈夫、ここは安全だから」

五条組。彼の属する組織の名前だろう。五条。そうか、彼の幼馴染である五条は、そういう道の人間どころかその中心にいるような人物なのだ。先ほどの取り押さえた男に対する態度を思い出すと背筋が冷たくなるのを感じた。腰に巻かれたジャケットが取り払われて、血が掠っていたのが目に入る。

「…ごめんね。ジャケット、血がついちゃったよね」
「このくらい気にしないで。それよりナマエちゃんの傷……良かった、深くはないみたいだ」

夏油がそっとナマエの太ももに触れる。その手つきはやはり優しいままで、彼が間違いなくナマエの知る夏油傑であると思い知らされる。

「夏油くん…あの…さっきの、その……」

ここまで来てしまって何も聞かないということは出来なかった。ナマエがまとまらないまま言葉を発せば、夏油は珍しく言い淀んで唇を濁らせ、それからやっと開く。

「…少し前に他の組と揉め事が起きたんだ。今日の男はそれの報復。悟は五条組…私のいる組の若頭でね、あわよくば悟をって狙って来たんだと思う。あのあたりの店は悟のシノギだから」

恐らく何も知らないナマエにも分かりやすく説明をしてくれているのだろうけれど、あまりにも自分の日常とかけ離れた言葉が並ぶせいで上手く飲み込めなくて処理に数秒を要した。関東慶道会系のなんたらという組、というのはまさに五条組のことだったということか。ニュースの映像が頭の中で再生される。立ち入り禁止の黄色いテープ。割れたガラス、何台ものパトカー。警官、警官、警官。

「……怖い思いをさせて、ごめん」

夏油が小さくこぼした。彼になにかされたわけではない。だけど彼もまたあの暴力の中の世界にいる人間で、ああいうことが日常にあって、ひょっとしたら敵対する組織の人間を害するようなことをして。優しい、優しい彼が冷たい目をして、その手が赤くなって、飲み込まれそうな夜の街を棲家にして、して、して、いて。

「傷、手当てするね」

夏油はナマエの反応をそれ以上待つことはなく、救急箱の中から消毒液や脱脂綿を取り出して手慣れた様子でナマエの傷を手当てしていく。時には他者を害するかもしれない手が今はナマエに優しく触れる。あっという間にかすり傷に大袈裟なほどの包帯が巻かれた。

「家まで送るよ。立てそう?」
「う、うん……」

夏油が差し出す手に自分の手を重ね、バックルームの椅子から立ち上がる。夏油はママと思しき女性に声をかけ、ナマエも女性に会釈をして裏口から外に出た。彼に支えられながら薄暗い裏道を進み、大通りで夏油がタクシーをつかまえて乗り込む。ナマエの住所を伝えたきり、車内ではずっと無言だった。
彼がどういう世界の人間かなんて知っていたじゃないか。それでも自分は平気だと思っていた。皆が怖がっていても自分だけは違うと、たとえ彼の生きる世界が恐ろしいものだとしても彼さえ自分の知る彼でいるのなら問題などないと、そう信じていた。

「ナマエちゃん、ついたよ」

夏油に声をかけられて初めて、もう自分の住むマンションの前までタクシーが到着していることに気が付いた。ナマエは開いたドアから慌てて降りて、彼は少し待ってくれるように運転手に言ってから後を追うように車を降りる。
エントランスまでのほんの少しの道のりが今はひどく重苦しく感じた。下校やデートの帰りに送ってもらう時にはあんなに甘やかな時間なのに。

「それじゃあ、私はここで」

彼がエントランスに足を踏み入れる手前で動きを止めた。ナマエだけが慣性のように内側に入り、まるで自動ドアが境界線のように見えた。夏油がすっと一歩引く。踵を返してしまうのだ、と思って咄嗟に口を開いた。

「あのっ…夏油くん…!」

呼び止めたけれど、何を言うべきか分からなかった。思考は混乱したまま取り戻せなくて、彼がいかに遠い存在であったかを突きつけられたことに心臓が痛くて、鼓膜に焼き付く暴力的な音が拭えなくて。
夏油は眉を下げると、ナマエに向かって手を伸ばし、頬に触れる寸前のところで離れていった。

「……おやすみ、ナマエちゃん」
「おや、すみ…」

彼が踵を返し、待たせているタクシーのもとに戻っていく。境界線の内側にナマエを残したまま、タクシーは走り去ってしまった。無意識のうちに所在をなくした視線が足元に落ちて、視界の端に彼が巻いてくれた真っ白な包帯が目に入った。
結局のところ、自分は何一つ足りていなかったのだ。夏油の生きる世界ごと受け入れる覚悟も、器も、なにもかも。



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