12 琥珀糖の指先


新学期が始まっても、状況の根本的な変化は訪れなかった。学校では夏油とばかり過ごしていて誰からも話しかけられることはなかったし、放課後も夏油とばかり過ごした。彼がそもそも腫れ物に触るような扱いを受けていたこともあったからか、教師陣も二人の交友関係に切りこんでくることはなかった。

「夏油くん、今日一緒に帰れる?」
「ごめんね、今日はちょっと用事があって」
「そっか」

だから夏油に予定があるときはひとりきりで、しかしそれに対して寂しさのようなものはなかった。顔色を窺って相手の望む返答をしなくていいのは快適だったし、困るようなことは何もなかった。

「代わりと言っては何だけど、週末デートしない?」
「うん!どこいく?」
「そうだなぁ…じゃあ、クリスマスに行き損ねたカフェに再チャレンジしよう」

誰もろくに通らない敷地の端の庭のようなところでそう約束をした。ここは教室棟からも離れているし実習室のようなものが多い棟だから、昼休みには殆ど人手がないのだ。控えめに向けられる探るような視線から逃げるにはうってつけの場所だった。

「ナマエちゃんと一緒にケーキ買って食べただろ?悟にクリスマスイブ何してたんだよって詰め寄られてさ、あのカフェのケーキ食べたって答えたらどのケーキが一番おいしいのか力説されちゃったんだよね」
「どのケーキが一番おいしいの?」
「それは当日までのお楽しみ」

夏油はそう言いながらナマエの頬に落ちる髪を掬い上げ、耳にかけた。前々から人との距離が近いような気はしていたけれど、付き合うようになってからそれは加速しているように思う。もっとも、それが少しも嫌ではないのだから、構わないことなのだけれど。


その日の帰り、暇を持て余すものなんだと思って祥楽寺駅の書店に行くことにした。特にこれといって買いたい本があったわけではないけれど、暇があれば何となく書店に行くのはナマエの趣味でもあった。こうやって何となくで行った先で面白い本に出会えたりするから不思議だ。

「あれ、ナマエちゃん?」

書店に向かう途中、女子の声で名前を呼ばれた。この声は誰だっけ、と思いながら振り返ると、そこにはクラスの女子がひとり、雑貨店のビニール袋を提げて立っていた。彼女は誰だっけ。そうだ、彼女は他校のサッカー部の男子と付き合っていると言っていた子だ。

「今日夏油くん一緒じゃないんだ。めずらしー」
「え…あ…うん」
「夏油くん戻って来てからめちゃべったりで話しかける隙なかったもんねー」

ずっとここ数ヶ月遠巻きにされていたから、こうして当たり前のように話しかけられるのは不思議な気分だった。そもそも彼女はナマエに真っ先に話しかけてきたマジョリティのグループとはべったりというわけではなくて、学校ではむしろ一緒にいるところを見かける方が少なかった。

「ナマエちゃんさ、今から予定ある?いっしょにここ行かん?」
「え?」

そう言いながらスマホの画面を差し出される。そこには可愛い四角のボトルにイチゴミルクが注がれた写真が載っている。いわゆるSNS映えをするようなドリンクスタンドのようだ。ナマエは首を横に振る理由が咄嗟に見つからなくて、重力に任せて縦に振った。

「マサまじでこういうとこキライだからさー、ひとりで行ったろかと思ってたんよね」

スマホを自分の方に引き寄せると、進行方向をそのまま指さして「行こ」と言って足を踏み出す。他にも誰か呼ぶのかと思っていたが、ひとりで行こうかと思っていたくらいなのだからそういうことでもないようだ。

「えっと…クラスの女の子とは…行かなくていいの?」
「えー、だってシナノたちおるとうるさくない?ま、嫌いじゃないんだけどさ」

ナマエがおずおずと尋ねると、彼女からがからりとそんな台詞が返ってきた。シナノって誰だっけ、と少し考えて、あのクラスの一番中心になっている女子生徒の名前だということを思い出した。正直な話、学校の人間の名前はどれも曖昧で、時間をかければ思い出せるが、うろ覚えなものばかりだった。

「あ、ここここー」

5分ほど歩いたところでドリンクスタンドに辿り着き、そこそこ列をなしているそれの最後尾に並ぶ。テイクアウトスタイルだから回転率は良くて、あっという間に先頭に辿り着いた。

「ナマエちゃんなんにする?」
「えっと。アップルミルクにしよっかな…」
「ん、おっけー」

アップルミルクもあるのか、なんて思っていたから思わず注文して、ああ、こういう店ではもっと色鮮やかで可愛いボトルとマーブル模様の映えるようなものにすれば良かったんだろうかとあとから思い直したが、もうオーダー通ってしまっているしどうしようもなかった。

「向こうで飲も」

彼女が奥の小さな公園ベンチを指さす。吹きさらしの街中で、ビルによって風が遮られる貴重な場所だ。丁度空いているそこに腰かけると、彼女の取り出したスマホでボトルを可愛らしく撮影する。アップルミルクより彼女のイチゴミルクのほうが何倍も可愛らしく映っていた。ひととおり彼女の写真撮影が終わってから、ボトルのキャップを開けてひとくちドリンクを飲む。甘さと林檎の酸っぱさが口いっぱいに広がる。

「うまっ」

彼女も同じようなことを考えていたようで、忌憚なく感想を口にしていた。なんだか流されるままここまで来たが、不思議だ。夏油と一緒に過ごすようになってから学校ではいつも遠巻きにされていたのに。なんでここへ自分を誘ったんだろう。

「…ってことがあってさぁー。…ナマエちゃん?」

彼女がなにかこちらに話しかけていたようだが、考え込んでいたせいで返答し損ねた。ナマエが「ごめん、聞いてなくて」と正直に言うと、彼女は「疲れてる?あ?悩み事とか聞くよ?」と気にしていない様子でそう相槌を打った。

「え、えっと…なんで今日、声かけてくれたのかなぁと思って…」

ナマエは何か収まりの悪いものを感じていたから、いっそこのまま聞いてしまえと口にする。彼女は大きな目を数回パチパチと瞬かせ、意味が分からないといった様子だった。ナマエは咄嗟に何か言わなければいけないような気になり、思わず「ほら、私、いろいろ噂のある夏油くんとばっかり一緒にいるでしょ?」と口走ってしまった。すると、彼女はイチゴミルクを口にしてから一拍考え、ナマエに向かって口を開く。

「あのさ。マサ…ウチのカレシね?もう二回も浮気未遂してんの。付き合って一年で。皆そんなヤツのどこがいいんだって、別れた方が良いって言うんだよね。ナマエちゃんも別れた方がいいって言う?」

話が急に飛んで、彼女は自分と恋人のことを話した。それは確かに一般的に別れた方がいい男なのかもしれないが、だからといって周りの人間が彼女に対してそれを強制することは違うような気がする。

「でも…それでも別れたく…ないんだよね?それならその、自分にしかわからない良いところとか、好きなところとかあるんだと思うし…他人の私が決めることじゃないかな…と思う…」

ナマエの言葉を聞いて、彼女は「ソレ」と言って笑った。一体何がソレなのだろうか。一向に意味が分からないという様子のナマエに彼女がそのまま続ける。

「ウチさ、マサのことそれでも好きやし、なんか許せる間は別れたくないんよね。いま別れたら後悔すると思うし。だから、ナマエちゃんと夏油くんのことも同じだなって思ってる」
「同じ?」
「あ、同じとはちょっと違うかもだけど。夏油くんヤバい噂あるし、なんかよくわからんひとだなーって思うけど、ナマエちゃんにしかわからん良いところがあったりするわけやん?だから、夏油くんと一緒だから声かけないってのはないんよなー」

そんなふうに言ってくれる人がいるとは思わなくて面食らった。彼女は固まりそうな空気を茶化すように「あ、もちろん甘ぁい空気出し過ぎて近寄れんとかはあるよ?」と付け加える。

「ウチ、ナマエちゃんとフツーに喋りたいし」

彼女の名前が「フジ」だったことを、ようやくそこで思い出した。いや、知らなかったわけではないのだけれど何故か、目の前の彼女のピースに初めてハマるような、そういう言い得ない感覚に陥った。ぎゅっとボトルを握る。自分が勝手にイメージを決めつけていたのとは違う、彼女の本当が晒されたような気がした。


週末、予定通り訪れたカフェはクリスマスの時とは違ってすんなり店内に入ることが出来た。メニューを広げ、ケーキセットのページを見ながら彼に質問を投げかける。

「ねぇ夏油くん、五条くんのおすすめってどれ?」
「ああ、悟のおすすめね。アップルタルトが美味しいんだって」
「え、意外」
「ね。私もクリスマスの時のケーキが美味しかったから、てっきりクリーム系言われると思ったんだけどさ」

手の込んだホールケーキがあれだけ美味しかったのだから平均的にどれも美味いのだろうとは思っていたが、それにしても夏油の言う通りアップルタルトとは意外だった。こうなってはアップルタルトを頼むしかないと二人ともケーキセットでアップルタルトを頼み、普段はコーヒー派だという夏油も今日はタルトのために紅茶にしていた。
しばらく待っていると、二人分のケーキセットが運ばれてくる。アップルタルトは上面の林檎に意図的に皮を少しだけ残していて、櫛切りのそれが連続して波のように並んでいる。その上をつやつやとしたナパージュが綺麗にかけられていて、カスタードクリームとフィリングの断面の細かさも相俟って作り物めいていた。

「綺麗だね」
「ホントだ。想像してたよりも繊細な感じだね」

見た目の感想を言い合い、それからいざとばかりに実食する。カスタードクリームが想像よりもふわふわしていて、触感の残ったフィリングとのバランスが良い。甘さも林檎の方に重きを置いていて、カスタードは甘さが控えられているから甘すぎるということもない。


ケーキセットを味わってカフェを出て、それから具体的なデートプランを立てていたわけではないから、どうするんだろうなぁと彼を見上げた。どこか行きたい場所を尋ねられたら、今度こそゲームセンターに誘おうか。前に行ったときはなんだかんだで自分は一切筐体に触っていないからリベンジしたいような気持ちもあったし、それに少年めいた彼の顔をもう一度見たいという気持ちもあった。

「ね、私の部屋来ない?」
「えっ…?」
「いや?」

夏油はナマエを見下ろしながらそう提案した。彼の部屋というのは、クリスマスイブにお邪魔したあのアパートのことだろう。彼の存在をありありと感じさせるあの空間を思い出していると、彼がするりとナマエの指先に自分の指先を絡めた。ぴくりとそれに反応してしまう。

「い、行く…」
「ん。良かった」

きっとこう答えることなんてわかっていたくせに、ちょっとわざとらしくそう言って、だけどそんなことを咎められるはずもない。
そこから二人で祥楽寺駅の駅まで向かって、前と同じように西口の歓楽街を通って彼の隠れ家のアパートに向かう。途中のコンビニで飲み物を買って彼の部屋に上がり、今回はちゃんと最初にコートを脱いだ。少しでも「緊張していませんよ」というふうに見せたかった。
ビーズクッションに並んで座り、彼はテレビをつけて動画配信サービスでなにやら目ぼしいものがないか探し始める。

「ナマエちゃん、何か見る?映画とか」
「うん…えっと…夏油くんのおすすめはある?」
「そうだなぁ。あ、これは?」

そう言って彼が選択したのは何年か前に公開された、日本のミステリ映画だ。都内で起こった三件の殺人事件、その次の現場がとある高級ホテルであると暗号を解読した警察が事件を未然に防ぐためにホテルマンに扮して潜入捜査するというあらすじだった。主演は有名なアイドルグループ出身の芸能人で、公開当初各メディアでこぞって番宣をしていたのをよく覚えている。

「これ、見たことない」
「じゃあこれにしよっか」

ミステリというのはデートの雰囲気にそぐわないのかも知れないが、この状況でラブロマンスなんてまともに見れるわけがない。テレビに配給会社や映画製作会社のロゴが流れる。原作も有名な小説家のものだったはずだが、未読だったから映画を新鮮に楽しむことが出来た。一転二転としていく展開は先が読めずに、緊迫のラストではきっと助かるとわかっていてもドキドキした。
エンディングが流れるころには彼が隣にいる意識も薄れて熱中してしまっていて、エンドロールを眺めながらやっとひと息をつく。夏油は原作も読んでいるんだろうか。映画は確か二作目もあったはずだ。諸々を彼に聞こうとしてふっと顔を上げる。すると、思いのほか近い場所で彼がにっこりと笑っていた。

「夏油、くん」
「ん?」
「えっ、と…その…」

諸々はすべて頭の中から吹っ飛んでいってしまって、解れていたはずの緊張が一気に戻ってくる。どくどくと、自分でも聞こえるほど心臓が強く脈打つ。対して彼はいつも通りの涼しい顔のままで、視線だけでナマエをいとも簡単に射止めた。

「ナマエちゃん、もっと触っていい?」

何をする気なのか、というのを聞くほど野暮ではなかった。ナマエはこくんと頷き、夏油に身を任せる。彼の身体がそっとナマエを押し、やわらかくラグの上に組み敷いた。いつもナマエの指先や髪に触れる彼の手が、ナマエのワンピースの裾から静かに侵入してくる。ぎゅっと少し身体を固く緊張させると、それを和らげるように彼は額に優しくキスをした。

「真っ赤になって林檎みたいだ。食べたら甘いのかな?」
「は、恥ずかしいこと言わないで…」
「フフ、ごめんごめん。優しくするから」

その言葉にこくりと頷く。彼が怖い世界の住人だとして、それでももう好きになったのをやめられるわけではなかった。こんなに熱くて優しい時間をくれるのは彼のほかにこの世のどこにも居はしないのだと、大袈裟とわかっていても、そんなことを思いたくなった。



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