11 真夜中の逢瀬


夏油と恋人同士になってから、いそいそとスマホの通知をチェックする回数が増えた。学校でも一緒にいたけれど、丁度いまは冬休みにはいってしまったから、流石に毎日のようには会えない。彼は学校がないときでも「家の事情」が忙しいようで、メッセージの通知もすぐにつくわけではないけれど、ナマエもそこまでメッセージのやり取りが上手な方ではないから丁度良かった。

「……どーしよ」

自室のベッドの上に転がりながらもう一時間近くどうしたものかと考えている。もうすぐ正月で、正月と言えば初詣だ。初詣に彼氏と行く、なんていうことに淡い憧れがあるけれど、新年早々彼は付き合ってくれるだろうか。
「一緒に初詣行かない?」それとも「お正月空いてる?」にしようか。送信するメッセージを迷いに迷い、結局後者を入力して送信ボタンを押した。

「……はぁ…緊張する…」

どんな返事がくるだろう。年末年始なんてただでさえみんな忙しいのだ。彼に用事があっても落ちこんだらダメだ、と自分に言い聞かせながらスマホを伏せる。だけど返事がいつくるか気が気じゃなくて、何度も何度もチラチラとディスプレイを確認した。そんなことを繰り返していれば、部屋の扉がコンコンとノックされる。父だ。

「ナマエ、ちょっといいか?」
「う、うんっ…!」
「お正月、おじいちゃんちに行こうと思って。ほら、バタバタしててお盆も前の正月も顔見せに行けなかっただろう」
「え、あ……」

盆と正月には時間を作って隣県に住む父方の祖父母の家に里帰りするのが恒例だったのだが、母親の別居離婚騒動で顔を出せていなかった。もっとも、行けなかった理由は父の忙しさだけであり、母は何年もずっと顔なんて出していなかったはずだが。

「えっと…お正月、だよね…」
「うん。あ、友達と約束あった?」

ちらりと視線をスマホに向けてしまったから、それに気が付いた父が気遣ってそう言った。まだ返事を貰ったわけではないのだし、祖父母にも随分会えていないから会いたい。「また後でいいよ」と父が言ってリビングに戻っていって、ナマエはそれに甘えることにした。
父は基本的にナマエに甘い。母親があんな人間だったということや、仕事でろくに家にいないということの後ろめたさがあるのかもしれない。
もしも夏油から正月の予定が空いていると連絡が来たら祖父母の家に行くのは遠慮して、ひとりで年越しをしよう。そう決めてまたディスプレイを見る。通知が来た、と思わず跳ねたが、生憎それはショップのダイレクトメールだった。

「あっ…!」

気もそぞろのまま返信を待ち続けること約二時間。待望の夏油からのメッセージが届いた。恐る恐る開くと、そこには残念ながら『家の宴会の手伝いをしなきゃいけないんだ。ごめんね』と表示されている。家のことなら仕方ない。そもそも正月というものは家族団欒で過ごすものらしいし、彼もそのひとりということだろう。
ナマエはため息をついたあと、リビングで寛いでいる父に祖父母の家に同行する旨を伝えた。帰省は正月の昼から一泊して翌日まで。あまり気負わない距離で行けるし、祖父母に会えるのは単純に嬉しかった。


そういえば、家の宴会、といわれてCMで流れるような鍋なんかを囲む一般的なものを想像していたけれど、ひょっとして組の宴会なのだろうか。そうだとしたらナマエの想像とは随分違う光景が広がることだろう。

「ナマエ、年越しそば食べるかー?」
「うーん、ちょっとだけ。お父さん、私が作るよ」
「いいよいいよ、いつもナマエにやってもらってるんだから」

父はそう言ってキッチンの方に向かい、ナマエはリビングのソファにちょこんと座った。普段は自分が立っているキッチンに父が立って料理をしているのを見ていると、小さなころを思い出す。母親は遊び歩いて家にいない日も多くて、仕事から帰った父が食事を作ってくれることがままあったのだ。

「ナマエ、どのくらい食べる?」
「お茶碗くらい」
「うん、分かったよ」

出汁のいい香りが漂ってきた。結局父もそれほど量を食べる気はないようで、一人前を二人で分けるくらいのこぢんまりした年越しそばが出来上がる。お待たせ、と父が持ってきてくれた蕎麦の具はかまぼことネギだけの簡素なものだが、毎年年越しそばと言えばこんな具合だから、逆に豪華な方が落ち着かないだろう。近くの寺から鐘の音が聞こえ始める。

「いただきます」

手を合わせ、ふうふうと息を吹きかけて適度に冷ましてから蕎麦を口に運ぶ。テレビでは年末恒例の歌番組が流れていて、ナマエのよく知らない歌手が持ち前の美声を惜しみなく披露している。

「ナマエ、今年どうだった?ごめんな、大変だっただろう」
「えっ」

父がそう切り出した。確かに今年はいろんなことが動いた年だったと思う。母親がいないのはいつものことだったけれど、離婚の話がまとまって、それと同じくらいのタイミングで父の栄転が決まった。引っ越しも各種手続きも慌ただしく、夏ごろの記憶は朧げなくらい慌ただしい毎日だった。

「新しい学校、困ったことはないか?」
「うん、大丈夫だよ。もう授業もちゃんとついていけてるし」
「そっか。その…家のことでなんか言われたりしてないか?」
「大丈夫大丈夫。毎日行くの楽しみなくらいなんだから」

心配そうに尋ねてくる父を安心させるように言った。初めこそ家のことで多少好奇の目を向けられることもあったがそんなものは気にしていないし、今は何より「噂の」夏油と一緒にいるものだから、遠巻きになってそんな話も耳に入らない。つまびらかに言えばきっと父は心配するだろうから夏油のことは伏せるが、問題なく学校に行けているのも、毎日楽しみにしているのも事実だ。

「良かった」

父が笑う。父の欲しい言葉はもう心得ている。それを選んで口にすることは造作もないことだったし、そうすることで父が安心出来るならそれでいいと思っていた。
そのまま他愛もない話をして蕎麦を一緒にすすり、食べ終わったあとはさほど興味があるわけではなかったけれど、歌番組を父と一緒に見続けた。

「父さんもう眠いから寝るよ。おやすみ」

結局、父は赤と白の勝敗の行方までは確認せずに、眠気に従って寝室に下がっていった。ぼうっとテレビ画面に視線を向ける。女性の大御所歌手が今年リリースした新曲を歌っている。たしかこの歌はドラマの主題歌になったんだったか。そのあとナマエも知っている男性歌手が自身の往年のヒットソングを歌い上げ、番組はクライマックスだ。赤と白の勝敗の行方はさほど気にならなくて、洗面所に向かって歯磨きを始めた。リビングに戻ってくるともう勝敗の行方は発表されてしまったようだ。

「……ま、いっか」

元々それほど興味があって見ていたわけでもない。あれこれと照明器具や暖房器具のスイッチを切って自分の部屋に引っ込み、ごろんとベッドに寝転がる。

「…はは、良かった、だってさ」

ぽつっとひとりごちた。小さな声がぽんっと室内に反響する。母親のことは諦めていたし、父は一生懸命に自分に向き合ってくれるいい親だと思う。それと同時に、自分が「父の望む答え」ばかりを差し出していることにいつまで経っても一度も気が付いてくれていないのだろうと思うと、悲しいような、悔しいような、何とも言えない気持ちになった。

「しっかりしてて、偉いね」

何度も何度も周りの大人から言われた言葉を口にした。しっかりした子になりたかったんじゃない。ならざるを得なかったんだ。小さいころ、まともに話を聞いてくれる人はいなかった。
何も言わずに分かってほしいなんて言うのが我が儘なことはもうこの年ならわかる。だけど言葉にすることだけがいいことではないと、両親の喧嘩を間近で見ていたらそう思うようになった。

「あれ、着信?」

ぐつぐつと考えていると、不意にスマホが鳴る。メッセージの通知ではなく通話の通知で、こんな時間に誰だろうなとスマホをひっくり返してディスプレイを確認した。そこには「夏油傑」の文字が並んでいた。

「えッ!げ、夏油くん!?」

今日は宴会の手伝いで忙しいと言っていたのに、まさか時間を縫って連絡をくれたのだろうか。ナマエは切れてしまう前に出なければと慌てて緑の応答のボタンをタップしてスマホに耳をあてた。

「もっ、もしもしっ!」
『あ、ナマエちゃん、まだ起きてた?』
「う、うんっ!まだ全然!」

スマホの向こうから聞こえる夏油の声にじんわり耳が温められていく。久しぶりというと大げさすぎるが、学校で毎日会っていたことを思うと久しぶりのような気にもなった。

『ナマエちゃんはいま家?』
「うん。自分の部屋。さっき年越しそば食べたとこ」
『年越しそばか。いいな』

なんてことない会話すべてに心が弾んだ。夏油の向こう側に宴会の気配はない。そういう人たちの宴会だというから、随分と盛り上がっていると思ったのに。いや、電話をくれているくらいなのだから、どこか別の部屋に移動しているのか。ごぉん、ごぉんと除夜の鐘が遠くから聞こえ、夏油の方でも同じように鐘が鳴っているようだ。

『あのさ、ナマエちゃん、ちょっとだけベランダ出てこれるかい?』
「えっ…えっ、もしかして…」
『そう。もしかして』

夏油の言葉に慌ててナマエはカーディガンを引っ掴んで羽織り、自室からベランダに出る。見下ろせば、地上で夏油がひらひらと手を振っていた。スマホから声が聞こえ、それと同時に彼の口が開閉する。

『ナマエちゃんの顔見たくて宴会抜けてきたんだ』

嬉しい。会いたいと思っていたのは自分だけじゃなかった。忙しいと聞いていたから会えないと思っていて、その分嬉しさが何倍にもなって押し寄せた。彼の吐く息が白く染まる。

「いま降りるから…っ」
『だーめ。夜遅いし、お父さん心配するだろ?』
「でも…」

食い下がろうとしたが、夏油が困ったように笑うからそれ以上は言えなかった。確かに何事かと思われるだろうし、例えば彼氏だと紹介したとして心証が悪くなってしまうのは嫌だ。会いに来てくれたのだからそれだけで良しとしなければ。

「夏油くん、この後また家でお手伝い?」
『ああ。だいたいどうせ明け方まで続くからね。ま、後半はお酌してるより片付けしてる時間のほうが長いかな』
「そうなんだ」
『そのまま挨拶回りとかで慌ただしいんだけどさ、3日は空きそうなんだ。だから3日、一緒に初詣行かない?』
「行きたい!」

初詣は無理かとあきらめていたのに、思いもよらない展開だ。そう思うと同時に、あのメッセージの意味するところが「初詣に行きたい」だったと見透かされているも同然で、少しだけ恥ずかしくもあった。幸い帰省も2日には終わる。3日なら父との約束を反故にする必要もない。

『あ、年明けたね』
「えっ、ほんと?」
『あけましておめでそう』

夏油が腕時計を確認して言った。どうやらもう新年のようだ。彼の言葉にそのまま「おめでとう」と返せば「今年もよろしくね」と返ってきて、ナマエもまたそれに「こちらこそよろしくね」と返す。

『顔見れて良かった。また3日に。迎えに来るよ』
「うん、ありがとう」
『おやすみ、ナマエちゃん』
「おやすみ、夏油くん」

そろそろ宴会に戻らなければいけない時間なのか、夏油はそう切り出すとひらひら手を振って歩き出す。新年一番に彼に会えるなんて思ってもみなかった。今年はなにか、とてもいい一年になる気がする。
その後、二人で初詣に行った神社でおみくじを引いた。人生で初めて大吉が出た。彼といると、目の前の世界が次々に変わっていく。自分のことを本当にわかってくれるのは彼しかいないのではないかと、大袈裟にそんなことさえ思いたくなった。



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