10 桃源郷の天女


ナマエに会いたくて学校に行くようになった。自分は顔が広い方だと思うけれど、学校生活においてはその限りではない。訳ありの転入だったし、どこから噂が広まったのかあることないこと噂を立てられ、その上組内のごたごたで不在にすることが多かったからロクな交友関係は築けなかった。一種の諦めもあり、それでいいと思っていたし、学校生活に単位取得以上の興味はなくなっていた。それを変えたのはナマエだ。

「ごめんね、連れ出しちゃって」
「ううん。むしろ助かったかも」
「あ、やっぱり?なんかそんな気がしたんだよね」

初日、彼女は元々のグループの女子生徒と軋轢を明確にしようとしていた。わざわざそれをかたちにする必要はないだろうと話に割り込んで救出した。自然に関わりが希薄になるのは仕方のないことだと思うが、わざわざ自ら不和をけしかけることはあるまい。

「夏油くん、なんでもお見通しなんだね」
「まさか。私だって知ってることしか知らないよ」

人間の知っていることは主観に過ぎない。たまたまナマエの知りたいことやわかってほしいことに気付いただけで、何もかもを見通せているわけではない。
一緒に下校しようと誘って、並んで道を歩いた。他愛もないことを話しながらナマエのマンションまで向かう途中、ナマエの顔が不意に曇った。言い淀むような様子に先を促すと、もごもごと唇をすり合わせたあと、そっと口を開いた。

「夏油くんの、その……悪いうわさ、聞いちゃって…」
「……へぇ」
「ホントその、良くないよね。ヤバい人と繋がってるとかヤバいことしてるとか。本人のいないところであれこれ詮索して悪く言うなんて。ごめんね、私、その話出てるとき上手く言い返せなくて」

言い訳めいた勢いで溢れだす。何と返そうかと思って夏油はひとまず彼女を落ち着かせるために「いいんだよ」と吐き出した。きっと彼女は、それらの話を根も葉もない噂だとでも言って欲しいんだろう。しかしそれは残念ながら噂ではない。隠し立てしたところでどこかでバレることは明白で、逃げる言葉は見つからない。

「……私の親が極道だっていうのは本当だよ」

期待していただろう言葉とは正反対の言葉が返ってきたことに、ナマエが息を飲むのがわかる。仕方がない。せっかく楽しいと思っていたけれど、カタギの人間を怖がらせたりするのは望むところではない。

「どんなこと聞いたんだい?」
「あの、えっと…前の学校で人を殴ったから退学させられたとか…実はホストやってるとか…付き合った女の子をキャバクラで働かせてる…とか…」

ナマエはまるで頭で考えることを放棄したように耳にした噂とやらを口にした。さながらエラーを吐き出すシステムのようだ。どこから流れているのか。いや、そんなものはどこからでも流れるだろう。

「後ろ二個は嘘だけど、最初の、前の学校を暴力沙汰で辞めたっていうのは本当」

ホストでもないし、カタギの女をキャバクラに送るような阿漕なことはしていないが、残念ながら一つ目は本当のことだ。夏油がそう肯定すれば、ナマエは「そう…なん、だ」と夏油の台詞を何も肯定できないといった具合にそう言った。彼女の足が止まり、自分もそれに合わせて止める。「ガッカリした?」と尋ねれば、ナマエはわかりやすく困惑の表情を浮かべる。

「大丈夫、ナマエちゃんに迷惑かけるつもりはないから、もう話しかけたりもしないよ。安心して」

ここらが潮時だ。踵を返し、ナマエの隣をすり抜けていこうと足を踏み出す。すると、ナマエの細い指先が夏油の制服を掴んで引き止めた。

「や、やだ…!」
「ナマエちゃん…?」
「だ、だって、夏油くんと話すの楽しいし、迷惑なんかじゃないよ。話しかけてくれないと寂しい。今まで通りに、して、ほしい…」

必死だということを少しも隠さない彼女のつむじを見下ろす。昔から、自分の家の話をするといつも周囲の人間は遠巻きになった。組のことは好きだし、叔父貴にも親父にも感謝をしている。だけど同時に、自分はカタギの人間が当たり前に持っているものを永遠に得ることは出来ないんだという言い得ない虚無感のようなものがあるのも事実だった。

「……ありがとう」

夏油は制服の裾を掴んでいるナマエの手を掠めとり、そっと指を絡める。ハッと彼女の顔が上がる。「げと…くん…」と、不安定な声音で吐き出される。

「ナマエちゃんの手、小さいね」

彼女は、まさかその穴を埋めてくれるのか。引き返そうとしていた身体を彼女のマンションのほうに向け、またゆるりと歩き出した。ナマエが「夏油くん、明日も学校来れる?」と尋ねるものだから、夏油は当然のように「うん」と返した。


翌日から、ナマエは元々交流のあっただろう女子生徒から遠巻きにされるようになっていた。しかし彼女はそれでいいという。少しも思うところがないわけではないが、彼女が隣にいてくれることは単純に嬉しかった。
健気で、そばにいたいという気持ちを全身で表現しているようだ。祥楽寺駅に遊びに行ったときも、慣れていないくせにゲームセンターに行こうなんて言い出して、「ナマエちゃんは普段どういうのやるんだい?」なんて少し意地悪なことを言えば、ナマエは諸手を挙げて降伏した。途中で五条に出くわしてしまったものだから、なんとも間が悪いことになってしまったが。

「このお店、ケーキのテイクアウトできるんだけど、テイクアウトして私の部屋来るかい?」
「えっ?」
「これだけ混んでると落ち着かないだろうし…もちろん、ナマエちゃんが良ければだけど」

クリスマスにデートに誘ったが、目的のカフェは予想の何倍も混雑していた。とくになにか遊べる場所がある駅というわけでもないのに、この混雑は完全に読みを外した。そういえば、と、このカフェがテイクアウトに対応していることを思い出し、そう提案した。
説得力はないかもしれないが、なにも取って食おうという気はなかった。下心が全くないかと言うと、まぁそれは嘘になるのだけれど。
ナマエが頷くのを待って「フフ、じゃあ決まり」と彼女の手を掴んでカフェの中に足を踏み入れた。


夏油が隠れ家のように使っているアパートは、祥楽寺駅の西口にある築30数年のアパートだ。正確には亡き叔父貴の持ち物であり、それをそのまま遣わせてもらっている。ギラギラと主張をする歓楽街の看板を横目に道を進む。このあたりの店は五条組のシノギだ。ナマエは道中どこか落ち着きのない様子だった。

「お、お邪魔、します…」
「いらっしゃい」

二階の角部屋の鍵を開けると、彼女を招き入れる。ナマエは緊張を隠しきれないまま足を踏み入れ、視線の行き場に困っているようだった。警戒され過ぎるのは本意ではないけれど、警戒されないということは意識されていないということだから、まぁ適度に緊張はしていてほしい。

「適当に座って。今用意するから」
「手伝うよ」
「お客さんに手伝いなんてさせられないよ」

ナマエに畳の部屋へ行っておくように促すと、渋々といった様子でローテーブルの前に座った。普段自分しかいない空間に彼女がいるというのは、なんだか不思議な心地だった。
今日はクリームのケーキだし、コーヒーよりも紅茶の方がいいかもしれない。着ていたコートを適当にかけてからティーバックの紅茶を用意して畳の部屋のほうに向かえば、あからさまにどぎまぎしたナマエがコートを着たまま待っていた。

「お待たせ。紅茶で良かった?」
「う、うん…ありがとう…」
「コート、掛けようか?」
「あっ、うん…」

ナマエはコートを脱ぐのも忘れていたという様子で慌ててダッフルコートを脱いで、ハンガーを持って待つ夏油に手渡した。その下から覗く彼女の私服に少し驚いて目を開いて、すうっと細める。

「その服、可愛いね」
「ほ、ほんと…?」
「うん。ナマエちゃんの普段のイメージとは違うけど…そういう服、好きだな」

オフショルダーの二ットワンピースで、丈は制服のスカートよりも随分短い。白じゃなくてアッシュグレーなのがあざとすぎなくていい。端的に言えばとても好みで、しかし彼女がこういう系統の服を着ているのは意外だった。ナマエは洋服を褒められたのが相当嬉しいのか、パァっと表情を明るくする。

「ねぇ、せっかくだし切り分けずに食べようよ」

パーティーなんだし、少し普段はしないようなことがしたくなった。ナマエもそれに同意して、二人してフォークを手にホールケーキにそれを突き立てる。なるべく崩してしまわないようにそれを掬い上げ、あ、と大きく口を開けて頬張った。ケーキを食べるのは久しぶりだ。ナマエが「んっ、美味しいっ」と無邪気に声を上げた。

「ホントだ。甘さ控えめなんだね。あのお店のケーキ、評判はいいけど食べたことなかったんだ」
「ケーキ食べたことなかったんだ」
「うん。美味しいから食べるべきだって行くたびに言われるんだけどね」

五条と行くたびに彼は毎度ケーキを3つは頼む。夏油はいつもコーヒーばかりで、それを見て五条は毎回「ここでケーキ頼まないとかありえねぇな」とこぼすのだ。それを何となく思い出していると、ナマエがきゅっと言葉を飲み込むような動作をした。

「ナマエちゃん?」
「え、あ…その、よく、あのカフェ行くのかな…と思って…」

ああ、なるほど。あのカフェの客層はなにもカップルばかりというわけではないけれど、今日は日取りがらカップルばかりだった。誰と一緒に行くのか、と聞きたいのだろうということは簡単に読み取れた。

「悟と一緒にね」

相手が五条であることをそのまま伝えると、ナマエはホッと胸を撫でおろした。可愛い。心の中を読みづらいと思っていた彼女が、自分にだけわかりやすくなっていくのは気持ちがよかったし、いじらしくて守りたくなる。ナマエは自分の内心を悟られまいとフォークを手にホールケーキに向かう。

「一緒に行った女の子は、ナマエちゃんだけ」
「え、えっと……」
「あれ、そういうこと聞きたいのかなって思ったんだけど…違った?」

ナマエの顔が真っ赤になった。図星だ。うろうろ視線を動かすけれど、何も言葉は返ってこない。誤魔化すためだけに動かされたフォークは途中で動きを止めていて、夏油はそのフォークを抜き取って皿の脇にちょこんと乗せて、ナマエの指をそっと絡め取る。

「ナマエちゃん、好き。私と、付き合って欲しい」

そばにいると心地いい。趣味の話をあれこれ出来る相手は貴重だったし、話のリズムも歩く速さもぴったりだった。我が儘より先に我慢を覚えてしまった彼女に、我が儘を言わせたい。我が儘を言っていい相手になりたい。ナマエがからがらといった様子で声を出す。

「わ、たしも…すき」
「良かった。両想いだね」

彼女は自分に気があるだろう。それはさすがにわかっていたし、そういう関係になれたらいいと思っていたから思わせぶりな言い回しをしたこともあった。それでもやっぱり、自分の言葉が受け入れられる瞬間というものは、言い得ない満足感のようなものがある。


ケーキを食べ終わって、普段ソファがわりに使っているビーズクッションにナマエが身を委ねている。やっぱり今日の服装可愛いな、と思って見つめていると、ナマエが少し気にした様子で短い裾をいそいそと引き下げてなおした。彼女がこんな系統の服が好きだなんて知らなかった。いままでその姿を他に晒していたのだと思うと妬ける。

「それにしても…ホントに今日の服可愛いね。私以外の男が見てたんだと思うと…妬けるな」
「こ、こういう系の服買ったの初めてなの!えっと、夏油くんがこういう服好きだって教えてもらって…」

ナマエがから返ってきた言葉に思わず反応してしまった。一体そんなの誰に聞いたんだ。確かに好みドンピシャだけど、そんなことまで知っているような人間は数人しか知らない。例えば──。

「ちなみに誰に聞いたんだい?」
「このまえ五条くんにばったり会って教えてもらって…」
「悟か…」

やっぱりだ。予想の通りの名前が出てきたことにため息をつけば、ナマエが不安そうにオロオロ「あの、夏油くんが好きそうな服…選んでもらった、んだけど……」とこちらの様子を伺った。どうせ五条が強引に連れまわしたとかそんな話に違いないとはわかってはいる。

「…悟に見せたの?」
「え、うん。お店で試着したから…」

とはいえそんな無防備なことはこれきりにして欲しいし、少し釘を刺しておいた方がいいかもしれない。そんなことを考えながら自分がもたれていたビーズクッションから体を起こすと、彼女との距離を詰めて肩のラインをついっと指先で撫でた。ナマエの肩が大袈裟なほどびくりと震える。

「これからは、一番に見せてほしいな」
「ぁ……ぅ…うん…」

真っ赤な顔のまま見上げてくるのは可愛いけれど、流石にこれ以上触れたら歯止めがきかなくなってしまう。ビーズクッションにすっと身体を戻すと、ナマエはそのままジッと夏油のほうを熱い瞳で見つめていた。


意識するにつれてナマエはどぎまぎとした様子を強めた。恐らく彼女のペースを自分の存在が乱しているのだと思うとゾクゾクする。そうは言ってもそろそろ家に送ってやらなければと19時を指した時計を見て「もう結構良い時間だね。送るよ」と言えば、ナマエは一生懸命を体現したような声で「今日、お父さん、出張なんだ…」と返してきた。言いたいことはすぐに理解できる。

「だーめ」

ナマエの髪をそっと撫でる。するりと指の間を髪束がすべっていく。彼女のシャンプーの香りが自分の香水の香りに混ざってふんわり鼻腔をくすぐった。

「ナマエちゃんのこと、大事にしたいから」

それからいつものとおり彼女をマンションまで送る。普段と違ったのはエントランスで「おやすみ」と言い合ったことと、何度かこちらを振り返る彼女に小さく手を振ったこと。それからナマエの乗ったエレベーターのドアが閉まるまでその場で見送り続けたことだ。



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